2と3は切り離せない


寝顔も風邪で弱っている姿も幼少期の姿すら写真で見たことはあるけれど、この姿の凛は初めて見たかもしれない。

「……さっきから何見てんだよ」
「えっ」

いつの間にか見入っていたのか視線に気付いた凛が顔を上げた。耳に入れていたイヤホンをテーブルに転がし怪訝な顔をする。

「なんだ?」

すぐに、邪魔してごめんと謝ってみたものの、凛はやる気を失ったのかダイニングチェアの背に体重を掛け改めて私を見た。別にそんな改まって言うことでもないんだけどな。そして言ったらキレられそうだから言いたくないんだけど。だが、凛の目力が無駄に強いせいで気付いたら馬鹿正直に答えていた。

「凛が勉強している姿、初めて見るなぁと思って」

私はノートパソコンと共に大学の課題をこなしていたのだが、気付けば凛も私の向かい側で勉強をしていたのだ。最初はなんかやってるなぁくらいにしか思っていなかったのだけど紙を滑るシャープペンの音が聞こえ、盗み見るように凛の手元に注目してみればルーズリーフになにやら書き込んでいて。そしてその横に開かれている本には見慣れない言語が並べられていた。

「同じクラスだったろ」
「休み時間にとりあえず課題プリントを埋めるのは勉強とは言わないんだわ」
「授業は受けてた」
「私の知る限り教科書を捲っていただけだと……」
「あ?」

ただでさえ鋭い目つきが余計に鋭くなったので明後日の方向をむく。だって事実じゃん。
でもそんな凛がプロサッカー選手になった今、勉強をしているのは意外である。傍から見れば人生の『成功者』で約束された未来を独走している凛が今さら何を学ぶというのだ。

「それ何の本?」

課題レポートにも区切りがつき、データを保存してノーパソをテーブルの端に寄せる。そして身を乗り出すようにして印字された文字を目で追った。一見、アルファベットの羅列に見えるが単語のスペルは英語のそれではない。

「ドイツ語のテキスト」
「ドイツ語?」
「あとはスペイン語とイタリア語」

先ほどはノーパソの影に隠れていて見えなかったが開いているテキストとは別に二冊の教材が置いてあった。凛に差し出されて見てみれば日常会話などに特化した初心者向けのものらしい。

「将来的には向こうのクラブチームに行くの?」
「かもしんねぇからな」

三ヵ国語話せるだけでも十分なのにまだ覚えようとしているのか。でも自頭は悪くないし要領も良い方だからマルチリンガルになったとておかしくはなさそうである。それにしても凛は凛でこれからのことしっかり考えてるんだな。

「凛はすごいね」
「別に……今はおおよその読みと聞き取りくらいできればいいくらいにしか思ってねーよ」
「それでも十分すごいって。サッカー以外のところでも頑張ってるんだね」

まぁ辿れば結局サッカーに関わることにはなるんだけどね。それでも教えてくれる人がいない中でゼロから何かを学ぼうとする姿は素直にすごいと思う。

「おい、」

興味本位でパラパラとスペイン語の本を捲っていれば伸びてきた手に奪い取られた。ケチだな、と思っていれば「もう終わったのか?」と主語がない台詞が飛んでくる。そうだ、私のレポートに区切りが付いたらスーパーに行こうって約束してたんだった。

「準備できたか?」
「うん、大丈夫」

十二月の寒さに負けないように服を着こんで家を出る。凛はダウンジャケットと黒のキャップ、私はコートにプラスしてマフラーとニット帽を被ってはいるがやはり寒い。東京よりもこちらの方が平均気温は低い。

「う゛ー寒い!私もダウンジャケット買おうかな」
「年明けはもっと冷え込むからな、早めに揃えといた方がいいぞ」
「だよね。でもその前に手袋かなぁ」

日本のアパートに忘れてきた手袋のことを思い出しながら両手を擦り合わせる。すると当たり前のように横からスッと手が差し出された。そっと左手を重ねれば二人分の熱はダウンのポケットに仕舞われる。

「手袋はいらねぇだろ」

ダンスに誘うようなその仕草には内心いつもドキリとしていたりする……というのは本人には言わないけど。

「いるよ。右手は寒いし」
「そっちもコートのポケットにしまっとけばいいだろ」
「転んだら危なくない?」
「だからコケねぇように繋いでやってんだろうが」

子どもじゃないんだけど。でもポケットの中でもしっかりと握られていた手には確かに説得力があった。

「じゃあ頼りにしてるね」
「コケねぇ努力はしろよ」

いや、そこは甘やかすところでしょうが。
でも道路側を歩いてくれるところとか、買い物のときも何も言わずに重い方の荷物を持ってくれるところとか。ちょっとしたことが当たり前になっていて気付けば欲張りになっていたのかもしれない。

