ボンジュール パリ


日本を深夜二時に発ち約三時間のフライトを経て韓国へ。そこで七時間ほど時間を潰し昼前に仁川国際空港から明るくなった空へと旅立った。
交通費を抑えるための乗り継ぎはものすごく面倒だったし、格安航空を使ったせいか座席も窮屈でほとんど眠れなかった。でもそれは決して座席だけの問題ではなく私がかなり浮かれていたせいもあるのだと思う。

——糸師凛が二得点に絡む活躍でP・X・G二連勝!!——

お気に入りに登録してある海外サッカーを報じるウェブサイト。そこに掲載されているニュースを遡っては、凛の名前が載った記事をタップして読み返す。その記事には八月から開幕したフランスのプロサッカーリーグ——リーグ・アンでの凛の活躍が書かれていた。

——リーグ・アン第三節、日本代表FW糸師凛が先発出場を果たしP・X・Gを勝利へと導いた。試合が動いたのは前半二十八分、敵陣右サイドで味方からパスを受けた糸師はゴール前で鋭いクロスを放ち見事初ゴールを決めた。
そして後半四十分、コーナーキックの流れからゴール前ニアサイドにポジションを取った糸師に味方からのパスが届く。糸師は頭で擦らせるようなシュートを放ち、このボールは相手ゴールキーパーに防がれたものの、こぼれたところをFWジュリアン・ロキが押し込み二−〇で試合は終了した……——

海外で目まぐるしい活躍を見せている凛の試合は画面越しでしか見たことがない。でも今回の旅行ではP・X・Gの試合日程に被せて渡仏した。凛が試合に出場するかは当日まで分からないけれど、この調子ならスターティングメンバーとして起用されるであろう。

『Ladies & gentlemen, we will be landing at Charles de Gaulle International Airport in about 30 minutes.』

機内アナウンスがあと三十分程でシャルル・ド・ゴール国際空港に着陸することを伝える。現地時間は十八時頃ではあるが外は昼間のように日が照っていてパリの街がキラキラと輝いていた。フランスの日の入りの時刻は季節ごとの差が大きいが九月頭はまだ日が長い。

予定通りの時刻に離陸し、自分のキャリーケースを持ってエントランスを目指す。
周囲は当然ながら外国人ばかり。辺りを飛び交うフランス語や英語、偶にドイツ語やスペイン語も混ざっておりいよいよ来たなって感じ。また、少し驚いたのはその場の匂いだった。周囲を漂う甘さとスパイシーさが混ざった香りは普段香水を付けない私からしたらちょっときつい。住むとなったら文化や食生活以外にも気苦労は多そうだ。

『空港着いた!今から市内に移動します!』

機内モードをオフにしたスマホからメッセージアプリを立ち上げ凛に連絡をする。ホテルに荷物を置いたら夕飯を食べに行こうと約束していたのだ。

看板の指示通りに歩いて行けばパリ市内を走る高速列車の乗り場へと辿り着く。車内の座席は日本の特急列車にあるような向かい合わせのボックス席だった。しかしシートがネオンカラーに近い奇抜な色合いで照明も相まって近未来的に見える。
幸い混みあってはいなかったので一つのボックス席にキャリーケースを押し込んでゆったりと使わせてもらう。そして発車のタイミングでスマホが震えた。

『分かった。駅まで迎え行く』

その返事にはスタンプ一つ送りスマホをジャケットのポケットにしまった。

ようやく来れたフランス。この旅行は来年に控えている留学のための下調べ目的ではあるがもう一つ大きな意味合いがある。それは凛に会って気持ちを伝えること。ほんの少しだけ凛に近づけた今の自分なら言える気がする。

私はこの旅行で糸師凛に告白をする。



癖のない電子音声が列車の到着を告げ扉が開いた。キャリーケースが大きいので乗客を見送ってから最後に下りるつもりでいたのだが、そんな私に隣のボックス席に座っていた男性が近付いてきた。

