所有物


入口からフロントまで真っすぐに伸びた赤絨毯の上を七センチヒールで闊歩する。出迎えてくれたドアマンには笑顔を、フロントのスタッフには気さくな態度で話しかける。でも心臓は緊張で嫌な汗をかいていた。ただこうも堂々としていられたのはメイクと服装のお陰かもしれない。

「こんにちは」
「こんにちは、ホテルエテルネルアリアへようこそ。本日はご予約ですか?」
「七〇七号室で待ち合わせをしているの。お相手の方はもう来てますか?」
「確認しますのでお名前を教えていただけますか?」

伊達メガネのフレームを指で触りながら予め決めておいた偽名をフロントで告げる。それからものの十秒もしないうちに確認が取れ、無事にエレベーターへと乗り込むことが出来た。
そして七〇七号室の前で深呼吸。一度心を落ち着かせ、そして覚悟を決めて扉をノックした。

「…………は?」

開けられたドアの先、緊張感の欠片もない間抜けな声で凛に迎えられた。いつもの切れ長の目は見開かれ私のことを見つめている。

「えっ呼び出しといてその反応?」

ビジネスウーマンと言うほどではないが今日はオフィスカジュアルコーデでまとめてきた。スタイリストはもちろん我らがソユンである。ホテル従業員はさておき、仕事としてホテルで待ち合わせをしているという雰囲気を出した方が周囲の注目を集めないだろうという配慮であった。ただでさえフランスの地ではアジア人は目立つ。

「いつもと違ぇから一瞬誰か分からなかった」
「それなら大成功かな」
「とりあえず入れ」
「うん」

凛の後についていく形で室内へと足を踏み入れる。部屋はベッドとテーブル、イスが一脚だけある手狭な部屋であった。日本で言うところのビジネスホテル位の部屋の広さではあるが全部屋浴槽付きであることから相当いいホテルであることが分かる。ホテルの立地も考慮すれば星四はくだらないであろう。

「あれは全部嘘だ」

勧められるがまま私はベッドに腰掛け、凛はイスを持って来て向かい合うように座った。そして開口一番のセリフはそれだった。

「うん、ちゃんと分かってるよ」

サッカー選手、糸師凛の熱愛報道——その報道が世に出て一週間。凛の方は報道を全否定しているが相手側が何の反応も見せないため未だにネット上では好き勝手な憶測が飛び交っている。

「ホテルにいたのは試合後の後泊。そんで寝付きが悪ぃから外歩き行って戻ろうとしたときに撮られた」

その時の試合はアウェー戦でP・X・Gはマルセイユまで出向いていた。試合開始時刻は夜でさすがに日帰りでは選手の負担になる。そこでクラブが手配したホテルに宿泊したのだが同じ日に件の女優も泊まっていた。

「タクシーから降りて来たソイツは相当酔ってて、俺を誰と勘違いしたかは知らねーが抱き着いてきて……クソッ」

さすがの凛も見捨てることはできなかったのかその女性に肩を貸してフロントまで連れて行ったらしい。しかし見ようによっては二人でタクシーから降りてきたように思われるだろうし、抱き合っているように見られてもおかしくはない。さらにそこにメディアの手が加われば面白おかしく掻き立てられるのも必然だった。

「凛は人として当然のことをしただけなんだから何も悪くないよ」

試合の時に見せるようなイラつきとはまた違った様子に心配になる。現に凛は右手で片目を覆うようにして前髪を握りつぶしていた。

「別に落ち込んじゃいねーよ。ただ鬱陶しいだけだ」

ため息交じりの吐き捨てるような言葉は本心であろう。
あと少しすればウィンターブレイクに突入するがそれでもまだ年内の試合は残っている。メンブレまでは起こしていないようだがそれでも精神的に参ってしまうのは仕方のないことだろう。だから私は努めて明るい声で淀んでいる空気を振り払った。

「凛はちゃんと言ったんだし凛のことを応援してくれてる人には理解してもらえたと思う。それに嘘まみれの噂なんてすぐ消えるよ、ほら人の噂も七十五日っていうし」

ソユンに言われた言葉を思い出す。今は家の近くやクラブ付近で凛のことを張り込んでいる記者たちもいずれ飽きる時がくる。それにあの人たちはミーハーでもあるから新しいネタが舞い込めばすぐに乗り替えるであろう。

