青色の景色


裏から取って来た氷をアイスビンへと流し込む。バイト時間は残り十分程、ドリンクを五、六杯も作れば終わる時間だ。といっても梅雨入りした関東は今日も雨のため客足はそう多くない。ならば店頭でオーダーを待っているより紙ナプキンやミルクの補充をしておいた方がいいかもしれない。

「ねぇ、悪いんだけどレジ代わってくれない?」

そう思い立ちカウンターの外へと出ようとすれば同じ大学の友人が私を呼び止めた。彼女は私の肩を掴み小声で話しながらさらに距離を詰める。

「いいけどどうしたの?」
「次の人、多分あの外人さん…!」

ガラス扉へと目をやった彼女の視線を辿れば新作のメニュー看板の前で足を止めている男性が一人。そして注文が決まったのか傘を畳み、律儀に雫を落してから入店した。

「分かった」
「助かる〜!ありがと!」

英語が話せない彼女の代わりとして自分がレジに立つ。そして改めてその人の姿を見て、おや?と数日前の記憶が蘇った。この人なら私が代わる必要なかったかも。でも会いたい人でもあったから寧ろ彼女には感謝したいくらいだった。

「こんにちは」
「こんにちは。えーっと、これを一つお願いします」
「リシャールさんは甘いものがお好きなんですか?」
「えっ?……ああ!キミは凛ちゃんの!」

茶髪でタレ目の男性は確かに凛のマネージャーとして来日しているリシャールさんだった。髪型と服装が違うから気付いてもらえなかったようだが、改めて挨拶をすれば「こんなに早く再会できるとはね」と人好きのする笑みを浮かべる。しかし、公の場で凛に関わる話を続けるのはまずいと思い咄嗟に英語で会話を返した。

「この前は送ってくださりありがとうございました。取材の仕事は間に合いましたか?」
「あぁ、問題なかったよ。それにしてもキミは英語が話せるのかい?」
「はい。今はフランス語も勉強してます。あんまり上手くないですけど……」
「それは凛ちゃんの影響だったりする?」

その質問には苦笑いを浮かべるしかなかった。そしてちらちらとこちらに視線を送る友人に気付き、そこでようやくオーダーを通す。お会計は電子マネー決済だったので釣銭勘定もなく直ぐに終わった。

「凛は今なにしてますか?」

通常なら会計が終われば受け渡しカウンターへと移動してもらうのだが、後のお客さんがいないのをいいことにリシャールさんを呼び止めた。彼は私が先ほどしたような苦い笑みを浮かべながらやや言葉を詰まらせる。

「元気にしてるよ。いや、日本語で言うなら『キレてる』と表現した方が伝わるかな」
「あー……」

その姿は容易に想像できた。日本にいる間も体力や勘を落さぬように練習やトレーニングはしている。それに取り組む姿から、何も言わずとも察したらしい。きっといつも以上に近寄り難いオーラを漂わせているのだろう。

「彼は見た目よりも分かりやすいね。試合中のメンタルコントロールはさすがだけどプライベートでは不安定だ。それは彼自身が思っているよりもずっとね」

知ってる、知ってるよ。U-20日本代表戦後に会った凛、お兄さんのことを話してくれた凛、合コン帰りに連れ出してくれた凛も、知ってるから分かる。でも自分が傷付きたくないから、分かっているのにいつも私は逃げてしまう。

「あのっ……!」

せめてリシャールさん伝手でも凛に声を掛けられないだろうか。私から凛に送った『話したい』のメッセージには既読すらつけてもらえなかった。そして凛からの連絡も当然ない。だからこれが凛が日本にいる間の最後のチャンスかもしれない。
しかし、その言葉の続きはドリンクを作り終えた彼女の声で遮られた。

「……話し込んですみません。どうぞ、あちらのカウンターへ」
「キミの仕事は何時までかな?」
「え?あと五分くらいですが……」
「じゃあ本日最後のオーダーにキミの好きなものを作ってくれるかな?」
「はい……?」
「それでキミの時間を買わせてもらえないだろうか。さすがに安すぎるかな?」
「いえ!でもいいんですか?」
「男一人のアフタヌーンティーは味気ないからね」