「随分と大きな荷物だね。ホームまで運ぶのを手伝うよ」

フランス語は聞き取れた。どうやら列車を下りるのを手伝ってくれるらしい。とても親切な申し出ではあるがフランスでなくとも日本人は海外で詐欺のカモになりやすいと聞く。目の前の男性は三十半ばと言ったところで身なりも綺麗だし、にこやかな笑みからとてもそういう風には見えない。でも用心に越したことはない。

「ありがとうございます。でも、」
「じゃあ行こうか」

しかしこちらが断る前に男性はキャリーケースの持ち手を掴み歩きだしてしまう。日本語の癖なのか、先にお礼を言ったのがまずかったか。ただ、今は反省をする前に目先の荷物である。

「おっと……」
「っ、すみません!」
「気を付けて」

慌てて男性を追いかければ列車を下りたところで人にぶつかってしまう。謝りつつも見失ったら終わりだと思い、立ち止まりはしなかった。もしかしてこのまま持ち逃げされる……?と内心焦り出したところでようやく彼は足を止めた。どうやら人の邪魔にならない壁際まで荷物を運びたかったらしい。

「ここで大丈夫かな」
「はい。ありがとうございました」
「どういたしまして。いい旅を」

にこりと微笑んで彼は人混みの中へと消えていった。どうやら私の心配は杞憂だったらしい。というか現地の人とフランス語で会話できていたことに感動している自分すらいる。といっても単語くらいしか話せてなかったけど。
改めてキャリーを持ち直し改札へと向かう。それでどっちの方角に出ればいいんだっけ。凛に連絡を取るため再びスマホへと手を伸ばした。

「…………あれ?」

ジャケットの右ポケット。確かにここに入れたはず。でも、ない。確認のため左側のポケットに手を入れてみるが何も入っていなかった。次いで鞄の中を確認するが財布やパスポートはあれどスマホはどこにもなかった。そして思い出されるは、わざとらしく声を掛けて来た男性と先ほどぶつかった人物のこと。あー…これはあれだ。

やられた。



「だから気を付けろって言ったろ!」
「返す言葉もございません……」

フランスに来て早々、スリと言う名の洗礼を受けた私は半泣き状態であった。
駅員に事情を説明しているところで、連絡が取れないことを心配した凛がホームの中まで来てくれて合流。そして凛にも事の経緯を伝えれば私よりも滑らかなフランス語で駅員に取り合ってくれた。

「本当に怪我はねぇんだろうな」

今でこそオカン顔負けの説教をしている凛ではあるが私の姿を見つけるや否や全力で走って来てくれてとても心配してくれた。それが度を越して駅員さんを睨みつけたことは褒められたものではなかったけれど嬉しかった。そして今もまだ心配してくれている。

「それは大丈夫だって」

身体は本当になんともないが心は大分疲弊している。幸いにも来る前にクラウド上で色々と設定していたので凛のスマホを借りて自分のスマホにロックを掛けることが出来た。これで電話帳のデータが抜き取られたりカード情報が漏れることの二次被害は防げるはずだ。
念のため日本の電話会社にも連絡を入れ電話も止めてもらった。また、海外旅行保険にも加入していたため現地の警察から盗難証明書をもらえば後に保証を受けられるはずだ。

「アジア人の、加えて女が一人でデカいキャリー引いてりゃ格好のカモだ。鉄道はバスに比べて死角も多いからスリも多い」

諸々の事を片付け外へと出ればすっかり日は沈んでいた。時刻は二十一時を過ぎており道行く人らからはアルコールの匂いがする。

「うん……」

すっかり気を落した私はその空気を吸い込みながら鼻を啜った。唯一持って来た電子機器が失われ不安しかない。でもスマホくらいで済んでよかったと考えるべきか。怪我がなかったのは勿論だが、これが財布やパスポートだったらもっと大変なことになっていただろう。