「七十五日も待ってたらお前がこっちにいる間の時間が無駄になるだろーが」
「え?」

七十五日と言ったら約二ヵ月半。今は十二月で私がフランスにいるのはあと六ヵ月ほど……ちょっと待って。もしや凛の機嫌が悪い理由って——

「パパラッチの目が怖いからってお前が俺んとこ来んの渋るだろ」

そっちかー!そう思ってくれるのは嬉しい、嬉しいけども一般人の私には荷が重すぎるんだよ!この前のプチ炎上ですら怖気づいたのに、凛の家に向かう日本人ってだけで彼らにとっては十分すぎるほどのネタになるだろう。

「当然でしょ。それに私が撮られることで一番困るのは凛だよ?」

本当は今日だって会いたくなかったのだ。凛からは電話で記事がデタラメであることの説明はあったし、私も凛のことは信用してるからそれで納得はした。そしてパパラッチを刺激しないためにもしばらく会うのは控えようと提案したのは私だった。

「別に困んねぇよ」
「私は凛の負担になりたくないし迷惑も掛けたくないの。だから会わないのが一番いいと思ったんだよ」
「勝手に自己完結してんじゃねーよ」

しかしそれに対して凛はお得意の「は?」の一言で返してきた。もちろんこの一音には負の念が込められている。だから今同様に、凛にも迷惑が掛かると色んな言い方で伝えたのだが理解は得られずに。そして挙句には大学まで乗り込むと言ってきたものだから私の方が折れたのだ。

「完結させてなんかないよ。最善の方法を提案しただけ」
「それが押し付けだって言ってんだよ、この自己中野郎」
「凛に言われたくないんだけど」
「俺のコトは俺が決める。そもそもお前がいらねぇ世話焼いてきたのが原因だろ」

凛が自分に無頓着すぎるからこうなってるんだよ——いや、違う。もしかしたら私は初めから凛の気持ちを汲み間違えていたかもしれない。確かに私が凛に会わない方がいいと言ったことにもイラついてるだろうし、嘘の報道にはキレている。今この瞬間だって話が二転三転して言い合いみたいになっちゃってるけど私は本質を見間違えてたかもしれない。

「凛、」

ベッドから立ち上がれば凛の眉間に皺が寄る。私がこのまま立ち去るとでも思ったのか。でもそれに対して動揺するでもなく獲物を狩るような眼をしているのはさすがはエゴイストと言ったところ。

「……っ」

私は一歩踏み出してイスの肘掛けに置いていた凛の手を取る。それにはさすがに動揺したようだったがターコイズブルーは私を見つめたままだった。

「レ・アール戦の後、会いに行かなくてごめんね」

凛にとってはようやく叶った糸師冴との試合。その試合で負けてしまった凛に私は寄り添うことができなかった。当たり障りのない言葉を送り核心には触れようとせずに。
その結果、凛の報道が出るまで独りにしてしまった。
以前、凛がハットトリックを決めてくると言った試合で自分の理想とする結果に繋がらなかったことがある。その時、自分を責める凛の姿を見た——だからこそもっと早く気付くべきだったのだ。

「傍にいてあげられなくて、ごめん」

この人は自己中で頑固で負けず嫌いで、私の知る限り世界一のエゴイストだ。だからこそ自分に厳しくて、頼ることも甘えることもしない。でもエゴで塗り固めたその奥底にはガラスのように繊細な小さな男の子が眠っている。お兄ちゃんの言葉と共に夢を見て、お兄ちゃんの背中を追いかけていたあの日の子どもは今もまだ彼の中にいる。

「は?勝手に妄想膨らませて感傷に浸ってんじゃねぇよ。俺が兄貴に負けて泣いてるとでも思ったか」

朝になっても丸一日経っても返信がない時点で気付くべきだったのだ。

「……確かに全部私の妄想だよ。でも私は、凛の帰る場所になりたかった」

サッカーに関してのアドバイスはできないし、凛の考えていることは未だによく分からない時もある。それでも愚痴があれば聞いてあげたいし悲しいことがあれば寄り添いたかった。フィールドで殺し合いをしている凛の心休まる場所になりたいと、そう本気で望んでいる。

「クソが」
「……っ?!」

手を包んでいたはずの手首が不意に引っ張られる。その勢いのまま座っていた凛の上に乗り上げた。膝上のタイトスカートが不格好な形になり思うようにバランスが取れない。しかし私の背中はすぐさま支えられる。そして掛けていた伊達メガネが奪い取られたと思ったらその手は私の後頭部を掴んだ。

「んぅ……ッ」

そのまま引き寄せられ唇が触れあう。噛み付くようなキスだった。というか現に血の味がする気がする。絶対歯が当たって唇が切れた。一歩間違えれば暴行罪だ。それとあのメガネ借り物だから壊れると困るんだけど。今ここで凛が二つの罪を犯したことは敢えて明記しておく。