リシャールさんの優しさに甘え、本日最後のオーダーを通した。



終業時間ぴったりにバイトを上がり、更衣室で急いで着替えて店に戻る。そこでリシャールさんの待つ席へと行く前にカウンターへと向かった。予め友人に用意してもらっていた皿二枚を受け取り一階奥のテーブル席へと向かう。

「お待たせしました」
「いいや、急がせてしまって悪かったね」
「そんなことないです!それと、これは私からです。よかったら食べてください」

期間限定のブルーベリースコーン。温められたそれにはホイップが添えられ、上にはそれぞれキャラメルソースとはちみつが掛かっている。これが私のお気に入りの食べ方だ。因みにホイップはカスタムメニューだがソースは無料で掛けることができる。
先ほどの会計時に確認を取ったのでリシャールさんにアレルギーがないことも把握済み。彼はお礼を言ってキャラメルソースの方を受け取ってくれた。

「時間は大丈夫?」
「私は大丈夫です。リシャールさんは?」
「この後凛ちゃんのお迎えがあるけどしばらくは大丈夫」

席についても尚、私たちは英語で話を続けた。できればフランス語で話せた方が他の人の耳には入りづらくはなりそうだが、生憎まだそこまでの語学がないので諦める。
それから私はマグカップに一度口を付けてから正面に座るリシャールさんを見た。

「凛が怒っているのは私のせいです」
「そうだろうね」

怒るとも、また皮肉めいた口調でもなく静かに頷く。そしてフォークでスコーンをひと口大に切り、ホイップを少しつけて口に運んだ。「これは癖になりそうだ」と笑う顔を見てこちらも緊張の糸が緩む。それと同時に私が話しやすい空気を作ってくれていることに気が付いた。だからこそ、ずっと胸の内につかえていた感情もするり言語化することができた。

「凛のことが好きなんです。でもそれを上手く伝えることができなくて、結果的に凛を傷付けてしまいました」

言葉にするとなんでこんなにも薄っぺらくなってしまうのだろう。それは決して日本語でないからじゃない。気持ちも、想いも、関係も。今まで積み重ねてきたものがタンポポの綿毛のようにひと吹きで飛んでいってしまうくらい軽いものに聞こえてしまう。

「フランス人の僕からしたらキミたちはすでに恋人同士に見えるけど、そうではないんだね?」

そういえばフランスには告白文化がないんだっけ。男女で出掛けることもスキンシップも当たり前で、相手の雰囲気や価値観をみて一緒にいたいかどうか考える。

それだけなら確かに私たちは恋人同士なのかもしれない。でもやっぱり言葉がないと不安なのだ。それは日本人故の思考なのかもしれないが、何より私と凛ではいる世界が違い過ぎる。だからふとしたとき、その関係が都合の良い夢ではないかと錯覚してしまうときがあるのだ。

「はい。日本人は本音と建て前を使い分けますから心の内こそ言葉で伝えあってからじゃないと恋人にはなれないんです」

凛に本音と建前があるとは思えないけど……という事実は置いといて、リシャールさんからの質問を否定するために一般的な例を挙げた。

キャラメルソースの掛かったスコーンはすでに半分ほどに減っていた。それを見て自分のスコーンにもフォークを入れる。すでに冷めてしまってはいたがやはりブルーベリーの甘酸っぱさとはちみつの相性はよかった。
リシャールさんは前かがみになっていた背筋を伸ばして椅子の背もたれに寄りかかる。そして宙を見て、それからフッと息を抜いた。

「それは分かるな。僕は日本の大学を卒業してるんだけど、その時好きだった女の子にキスをしようとしたら怒られてね」
「えっ?!」

びっくりして思わずフォークを皿の上に落とす。幸い音を立てただけで割れてはいなかった。
目の前の光景にか、それとも過去の思い出にかは分からないがリシャールさんの口元には笑みが浮かぶ。

「僕はもう両想いなんだと思ってたんだけど、どうやら両想いでも告白は必要みたいだね」
「そうですね」
「まぁその女の子が今の奥さんなんだけど」
「えっ?!」
「しかも勢いでプロポーズまでしてしまってね、お陰様で結婚十年目だよ」
「すごい!」