ただ、こういう小さな幸せを積み重ねているようなやり取りが私は好きだった。





大学は冬休みに突入し凛もウィンターブレイクに入った今、私は凛の家に来ていた。凛に年末はどうするのかと聞かれ、お金もかかるし日本には帰らないことを伝えたら「ならこっちに来ればいい」と言われて今に至る。だからもう、かれこれ一週間ほど凛と一緒に過ごしていた。

「……あつい」

そして毎朝、寝苦しくて目が覚める。その原因は私の上に羽毛布団と毛布に加え長い腕が乗っかっているからである。おまけに長い脚も巻き付いている。私はいつから抱き枕になってしまったのだろうか。

「よっと」

起こさないよう腕の中から抜け出してベッドに寝ころんだままスマホへと手を伸ばす。タップして画面を明るくすれば『January 1 8:06』と表示されている。そして日本にいる家族や友人達から新年のメッセージが届いていた。

「いま…なんじだ?」

一つ一つに返事を打ち込んでいれば隣の山が動き出す。凛が私より目覚めるのが遅いのは珍しい。そして起きたばかりのぽやぽやした凛は可愛かった。

「八時過ぎ」
「……ねすぎた」
「今日くらいはいいんじゃない?」
「ン、……」

薄っすらと開けていた瞳がゆっくりと閉じられる。丸みを帯びた頭をそっと撫でてやれば再び腕が巻き付いてきた。いや、起きてるんかいと思わずツッコみたくなってしまったが寝ぼけている凛には何を言っても無駄であろう。

「……ん?」

私も二度寝をするため布団に入り直そうとすればスマホの画面がひとりでに光る。どうやら新着のニュースが届いたようで反応したらしい。一瞬見えたポップアップには『大物女優、ついに関係性を認める』といった如何にもなゴシップ記事の見出しが表示されていた。

——世間を騒がせていた凛の熱意報道ではあったがそれは意外な形で人々から忘れられることになった。それがこの女優の報道である。

元より事実婚が主流のフランスではあるがパートナーがいる相手との恋愛は、日本で言うところの不倫と同じくらい印象が悪い。その疑惑が人気且つ有名女優に掛かかれば世の興味は一瞬にしてそちらに移った。つまるところ、みな新しもの好きで、そしてよく燃えるものが好きなのだ。

スマホの明かりを落し改めて布団に入り込む。目を閉じて深く息を吸い込めば凛の香りがした。それだけで安心できて、幸せで、このぬくもりを一生感じていたいと思う。

凛の服を僅かに掴めば布団の中で抱き寄せられた。やっぱり起きてるじゃん。でも離してほしくなかったから、気づかなかったふりをした。





二度あることは三度ある、ということわざがあるが、これってどこまでを同じにするかで回数は変わってくると思うんだ。例えば対象者や範囲でもかなりの差があるだろう。だからこそその一番大きな括りで見たらこれは起こるべくして起こってしまったことなんだなって。だって私のと合わせたら三回目だったから。つまりはそう考えることで自分を無理やりにでも納得させたかったのだ。



「はぁはぁ、…っ」

路面には昨夜降った雪が残っていて足元は滑りやすい。しかし互いにゴム厚底のスノーブーツを履いてきたおかげでアスファルトの歩道を走ることができた。

「次の角曲がるよ!」
「うん…!」

私の手を握って半歩前を走るソユンの言葉に頷いて左に曲がる。そこは店の裏口が並ぶ路地裏で一.五人分ほどの幅しかなかった。しかも道はかなり複雑で日が差し込まないのも相まって雪が大分残っており通りづらかった。

「そっちはどうだ?」
「見失った!」
「留学生なら寮暮らしだろう、寮前で張り込んだ方が早くないか?」
「昨日それやって捕まんなかったんだよ」

途切れ途切れの単語では話の内容までは分からないが、追うのを諦めてくれたことは分かった。
そのまま息を整えながら足早に路地を進んでいくと寮がある道にまで出て来れた。大学から寮までにこんな道があったなんて。

「私が表から入ってあいつらの気を逸らしとくから今日も裏口から入って」
「ごめんね、ソユン」
「気にしないで」

黒髪を靡かせソユンが堂々と道を歩けば寮の前で張っていた人らの視線が一斉に彼女に向けられた。同じアジア人だからか、よく見ないと見分けがつかないようだ。囮役を買って出てくれた彼女に感謝して静かに寮の裏へと回り込んだ。