「まぁ……ほんと、無事でよかった」

普段のように言い返さない私に、凛も気を使ったらしい。きっとまだまだ言いたいことはあっただろうに、それ以上この話題に触れることはしなかった。

「そういや今夜泊まるとこは大丈夫か?」

泊まるところ……と聞かれ、また別の不安が私を襲う。ホテルの予約は事前に取ってあるしクレジットカードで支払いもできている。ただ、スマホがなければ地図情報も見れないわけで辿り着けるかはかなり怪しい。そして連絡手段が断たれた今、次に何かあったらそれこそ終わりだ。

「予約は取ってあるけど場所が分からないかな」
「ホテルの名前は分かるか?」

うろ覚えではあったが場所だけはちゃんと覚えていたので凛のスマホでマップを開き、ホテル名を確認してから電話番号を調べた。もうチェックインの時間はとうに過ぎている。とりあえず連絡はしないと。

「またスマホ貸してもらってもいい?……凛?」

しかし凛はホテルのホームページを開いたまま、スマホをこちらに貸そうとする気配がない。左手を顎に当てその画面を凝視したままだ。凛の考えていることが読み取れずにもう一度名前を呼べば、そこでようやくこちらを見てくれた。そしてくすみがかったピンク色の唇がゆっくりと開かれる。

「お前、俺の家泊まれ」
「…………は?」

おや?何かの聞き間違いかな?しかしフリーズした私を余所に凛は画面をタップしホテルへと電話を掛ける。その時の会話は早すぎて聞き取れなかったわけだが、通話が終わり凛が私のキャリーケースを手に取ったところでようやく理解した。

「どうした?」
「いや、『どうした?』じゃなくて!」

キャリーを握る凛の腕を掴んだ。凛の行動の意味は分かる。きっと私が考えていることも凛には容易に想像が出来たのだろう。だからこそ言ってくれたのだ。まさに願ったり叶ったりではあるがこれは色々とまずい。

「さすがに家には泊まれないって!」
「俺がいいっつってんだろ」

文字通り転がり込めれば凛に告白するチャンスはいくらでもあるだろう。でもそれは段階が早いというか何というか……そしてもう一つ、無視できない大きな理由がある。

「こういうのってスキャンダルとかになるんじゃないの?」

先ほど対応してくれた駅員さん然り、凛を見てあの℃師凛だと分かったらしい。業務中のため騒ぎ立てることはしなかったけれど別れ際には「次の試合も楽しみにしているよ」とこっそり伝えていた。

アジア圏よりもフットボールが熱いヨーロッパだ。加えてフランスは近年バックに大富豪たちの資金が流れ込み一大市場と化している。そのため今や優秀な若手選手が育ちその注目度も年々高くなっている。日本人選手であれど——いや、逆に日本人だからこそ欧州リーグで結果を出している凛は目立ち、期待をされている。

「何も問題ねーだろ」

あの時にリシャールさんからも釘を刺された。パパラッチがひどい海外ではより注意が必要なのではないだろうか。

「大ありだって」
「ない」

私の了承を得ないまま凛はキャリーケースを引きずって行ってしまう。そして私も引きずられる。それはもう片方の手が私の右手を掴んだからだった。

「めんどくせぇからタクシー使うぞ」

タクシー乗り場に行けば三組ほどが並んでいた。しかし後ろから流れ込んでくるタクシーの様子を見るにそこまで待たずに済みそうだ。現に一組目が乗り込んで列が前に進んだ。

「よくないよ。凛だけじゃなくてチームにも迷惑が掛かる」
「選手のコンディション維持のためにシーズン中のそうゆう行為は厳しくチェックされんだよ。記事にでもされたらクラブの弁護士が動く」
「でも一般の人に撮られてネットに上げられる可能性だってある」

今の時代、本当に怖いのはファンの目だと思う。味方にも敵にもなる彼らには刺激になるようなネタを与えてはいけない。

「だからなんだ。俺はサッカー選手で実力で試合出てんだよ、アイドルでもモデルでもねぇ」

目の前にタクシーが着けられた。凛が運転手に声を掛ければトランクが開けられる。そこへ四泊七日分の荷物が入ったキャリーケースが収められた。そしてキャリーを掴んでいた手が私の手を掴む。

