リラの咲く頃


リラの咲く頃、まだまだ朝晩は冷え込むものの昼間は太陽の日差しが温かい。日本の場合は桜の開花に合わせて徐々に春の訪れを感じるものなのだがヨーロッパの場合は突如として春がやって来るものだから衝撃的だった。昨日と同じように登校をしたある日、校内の芝生一面に小さな花が咲き乱れていたのだ。そして山はミモザのレモンイエローに染まり、その美しさに甘い香りが街を包み込んでいるようにさえ錯覚する。長く辛い、冬の寒さを経てからの春の訪れは人々をとても陽気にさせた。

「あっ優さんこっちです!」
「いた!よかったぁ会えて!待たせちゃってごめんね」

黒髪のポニーテールを揺らして現れた優さんは眉を下げて謝った。相変わらずのさっぱりとした性格も若々しい見た目も出会った頃と変わっていない。ただ一つ変わったところを上げるならば以前よりも芸術家としてもっと有名になったことだろうか。

「時間大丈夫ですか?」
「えぇ、十五時に迎えが来るからそれにまでになっちゃうけど……」
「なら駅周辺にいた方がいいですよね。優さんタルトは好きですか?駅近くに店内で飲食ができるパティスリーがあるんです。そこのタルトが美味しいみたいなんですよね」
「いいね!そこ行きたいかも!」
「じゃあ行きましょうか」

新進気鋭のアーティスト、蜂楽優が手掛ける作品は日本のみならず世界的にも注目されるようになっていた。そしてついに芸術の都パリでも優さんの個展が開かれたのだ。その『廻物展』は連日盛況でフランスのニュース番組でも取り上げられるほど。有難いことに優さんからチケットを頂き私も見に行ったのだが多くの人が一つ一つの作品に足を止め、細部まで見入っていた。

「昨日はせっかく来てくれたのに挨拶もできずにごめんね」
「全然気にしないでください!テレビカメラも来ててお忙しかったですよね」
「そうなのよ、ほんと緊張しっぱなしで……」
「昨日のドレス姿も新鮮で似合ってましたよ」
「ありがと。でも慣れないヒールのせいで足はめちゃくちゃ痛かったのよね」
「壇上から降りるときよろけてましたもんね」
「もうやだ!そんなとこまで見てたの?!」

可愛い優さんを眺めながら作品の感想も伝えていれば目的地に着く。そしてタルトタタンと紅茶をそれぞれ注文して席に着いた。

「すごい!もうフランス語もペラペラね。こっちに来てもう八ヵ月くらいだっけ?」
「そうですね。去年の夏から一年間の留学って形でフランスで生活してます」
「じゃあ学校が夏休みになったら日本に帰ってくるの?」
「はい、大学の夏休みが七月からなので荷造りが済んだら帰ります」
「となるとこっちにいるのもあと三、四ヵ月くらい?意外とあっという間よね、彼も淋しがるんじゃない?」
「あー……」

言葉に詰まったところでタイミングよく店員さんが現れる。キャラメリゼされた林檎はその見た目からも味が染みこんでいるのが分かり、生地はしっとりとして美味しそうである。『世界最高の失敗作』と呼ばれるその見た目こそ映えはしないが味は間違いない。

「すごい!さすが本場って感じね!」
「早速食べましょうか」

フォークで切り取りまずはひと口。林檎の酸味と砂糖の甘さの中にほんのりした苦みと香ばしさがあるので見た目ほどくどくはない。一緒に頼んだアッサムのミルクティーも相まって値段以上に贅沢な気分になれた。

「彼とは上手くいってないの?」

ティーカップを持った優さんがそう静かに聞いてきた。無理に聞き出すわけでも、また興味本位で聞いてきたわけでもない。私がここで誤魔化しても優さんはしつこく聞いてきたりはしないだろう。でも、その優さんのやさしさと久しぶりに話した日本語にひどく懐かしさを覚え気付いたら口を開いていた。

「もう三ヵ月くらい会ってもないし連絡も取っていないんですよね」

私との報道に関して凛は黙秘を貫いた。記者に何と聞かれてもネットに何と書き込まれても、何も答えなかったし弁明も訂正もしなかった。その間にリシャールさんとクラブチームが動いてくれてそれ以上メディアが取り立てることはなかった。

「大変だったみたいね。実は廻伝手で少し聞いてたんだ」
「そうだったんですね……」
「貴方の方はもう大丈夫なの?」
「はい」
「ほんとに?」
「嘘じゃないですよ。元気づけてくれた友人がいたので」

私の方は落ち着くのにかなりの時間が掛かった。それでも精神的に参ることなく学校にも通えていたのは友人であるソユンのお陰だ。変装という名目でいつもと違うメイクや髪形にしてくれたこともあったし、気分転換の意味も込めてジョギングに連れ出してくれたりヨガなんかも教えてくれた。写真を撮られそうになれば「どうせなら可愛く撮ってもらいましょ!」なんて言って笑ってみせた。そんな彼女に本当に救われたのだ。