何故こんな事になっているかと言うとまたも熱愛報道が出てしまったからだ。しかも今回はデマではなく本当の内容であるから逆に質が悪かった。

——ウィンターブレイクを彼女と過ごす 本命は一般女性か——

凛のウィンターブレイクが開けた次の日にその記事は出された。そこには休暇中の凛の様子が事細かに書かれており、そして写真が何枚も掲載されていた。凛の隣に映っているのは間違いなく私で、顔は隠されていたけれど服装と背格好を見れば身近な人は勘付くだろうと思った。加えて『日本人女性』と記されてしまえばそれは決定的なものになる。

そこからは毎日がパパラッチとの追いかけっこだった。そして厄介なのが私に声を掛けてきたり勝手に写真を撮ってきたりするのがその人たちだけじゃないってこと。大学に通う学生や店にいた一般人であろう人にもスマホを向けられたりする。ここまでくると疑心暗鬼になってすれ違う人全員が自分を見ている気さえ思えてくる。

「つかれた……、っ?!」

自分の部屋へと辿り着いたタイミングでスマホが震える。過敏になっているのかちょっとしたことでも驚いてしまう。というのも、今回の報道のせいでまたも私のSNSのアカウントが騒ぎになったからだった。鳴り止まない通知に、早々にSNSのアカウントは消してしまったがそれでもトラウマレベルでスマホの通知には敏感になっていた。

『急だけど今夜予定を付けることが出来た』
『十九時くらいに迎えに行けると思うけど時間は大丈夫かな?』

おそるおそる確認してみれば凛のマネージャーであるリシャールさんからだった。今回の報道は全くの嘘ではないため私と凛との間にリシャールさんが入ってくれている。この連絡は一度、凛とちゃんと話せるようにとリシャールさんが組んでくれた予定だった。
届いたメッセージにはもちろんJésusと返す。でも、どこか気が重い自分がいた。



「鍵はこれね。フロントは通らずにそのまま部屋に行ってくれていいからね」
「ありがとうございます。それと今回のことはすみませんでした」
「もう謝らないでいいよ。その代わり凛ちゃんときちんと話しておいで」
「はい」

時間ぴったりに迎えに来てくれたリシャールさんの車に乗り込みホテルへと案内された。車内で部屋の鍵を受け取って地下駐車場からそのままエレベーターで目的のフロアまで上がっていく。幸いなことに途中でエレベーターが止まることはなかった。

「よぉ、中入れ」
「うん」

部屋のインターホンを押せば疲れ切った顔の凛に迎えられた。昨日も試合だったのだ。それに加え私以上にパパラッチに追いかけられているのだから無理もない。

「お前の方は大丈夫だったか?」

二人掛けのソファに凛が座り、私はその斜め横にあった一人掛け用のソファに座る。少しでも顔を見ながら話した方がいいと思ったから横には座らなかった。

「なんとかね。まさかこんな芸能人みたいな体験を自分がするとは思わなかったよ」

苦しい、辛い——そんな言葉がよぎったけど今の凛に負担を掛けたくなかったから冗談めかしながら言ってみせる。
凛はそんな私のことを肘掛けに乗せた腕で頬杖を突きながら見ていた。それから一度組んでいた脚を下ろして前かがみになって、両膝の上に肘を付き祈るような形で両手を組んだ。

「俺はお前との関係を言ったっていいと思ってる」
「は……」

部屋は確かに空調が効いてるはずなのに場の空気が一瞬にして凍ったことが分かった。それは凛も感じているだろうに、しかし今までと変わらず落ち着いたトーンで言葉を続けた。

「隠してるからこうなんだよ。公表しちまえば少なくとも追われるコトはなくなる」

確かにそうかもしれないけど、でも私の立場は変わらない。一般人である私が好奇の目で見られることは変わらないしパパラッチでなくても写真を撮ろうとしてくる人はいる。公表してしまえば凛は楽になるかもしれないけど私はもっと追い詰められることになる。

「でももっと知ろうとする人は出てくるよ」
「今報道されている通り『一般女性』って認めちまえばそれ以上の言及はねーよ。アイツらにも最低限のモラルはある」
「それで記者の人たちは牽制できても相手が私だって気付いている人たちは言及してくるよ」
「……何かされたのか?」

凛の問いかけに口ごもる。でも黙っていても解決はしない。だから知らない人に写真を撮られたことを話した。他にも大学内で噂されていることや寮の人たちに「なんで隠してたの?」と質問責めにされたことも言った。

