サシ飲み


窓の外にはフランスの夜景が広がっている。日本都内のようなカラフルな電飾というよりは温かみのあるオレンジ色が街を覆い、昼間とは違ったシックな雰囲気が特徴的だ。きっとこのバーもそんな景色に合わせて作られたのだろう。ホテル最上階の会員制のバーは十八世紀の板張りの空間と昔ながらの美しいフレスコ画を基調としつつ、夜景が一つの作品として見えるよう現代風に改装されていた。

「モヒートで。そっちは?」
「じゃあ……同じものを」

こんな素敵なところに自分が来るなんて想像もしていなかった。しかもその相手が彼氏のお兄さんとだなんて。

「どうぞ」

日本ではバーテンダーが丁寧に魅せるようにカクテルを作り上げることが多いが、フランスでは少し違う。パフォーマンス染みたことは基本せず速さを売りにお酒を作ってくれる。そのため二つのモヒートはあっという間に用意され、それをドライフルーツと一緒に運び終えたバーテンダーはすぐに立ち去った。

隣に並んで座る糸師冴を盗み見れば特に乾杯も挨拶もなしに口を付けていた。まぁ私たちの間に祝うこともないから当然か。そして自分も、いただきますと言って糸師冴と同じようにモヒートをひと口飲んだ。うっシロップで割るのお願いし忘れてた…飲みづらい……

「凛のコトだが、」

舌に残った独特な味に顔を歪めていれば唐突に話が切り出された。その言葉に胃が痛くなる。凛のことで呼び出されたとは思っていたが、こうもすぐ核心をついてくるとは思わなかった。

「…、はい」
「お前ら付き合ってんだよな?」

しかしその質問が斜め上だったので少し拍子抜け。思わず隣に顔を向ければ怪訝そうなご尊顔とご対面。凛と同じターコイズブルーを見つめながら私は慌てて頷いた。

「そうです…!」

とはいえ、もう長いこと連絡を取っていないので凛の中では別れたことになっているのかもしれない。ただ、自分勝手ながらも私は凛とこれっきりだなんて思っていない。

「ならなんでアイツはクソみてぇなプレーしてメンタルまでクソ雑魚の底辺まで落ちてんだよ」

おや?私は今、怒られているのかな?てっきり凛の様子を聞くために私をここまで連れて来たのかと思ったけれど、そうじゃないらしい。というかおそらく糸師冴は私の想像の一歩先を行っている。そう勝手に結論を出さないで欲しい。

「それは……報道とかパパラッチとかのせいじゃないですかね」
「それが本当なら今すぐサッカー辞めさせろ。アイツの『兄』だと同列に名前を呼ばれる俺が不愉快だ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「あ?」

ダメだ、この人相手に中途半端な答えをしてしまってはもっと悪い方向に捉えられかねない。だから正直にこれまでの経緯と今の凛との関係を話した。

「去年の夏から留学でこっちに来ていて、初めの頃は凛の家にも行ってたんですけど——」

バーの落ち着いた雰囲気と時間がたっぷりあるのも相まって優さんの時よりも丁寧に説明できたような気がする。『気がする』と思ったのは私が緊張で話している間に手元のお酒を全部飲みきってしまったからだ。

「だから凛が調子を崩したのは私と距離を取ってからなので詳しいことは分からないんです」

アルコールの力もあり糸師冴相手でも物怖じせずに話切れた。そして大分酔いが回っているにも関わらず新しいお酒に口を付ける。ひと口飲んでシロップをお願いするのを忘れていたことに気付いたが、喉の渇きには抗えなかった。

「いや、お前が距離取ったせいだろ」

最後まで黙って話を聞いていた糸師冴が私の心臓を突き刺すように言い放った。彼の前にも二杯目のお酒が運ばれている。それを飲む姿を見ては目元が本当にそっくりだと凛のことを思い出していた。

「そう、ですかね……」

バーテンダーへの注文は英語だったがさすがに日本語を理解できる客はいないだろう。そして会員制の場所とあってか多くのセレブや有名人もちらほら見受けられた。そのため糸師冴が特段目立つこともない。だから私たちは周囲の目を気にすることもなく日本語のまま話を続けた。

「フン……だとしてもその程度でメンブレ起こすようじゃとっとと日本に帰るコトだな。そもそもアイツは昔から誰かが一緒にいなきゃ生きてけねぇようなカスだ」
「それってそんなにいけないことですか?」
「少なくともフィールド上では真っ先に殺されんぞ」

試合と私生活を混同されても……と思ったが彼らの中でそれは切り離せないことなのだろう。十四で世界を見て来た糸師冴だからこその言葉だった。でもやっぱり私にはその考えが理解できない。