突然語られたラブストーリーに小さく拍手を送った。そんなドラマみたいな展開があるのだと驚かされる一方で、リシャールさんの流暢な日本語や運転技術に納得がいった。

「ごめん、つい自分の話になってしまったね。ただ、今だからこそ言えるのはあの時言葉で伝えてよかったってことだ。相手に気持ちを伝えるのは勿論だけど自分の気持ちを改めて自覚できたよ」
「なんだか心強い味方ができた気分です」

ようやく笑うことができた私に、リシャールさんも頷いてくれた。それと同じタイミングでテーブルの上のスマホが震える。それはリシャールさんのものでディスプレイには『Rin』の文字が表示されていた。

「ウィ……わかった、じゃあ三十分後に」

十秒にも満たない時間で通話は終了した。おそらくこれから凛を迎えに行くのだろう。食べ終わったお皿は私が片付けておくと名乗り出て、リシャールさんには改めてお礼を言った。

「今日はありがとうございました」
「こちらこそ話せてよかった。それと最後にもう一つだけいいかな」

そして彼は最高の置土産を残していった。

「僕たちは明後日の朝八時五十分の便で羽田から日本を発つよ——Bon courage(幸運を祈る)」





青空広がる五月晴れ、早朝ともなればその色は目に染みて痛むほどだった。でも同じ青なら私は海の方が好き。地元の海は清く澄んではいなかったけれど深みのある青がどこまでも雄大に広がっていた。二人並んで見たその景色は数えるほどしかなかったけれど今も私の脳裏に色濃く焼き付いている——しかし、気付けばその海を見つめるターコイズブルーを追うようになっていた。

「もしかして糸師凛選手ですか?」
「…………は?」
「ファンなので声掛けちゃいました」
「なんでいんだよ」
「リシャールさんに聞いた。今日出国なんだって?」
「あぁ」

羽田空港、第三ターミナル展望デッキ——リシャールさんとは連絡先を交換しており今朝空港に着いた時点で連絡を入れた。そしたら凛は「搭乗時間まで外す」と言ってどこかへ行ってしまったと教えてくれた。ラウンジにでも居座られたら絶対に会えないと思っていたからこちらとしては都合がいい。そして勘を頼りに探した結果、見つけた。

「これ、コーヒーと使い捨てのホットアイマスク。よかったらどうぞ」
「……いい」

ここに来る前に急いで買ってきた紙袋を差し出す。しかし凛はこちらを向くどころかフェンスに沿って歩いて行ってしまう。その背中を追いかけるのはもう慣れっこだ。

「コーヒーはデカフェにしたよ?アイマスクも無香料選んできた」

六月の早朝はやはりまだ肌寒い。そして国際線専用ターミナルのためか人はまばらにしかいなかった。しかも皆、滑走路に目を向けているため凛には気付かない。

「いらねぇからもう着いてく、……っ」

ジャケットの裾を掴んで引き留める。てっきり振り払われるかと思いきや凛はぴたりと脚を止め、踏み出しかけた一歩を戻した。しかし振り返ってくれる様子はない。でも逃げない。だから私は皺になるのもお構いなしに裾を掴んだままその背に言葉をぶつけた。

「私がサッカーに興味持てたのって凛のおかげなんだよね。凛に教えてもらわなかったら未だにルールも分からなかっただろうし、ゴールを決めるまでの過程の面白さにも気付けなかった」

私が凛に伝えたいことを考えてみた。でもその一言で表せられてしまう気持ちに至るまでの経緯には、それこそ一点を決めるくらいの複雑さがあったのだ。

「パスもドリブルもトラップも、自分がボールも持っていない時でさえ凛はゴールを狙ってて。だから試合中はずっと凛のこと見てる。それでね、ゴールが決まった瞬間、自分のことのように嬉しくなるんだ。凛すごい、かっこいいっていつも思ってた。でも凛だから当然でしょって誇らしげになる自分もいるんだ、変だよね」

サポーターの人たちも同じことを思っているかもしれない。でも点が決まるまでの凛のゲームメイクに気付けたのは私だけって勝手に自惚れたりしてる。

「凛は小さい頃からサッカーをやってて私が知ってるのなんて高校からだけど、それでも凛の努力とか覚悟とか、そういうのは誰よりも知ってるつもり。……うそ、ブルーロックに人たちには負けるかも。でも、」