「…ぁ、……っ」
「……ンンッ」

角度を変えて、求め合う。息遣いと唾液が混ざり合う水音が脳を揺さぶって身体を熱くさせた。

「りん、」

キスの合間に名前を呼べば一瞬だけ目が合って。後頭部を掴んでいた手が頬まで下りてくる。親指の腹で頬を数回撫でられ、そして再び唇が重なり合った。先ほどとは打って変わって、やさしいキスだった。

「……そう思うんならずっといろよ」

濡れた唇が空気に触れて寂しさを覚える。そして目を開けるも凛の姿は視界に映らずに、しかし首筋にはぬくもりがある。凛が私を抱きしめたまま顔を埋めていた。

「どこにも行くんじゃねぇ、傍にいろ。なんならあの家に住めばいいだろ部屋余ってんだから」

凛の後頭部に手を伸ばし髪に触れる。そしてそっと撫でた。私はどこかの誰かさんと違って力技で押さえつけるタイプではないので。

「それができたらいいかもね」
「なんで濁すんだよ」
「学校もあるから現実的に難しいでしょ?」
「そこは嘘でも言えよ」

凛も頭では分かってるだろうに癇癪を起した子どものように言う。抱きしめる腕は強くなって苦しかった。でもそれが凛なりの愛情表現であることは心得ているつもりだ。惚れた弱みと言うべきか、それとも毒されたと考えるべきか。ともかく甘えてくる凛に私は弱かった。

「生憎、今の私はアンドレアだから威圧的な人に負けたくないんだよね」
「ミランダほど横暴じゃねぇだろ」
「もしかして今笑うところ?」
「殺すぞ」

しかしそれと何でも我儘を聞いてあげるのはまた別の話である。それに向こうが意見を押し通すのならば私も私の意見を述べさせてもらおう。そうでなければエゴイストなこの男と長く付き合っていくことはできない。

「ごめんごめん。でもその場だけ取り繕っても意味ないよ、私はこれからも凛といたいんだから。だから私がいることだけは覚えておいてほしい」

時間とか距離とか、互いの生活とかその時の環境とか。どうにもならないことはこれからだってたくさんある。でも自分の気持ちだけは他の何からも干渉されない。

「ならお前も忘れんじゃねーぞ。お前は俺のモンだ」

その台詞、昨今の男女平等社会において嫌われるワードNo.1のやつじゃん。彼女は物じゃないですよ。でも、だからこそ私は凛のその態度に乗ってやろうと思った。

「凛、」
「なっ……」

肩に手をついて体を支えて前のめりに。その勢いに身を任せて目元に口付けた。発色の良いルージュは確かにグラスなどへの色移りはしにくいとの謳い文句ではあったが、押し付けるようにしてしまえばそこには薄っすらと朱が移った。

「凛が私の物だよ」

痕付けちゃった、と言葉を続けて呆然としていた凛に笑ってみせる。ターコイズブルーとの対比によりその痕は一層際立っていた。

「ハッ……んだよそれ」
「いつもお返し」

首元、鎖骨、胸と、一日では消えない痕をいつも残される。それに比べれば洗えば落ちる痕なんて可愛いものでしょ。

「許さねぇ」
「えっあ、ヒッ……!?」

だがしかし、年中カルシウム不足の男にとっては可愛くない悪戯だったらしい。体が浮いたと思ったら平衡感覚を失っていた。お腹に加わる圧迫感、そして一瞬見えた部屋の壁。両脚はがっちりとホールドされ靴は脱げ落ちた。そんな天地がひっくり返った世界で凛に担がれていることが分かった。

「落ちる落ちる落ちる!」
「もう下ろすわ」

広くもない部屋では大した移動距離もなく、ものの数秒で私の運送は完了した。配達地点は言うまでもなく私が最初に座っていた場所である。しかし今はそこに寝転がっている。そして視線の先にあるのは天井ではなく凛の顔。

「下ろすじゃなくて落とすじゃん」
「痛くはなかったろ」
「割れ物を丁重に扱うのは運送の基本原則でしょ」
「結局、物扱いでいいのかよ」

私の頬を撫でるその手はやさしい。そして私を見つめる瞳も。だからもう、それだけで十分だった。

「凛にならいいよ」

重なった唇と、肌を撫でる熱を帯びた指先。汗の湿ったにおいに包まれて、呼吸もままならない状況に溺れそうになる。余裕のない甘く低い声に脳を揺さぶられ、名前を呼ばれる回数はいつもより多かった。

だからもう、言葉なんかいらなくて。
本当にそれだけで十分だったのだ。

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