「サッカーに関して私は全くの素人ですけど凛はサッカー選手として評価されています。現地のファンが凛の復帰を心待ちにしているのは事実です」

ネットでは批判的な言葉がどうしても目についてしまうけれど応援しているサポーターはいる。そして凛個人と契約しているスポンサーも未だ下りていない。

「そんなぬりぃ次元の話してねぇんだよ。凛は世界一のストライカーにはなれない。精々、俺の影として生きてくカス弟が関の山ってとこだ」

ぐっと手元のお酒を流し込み、熱くなり過ぎた自身の脳を一度落ち着かせる。そして新しいお酒をもう一杯。

糸師冴の言いたいことは分かる。それと同時に凛が以前話してくれた、お兄さんとの雪の日の出来事が思い出された。兄の背中を追ってサッカーを始めた凛はあの日、自分の夢をなくし、そして捨てられた。世界を知った糸師冴のあの時の決断が正しかったかどうかなんて私にはわからない。でも、そこから這い上がってきた今の凛を否定された気がしてこの時の私は少し怒っていた。

「今の凛の目的は世界一のストライカーになることじゃないですよ。あなたと、そして潔選手を喰うことにあります」

裏切りも憎しみも、孤独も醜態も全部飲み込んで凛はここまで来た。『世界一のストライカー』になることは凛にとって夢でも目標でもない。凛の世界はおそらく目に見えている範囲よりも狭く、そしてずっと過去に囚われている。サッカーをする理由だって決して周囲から褒められたものではない。

「ハッ相変わらず執念深いな。だからアイツはいつまでもぬりぃんだ、そんなエゴじゃあすぐ死ぬぞ。それこそ一人でだ」
「だとしても今のままサッカーをやめたらそれこそ死んだも同然です」
「ならお前は凛に壊れるまでサッカーしろって言うのかよ」
「それで凛の気が済むのなら私は凛のことを応援したいし、最後まで凛の味方でいたいって思います」

でもそれでいいのだ。凛がそうするというなら私はそれを否定しない。その気持ちは凛を海外へと送り出した高一の終わりから何も変わっていない。その先が例えよくない未来だったとしてもこのまま腐り落ちて死ぬよりは絶対に悔いはない。

「お前も大概イカれてんな」

喧嘩腰になりかけていた会話に終止符を打ったのは意外にも糸師冴の方だった。向こうは大層おもしろいものを見たかのような顔をしている。改めて見ると凛と似ているようで糸師冴の方がまだ表情が豊かなように思えた。それと同時に私は気付いてしまった、この人が今何を考えているのかを。その瞬間、吹き出すように笑ってしまった。

「あははっそっか!実は私のことが羨ましいんですね?凛が自分よりも私に懐いたから羨ましいんだ!嫉妬深い人は男も女も嫌われますよ?!」

結局、糸師冴は凛のことが心配なのだ。そうでなければ私を呼び止めることもしなかっただろうし愚痴だけを言いたいのなら私の話を最後まで聞くこともしなかっただろう。『サッカー選手』の糸師凛に対しては思うところがあるようだが、今も変わらず大切な『弟』であることもまた事実。

「待て、お前それ何杯目だ?」

きっと凛は兄の心情なんて知る由もないのだろう。そして糸師冴もまたそれを弟に伝える気はない。なんとも不器用な兄弟である。

「私も弟がいるんですけど彼女ができたって報告されたときに夜中に鬼電しちゃったんですよね。そしたら連絡先ブロックされて」
「おい、」

独特だと感じていたモヒートも水のようにすいすい飲める。あまりの飲みやすさにバーテンダーが気を使ってミネラルウォーターを用意してくれたんだと都合よく解釈した。あと残りはグラスの三分の一ほど。これを飲み切ったら次は別のお酒を頼もう。

「生意気だし私のこと足に使うし可愛げはないんですけど姉としてはやっぱり気になって」
「もうやめとけ」
「は…………あれ?」

グラスを持ち上げようとすれば手首が押さえつけられた。だからグラスは今もテーブルの上に置かれたまま。であるのに、どうしてか私の視界にはグラスが倒れていくように見えた——いや違う。私が倒れてるんじゃ…………そこで意識は途切れた。


◇ ◇ ◇


アイツと俺の認識は、どうやらかなり違ったらしい。

「は?大学卒業したらこっち来んじゃねぇの?」

一年間の留学という形でアイツは再びフランスに来た。学びたいコトがあって来たのは分かっている。それでも数ある国の中からフランスを選択したのは少なくとも俺がいるからだと思っていた。一年間の長期留学では語学だけでなくこちらの文化や習慣も学べることであろう。