「行くぞ」

タクシーに押し込まれてドアが閉められた。凛が運転手に行き先を告げれば静かに夜の街へと走り出す。

「凛、ありがと」
「おう」

繋がれたままの手を握り返して、窓の外ではなく凛を見た。





パリ郊外の高層マンションが凛の住まいだった。オスマン建築様式の石造りのアパルトマンではないところを見るにおそらく近年に建てられたものなのだろう。しかし高層マンションと言えど花の都≠ニしての歴史的文化を残すためにパリの建築物には地区ごとに厳しい高さ規定が用いられる。現にこのマンションは十二階建てだ。

「あんま広かねぇケド」
「と言ってもうちよりは広いでしょ?」
「まぁな」

タクシーを降りてエレベーターで五階へと上がる。そのフロアの角部屋が凛の家のようで中へと案内された。

お邪魔します、と告げて足を踏み入れる。そこで一番に目に付いたのはL字型のキッチンだった。海外のデザインらしく食洗器や冷蔵庫がキッチン台の下に完備されているのでとてもコンパクトに見える。そして玄関から五歩も歩けばダイニング兼リビングに辿り着いた。カウンターテーブルとその向かい合わせにイスが二脚、そして壁際にはソファがありその前にはローテーブルが置かれている。テレビの横には本棚としても使えそうなシェルフがあり、そこには雑誌や盾なんかが並べられていた。

そしてリビングの右手にはベッドルームがある。そこはベッドの大きさと同じ幅だけの壁が空間を分けているだけで扉があるわけではなかった。玄関からリビングまでの間に扉を一つ見かけたがおそらくそこがシャワールームとトイレがある洗面所なのであろう。

「フランスって感じの家だね」
「基本、家具家電は備え付けだからな」

色が統一されているのとサイズ感が恐ろしいほどにフィットしていたのはそのせいか。でもシンクに置かれていたプロテインボトルとか、イスに掛けられたままのジャケットとか。
所々に凛の気配がちゃんとある。ここで生活してるんだなって感じる。

「ラグが敷いてある。ここは土足厳禁なかんじ?」
「初めはそうしてたケドめんどくさくなってやめた」
「凛らしい」

パリ郊外とはいえ首都に近いここは交通の便から見ても好立地だと思う。また、人口密度の高いこの街でベッドルームまであるというのは中々に贅沢なつくりだ。きっと私が想像している以上に家賃は高い。

「荷物ここに置いとくぞ」
「ありがとう」

不躾に部屋を見回してしまったが凛は特に気にする様子もなく私のキャリーケースをカウンターテーブルの横に置いた。

「……っ、お前はその辺テキトーに座っとけ」

つい癖で自分のスマホを探してしまったことが恥ずかしい。電子音を発し続けるスマホ片手に凛はキッチンの方へと歩いて行った。

「ふぅ」

一人残されたところでお言葉に甘えソファに座らせてもらう。三人は座れるであろうソファは奥行きもあり、背もたれに体を預ければ包み込まれるように体が沈んだ。
いつも凛はこのソファに座ってテレビを見ていたりするのだろうか。といってもサッカーの試合かホラー映画しか見なさそうだけど。

ソファの上にはクッションが一つありそれを手に取り抱えれば、ふわりと凛の匂いがした……ちょっと自分、きもちわるいかもしれない。でもどことなく安心する。おまけに遠くでは凛の肉声が聞こえる。フランス語だし内容までは聞き取れないけれどスマホ越しよりもクリアなそれがやけに心地よかった。

「電話終った。そういや飯どうすっか、また外出るか宅配頼まねぇと何も……マジか」

そして家に来てわずか十分、張りつめていた緊張が解けたことと時差ボケが相まって即寝落ちした。


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