「そっか。その顔を見るに本当に大丈夫そうね」
「心配してくださってありがとうございます。でも凛の方は……」

確かに騒ぎは収まったが凛は不調が続いているらしかった。年明け後の試合から上手くディフェンスを抜けず、パスを貰っても点につながるシュートが打てずにいた。どんなに優秀な選手でもスランプはある。しかし凛はそこで負荷のかかる練習を続けたのだろう。ここ最近ではオーバーワークのため強制休暇をクラブチームから言い渡されたのだと、ネットニュースで読んだ。

「廻も心配してたわ。でも連絡とっても無視されるんですって」
「でしょうね。人に弱いとこ見せるの嫌いな人だから」

食べかけのタルトタタンに再びフォークを入れる。一度噛めば柔らかく煮詰められた林檎はパイ生地と一緒に口の中でじんわりと溶けていく。紅茶は少し冷めてしまったがそれでも香りはまだ残っていた。

「報道が落ち着いたのに今も会ってないってことはまた別の理由があるの?」

優さんも同じようにタルトを口に運んでいた。その様子を眺めながら私は苦笑し、どこまで話そうか迷って。でも結局は全て話してしまった。

「凛は私との未来もしっかり考えてくれてたみたいなんですよね」
「若いのにしっかりしてるわね〜!ただ、貴方の気持ちも分かるわ。新しいことや楽しいことに挑戦してるときってそれ以外のこと考えられないわよね」

特にキャンパスと向き合ってるときは周りの声や音が聞こえなくなっちゃうもの、と笑ってみせる。一人で勝手に空気を重くしてしまったと思っていたので優さんの表情と言葉に少し気が楽になった。

「凛の気持ちは嬉しかったんですけど受け入れられなくて突き放しちゃって……あの時の行動が正しかったか、今でもよくわからないんです」

寝る前にいつも考える。でも結局答えは今も分かっていない。
私の話を一通り聞いた優さんは「自分の話になっちゃうけど」と一拍置いてからさらに話を続けた。

「私は好きなことを仕事にできたけど絵を描いて『楽しい』ってまた思えるようになったのは最近なんだ」
「スランプだったってことですか?」
「それとはちょっと違うかな。初めは好きだから絵を描いてたけど『芸術』って形で評価されるようになると人の目も気になったりするのよね」

明確な判断基準がないものだからこその悩みであろう。音楽や絵、舞台などは人の感性によって評価され求められる。勝ち負けがはっきりとしているスポーツとは違ったものが芸術にはある。

「その板挟みで苦しい思いもしたし悩んだりもした。だからあの時ああしてればよかったのかなぁって思う時も偶にあるのよ」
「そうなんですか?」
「うん、でも後悔はしてない。過去にたくさん悩んだからこそ今の自分があると思ってるし今の作品が出来上がったとも思ってる。だからね、」

優さんは顔を上げてにこりと笑った。その顏は故郷にいる親の顔を思い出させる。優さんは自分の親よりも若いけれどその表情は確かに一児の母であった。

「彼に寄り添うことも周りの意見に耳を傾けることも大事なことだし間違ってない。でも最後は自分で決めること。じゃないと選んだ道の先が自分の思い描いていた未来と違った場合、相手を恨むことになってしまうから。自分で決めたことなら『後悔』は『経験』になるわ。これが貴方より少しだけ長く生きてる私からのアドバイス」

その言葉でようやく凛を傷つけてしまった根幹が分かった気がした。私がいつまでも自分の進路を決められないでいたから凛に一人で考えさせてしまったんだ。
凛は高校にいた頃から自分のやりたいことが決まっていてそれを私に教えてくれたのに、私は自分の話を凛にしたことがあまりなかった。だから凛のことを不安にさせてしまったのかもしれない。

「優さん、私自分の将来のことちゃんと考えてみます。凛のことも含めて」
「うん!私でよければ相談に乗るからね。基本的に昼夜逆転生活送ってるからいつ電話かけてくれても大丈夫!」
「優さんちゃんと寝れてますか?!」

テラス席から舞い込む風はまだ少し冷たい。しかしフランスを彩るミモザのレモンイエローは確かにその訪れを体現していた。





あっという間の一年だった。特に優さんと話をした春休みが明けてからは毎日が瞬きの間に過ぎていったように思える。でもそれは同時にとても充実した時間を過ごせたということだ。

「すごい、こんないいホテルでやるんだね」
「なんでも先生の古くからの友人がこのホテルのオーナーで格安で手配してくれたらしいわよ」
「なるほどね。それにしてもドレスコードまであったから焦ったよ、昨日急いで買いに行ったんだ」
「留学生は大変よね。でもそのターコイズブルーのドレス、貴方にとてもよく似合ってるわ」
「ありがとう」
「あっ来た!こっちこっち!」