ジャーナリストよりもゴールシーンだけを報道するニュース番組よりも。糸師冴の『弟』として見ている一般人よりも、BLTVで凛を好きになった女の子たちよりも。

「私が糸師凛の一番のファンだから」

対凛においては現地サポーターにだって負けない自信がある。そしてそれを決定づけるのはファンである前に凛のことが好きだからだ。

「それで——」
「やめろ!」
「え…………」

凛が振り返ったと同時に手が宙を舞う。風に遊ばれた髪の隙間から見えた凛の顔はタコかってくらい赤かった。なんかこうゆう凛を見るのは高一ぶりくらいな気がする。そうなると展望デッキが学校の屋上のように見えてきて、唐突に懐かしくなった。

「お前はっ…なんでいつも唐突なんだよ!」
「唐突っていうか、だってもうフランス行っちゃうじゃん」
「日本にいる間にいくらでも時間あったろ!」
「私の連絡無視したのは凛でしょ?」
「は?……あぁ、アプリの通知消してたからか」
「やっぱり……」

今やメールよりも使われるようになったメッセージアプリなのに徹底してるというか何というか……だってあれがなければ友達との連絡手段だってなくな……おっとこの話はやめておこう。

「こっちがようやく覚悟決めたってのに」
「勝手に完結させないでよ。それにまだ答えてなかったでしょ?」

僅かに目を見開いた凛を見つめ返す。あの時は逃げちゃったけど今日はちゃんと言わせてほしい。

「私の一番は凛だよ」

糸師凛の一番のファンであるのと同時に、私の中の一番は凛なのだ。いつからなんて今さら分からないけれど、これは今確実に言えること。
凛の唇が震えて息を呑むのが分かった。そして僅かに瞳が揺れて、それから脚を一歩踏み出した。そのコンパスを活かしあっという間に距離が詰められる。そして気付けば私の視界からは青空が消え凛でいっぱいになっていた。

「待って!」
「……っ?!」

顏と顔の隙間に手を滑り込ませ、ぺしっと凛の口を抑え込む。すると一瞬唖然として、しかしすぐに眉根を寄せられ大層ご立腹な顔をされた。ほんと、カフェの無料WiFiくらい切れやすくて困る。

「あ?邪魔だ、退けろ」
「まだ私の話が終わっていないんだが?」
「そうゆう流れだったろ」
「はい?もしかしてフランスかぶれしてない?ここは日本、そしてあなたは日本人です」
「んなコト知ってるわ」

両者一歩も譲らないまま拮抗していれば、その場に電子音が鳴り響いた。それでもしばらくは硬直状態のまま。しかしさすがに今回はまずいと思ったのか四コール目で電話を取っていた。どうやらタイムオーバーのようだ

「リシャールさん?」
「あぁ。そろそろ戻って来いってよ」

スマホをポケットに戻した凛に、今度こそ紙袋を差し出す。そしたらちゃんと受け取ってくれた。しかしこちらの気持ちは伝えそびれたまま。

「次は私が行くからね」

見事お預けを喰らってしまったわけだが三ヵ月後にはまた会える。今回は期間が明確なだけあってマシな方だ。それに自分から会いに行ける。

「ゼッテェ連絡しろよ」
「分かってるよ。あっ最後に後ろ向いて!いつものやってあげる」
「それなら——」
「時間ないから早く!」

凛の腕を引っ張って、身体を無理やり回転させようとする。現役スポーツ選手相手になんとも無謀な挑戦をしたわけだが、結局凛が折れて後ろを向いてくれた。そしていつも通り気合を入れて——その背中に抱き着いた。

「なっ…?!」
「いってらっしゃい!」

そしてパッと離れてお決まりの平手打ち。不意打ちだったのか凛が一瞬よろける。そして五秒ほど微動だにせずに立ち尽くしたのち、口元を手で覆いながら顔だけで振り返った。

「いってくる」

恋焦がれたターコイズブルーが悔しそうにしていて、すごく愛おしくなった。

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