「写真を撮られるのはともかく、そんなのほっときゃいいだろ。別に悪いコトなんかしてねーんだから」

こういう時に凛とは住む世界が違うんだなと実感させられる。これが有名税というやつか。でも生憎私は一般人だ。凛と付き合っているからといってそれを払ってやるつもりはない。

「悪いことしてなくても私はそこまで堂々とできないよ……」

周囲からの評価に捉われないくらい自分に自信があるわけでもない。向けられる視線に無神経でいられるほど図太いわけでもない。凛のように私はそこまで強くいられない。

「寮の奴らにごちゃごちゃ言われんのが嫌ならこっちに住めばいいだろ」
「っ、だからそれは…!」
「大学までの送迎には一人ドライバーを雇う。車移動なら写真に撮られるコトもねぇしこれで問題ねーだろ」
「なんでそこまで……」
「これからも一緒にいるためだろうが」
「……っ」

今のをプロポーズと捉えていいのだろうか。ほんのわずかに浮かれてしまった自分に苦笑しつつ、今はそれどころではないと脳を切り替える。

「そっか」
「あぁ。後はお前が決めろ」
「うん」
「今さら遠慮もいらねぇからな。元より余ってる部屋もお前用に用意したものだ」
「え……?」

なんとなくそんな気はしていたが改めてそう言われて、どきりとする。でもなんだろ。やけに胸がざわついて掌に汗が滲んだ。

「大学から距離はあるが首都へのアクセスは悪かねぇ。食材も日用品も徒歩圏内の店で揃うから生活もしやすいと思う」

私の留学期間は一年だ。それももう半年過ぎた。凛はまたシーズンが始まって、長い休みも当分ないから一緒に暮らすような生活も留学中にはもうできない。それなのに何故、そんな話をするのだろうか。

「それってどういう意味……?」

まるで私がフランスに住むみたいな話を。

「は?大学卒業したらこっち来んじゃねぇの?」

私がいつそんな話をした?
自分の進路はまだ決めてない。ぼんやりとやりたいことはあるけれど何の仕事に就けばそれが叶うのかは自分でもわかっていない。だからこそ私は留学を決めたのだ。それを探すために、視野を広げるためにフランスに来た。

「……凛はさ、十年後自分は何してると思う?」

凛がそんな先のことまで考えてくれていたことは嬉しい。嬉しいけど、飛躍し過ぎて今の私にはそこまで見えていない。

「三十代前半だからまだ現役なのかな」
「急になに言って……」

フランスに興味を持ったのは凛のお陰だし、留学まで決意できたのは凛がいたからこそだとは思う。でも、今は目の前の凛すらちゃんと見えない。

「じゃあ二十年後は?まだ選手?国内リーグにいたりするのかな。でも色んな国の言葉を話せるなら海外で指導者としてもやってけそうだよね」

凛が思い描いている未来は素敵なものだと思う。私も将来的には欧州に関わる仕事に就くつもりだし海外で生活する覚悟もある。そのための留学だ。凛との生活も楽しいしこの先も一緒にいたいと思う。だけど——

「凛は二十年後、自分がなにしてると思う?」
「……そんな先のコト分かるワケねーだろ」
「それと同じだよ!!」

私にすらわからない未来を、凛に決められたくない。

「凛にとっての十年後、二十年後が私にとっての一年後、二年後の話なんだよ!」

勝手に私の人生を決めないで。
凛と一緒にいる未来があったとしても私は私だ。その未来も私の意思を持って私が選ぶ未来なんだよ。例え結果が同じでも決めるのと決められるのは違う。

「悪いけど私たちのことは公表しないで欲しい」

凛が想像している未来が今の私には見えない。
凛と同じくらいの覚悟が私にはない。
凛の傍にいられる自信がなくなった。

「おい、なんで泣いて……、ッ」

伸ばされた手を叩き落とした。この手に触れたら自分がダメになると思った。凛の優しさは今の私にとって毒でしかない。

「しばらく凛には会わない」
「は?」

凛が私の未来を勝手に決めたように、私も凛の未来を勝手に決める。

「会わない方がお互い楽になれると思う。私の方は大丈夫だから凛はリシャールさんと今後のことについてちゃんと話して」

ふざけんなとか殺すの一言でも飛んでくるかと思った。寧ろそうあってほしかった。その言葉があれば自分可愛さに被害者ぶれると思った。……私は最低な人間だ。


「…………っ」

それなのに、そんな顔しないでよ。
見たくなかったしさせたくもなかった。
でも正直私は自分のことでいっぱいいっぱいで凛を気に掛けられるほどの余裕はなかった。

「ごめんね。ばいばい」

これ以上、凛を傷つけないために足早にこの場を立ち去った。

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