そして今日終業式を迎えた私たちはお世話になった教授主催のパーティーに参加していた。年度終わりの打ち上げ的なものは普段なら学生だけでわいわいと騒ぐだけらしいのだが、その教授が教職を離任することもありホテルのホールを貸し切った規模の大きなものになっていた。

「いつか日本にも行ってみたいわ!その時はぜひトウキョウを案内して!」
「二日酔いの時に作ってくれたミソスープはとても美味しかったよ。日本に帰っても元気でな」
「ウチにも遊びに来てよ。インドも結構いい所よ」

級友たちと言葉を交わし思い出を振り返る。早く帰って日本の友達や家族に会いたい気持ちもあるがここでできた友人も同じく大切な存在だ。一人一人に声を掛け、握手をしたりハグをしたり写真を撮ったりと挨拶していく。そして横目で教授の様子を窺っていればちょうどひと段落着いたようだった。私はドレスの裾を整え教授の元へと足を向けた。

「先生」
「おお君か!今日は来てくれてありがとう。帰国の準備は大丈夫なのかい?」
「はい、まだ一週間はこちらにいる予定なので……先生には進路のことでたくさん相談に乗って頂き、感謝してもしきれません」

留学して来たときから教授は日本人の私に良くしてくれた。なんでも日本の文化が好きらしくプレイベートでも度々、観光に訪れるほどだった。そして私が将来のことについての悩みを打ち明ければ夜遅くまで相談に乗ってくれた。アジア人の就職先のデータからフランスで求められる日本人だからこその需要、今の自分にあと何が必要か——抱えていることを一つずつ明確化にしていくことでようやくはっきりとした目標に辿り着けた。

「ボクはほんの少し道案内をしただけだ。すべては君自身が考えて行動した結果さ」
「それでも先生が親身になって下さらなければ自分のやりたい事すら見つけられずに日本に帰っていました。だから、私を導いてくださってありがとうございました」

レンズの奥で教授の目が笑った。すると一度眼鏡を外してポケットから取り出したハンカチで目元を拭う。「歳を取ると涙もろくなるね」と溢した言葉は少し日本人臭かった。そして眼鏡を掛け直して改めて私を見た。

「着た頃はセディーユの発音が上手くできなくてサラダ一つ頼めなかった君が見違えるように成長したね。君の未来は光に満ちている、立ち止まることは構わないが前を向いて生きなさい。その先に恐れるものは何もないのだから」
「先生……本当に、本当にありがとうございました!」

パーティーも終わりへと近づき、最後は教授を囲んで皆で写真を撮った。これはきっと私の一生の宝物になるだろう。帰国したら印刷して写真立てに飾ろう。

「この後どうする?」
「いやいやまだ帰れないだろ!」
「それに飲み足りないよね、クラブ行く?」
「私も行きたい!」
「おっ珍しい」

寮でならまだしも留学中は外で飲むことはしなかった。理由は言わずもがな。でもみんなと騒げるのも今日で最後だろうしせっかくなら羽目を外したい。さっきのパーティーで飲んだのも最初の一杯だけだしまだ酔ってはいなかった。

「じゃあ決まりね」
「ここからだと川沿いのクラブが近いか」
「あれ?誰かタクシー呼んだ?」

ホテルから出てすぐのところでクラブの場所を確認していれば、一人が近くに泊まったタクシーを指差した。月が眩しい今の時間帯を鑑みれば大方ホテルの利用客であろう。しかし停まった場所はホテル前ではなく私たちから三メートルほど離れた道端で、その様子に違和感を覚える。そしてタクシーから降り立ったラセットブラウンの髪色を見た瞬間、言葉を失った。

「久しぶりだな」
「な、なんで……」

フランスの地ど真ん中のこの場所に、なぜか糸師冴がいた。しかしこの場にいた人たちはサッカーに詳しくないのか「日本人?友達なの?」「なんかどこかで見た気がする……」くらいの会話しかしていなかった。

「スポンサー関連の仕事で来てんだ。今夜はこのホテルに泊まる予定だ」
「そうですか」
「ちょうどいい、付き合え」
「は?」

日本語での会話のため皆の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいた。そして私の頭にもクエスチョンマークが浮かんでいる。しかし目の前の人物はお構いなしにとボストンバッグ片手にホテルの方へと歩いて行く。だが、すぐに着いてきていないことに気付いたらしい。こちらを振り返り、凛とそっくりなターコイズブルーで私のことを見た。

「早くしろ」
「えっあ、はい…!」

そうなれば着いて行く以外の選択肢はない。
皆に断りを入れて前を行く背中を追いかける。どうやら長い夜になりそうだ。

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