「……凛はさ、十年後自分は何してると思う?」

だから俺はアイツが留学してくる前に住む場所を変えた。今まで住んでいた場所も悪い所ではなかったが、首都へのアクセスが悪くないところへ、生活必需品が揃う店が近場にいくつかあるようなそういった場所へと引越しをした。これならフランスで暮らすことになった場合のイメージもしやすいだろう。もちろんアイツの部屋も用意した。

「三十代前半だからまだ現役なのかな」
「急になに言って……」

まだまだ納得のいくサッカーは出来ず目的も果たせていないが、それでもプロとして食っていけるくらいに稼ぎもある。アイツが将来何をしたいのかは分からないが、それでも十分支えていけるだけの自信があった。何も不自由はさせないし何に変えても守ってやる。

「じゃあ二十年後は?まだ選手?国内リーグにいたりするのかな。でも色んな国の言葉を話せるなら海外で指導者としてもやってけそうだよね」

だから俺から離れないでくれ。別に働かなくたっていい。ただ俺の隣にいて手の届く距離にいてくれれば、それだけでよかったのだ。

「凛は二十年後、自分がなにしてると思う?」
「……そんな先のコト分かるワケねーだろ」
「それと同じだよ!!」

でもアイツは俺が思っていた以上に強い人間だった。暗がりの中で道に迷っても自分で火を灯して道を探すような、高い石の壁があれば周囲に声を掛けて越える手立てを考えられるような、そういうコトができる奴だった。

「凛にとっての十年後、二十年後が私にとっての一年後、二年後の話なんだよ!」

サッカー一筋だった俺をアイツは尊敬していたようだったが俺からしてみればアイツの方がスゲー奴だと思う。一方通行の直線をがむしゃらに突っ走る俺とは違い、立ち止まっては辺りを探索し遠回りした分だけ経験を積む——今思えばそういった生き方ができるアイツに俺は憧れていたのかもしれない。

「おい、なんで泣いて……、ッ」

だからこそ怖かった。いつか手の届かない場所に行ってしまいそうで。アイツはきっと俺なしでも生きていける。でも俺は…………

「ごめんね」

結局、引き留めることはできなかった。



それからは全てが上手くいかなくなったように思える。
嘘の報道ももうどうでもよかった。外に出れば投げつけられる質問にも耳にイヤホンを突っ込んでかき消した。

一緒に住めたらと思って引っ越した家の広さに虚しくなって遅くまでクラブチームのコートで練習するようになった。それによるオーバーワークで試合にも出られずに苛立ちは増すばかり。

家に引きこもるようになりソファで意味のない時間を過ごすようになれば自然とキッチンへと目がいった。そういえばここに座ってアイツが料理をするのを見るのが好きだったな。それは今になって初めて気づいたことだった。

アイツにとって俺は価値のない人間だ。そういや昔、兄ちゃんにもそう言われたな。「いらない」ってはっきり言われたっけ。なんかもう、どうでもいい。もういいや。



「…………あ?」

引っ越した先でもアイツにもらったアートパネルは寝室に飾っていた。それをベッドの上でぼぅっと眺めていれば何の前触れもなくスマホが鳴った。電話だなんて珍しい。俺のメンタルを気にしてかクラブチームやマネージャーとのやり取りも今はメールになっていた。そんな状況で掛かってきた電話に違和感……もしかしてアイツか?しかしそんな淡い期待を余所にディスプレイには思いもよらない名前が表示されていた。

「な、んで」

もう何年も連絡を取り合っていない兄貴からの着信。しかもそれは中々鳴り止まない。間違えて掛けてきたわけでもないだろう。電気も付けていない部屋ではディスプレイの光が目に痛い。そして気付けば震える指先でその電話を取っていた。

「……しもし」

声がかすれて上手く出なかった。そういえば今日一日、一言も発していなかった。ずっと家に引きこもってりゃそれも当然か。

「お前今どこいる?」

挨拶も何もなし不躾に質問が飛んでくる。なんだ、俺が強制休暇取らされたことバカにしてんのか?以前、レ・アールとの試合で顔を合わせたコトもあったがその時も遠回しに嫌味を言われた。

「家だケド……」
「なら地図送った場所に今すぐ来い」
「は?」
「お前の女が隣で寝てんだよ」
「は……はぁ?!」

俺の叫びは無機質な電子音によって遮られた。なに勝手に切ってんだよクソ兄貴。一度こちらも通話を終了すれば新着メッセージを知らせるアイコンが表示された。確認すればそれは兄貴からで、説明もなしに地図情報のURLだけが貼られている。画面をタップし確認すればその場所はそれなりにグレードの高いホテルでここから車で二十分程の距離にあった。

なんで兄貴がアイツと一緒にいんだよ。つーか、あの二人に面識なんてあったか?しかも場所がホテルって……クソッ

俺は財布とスマホだけを手に取って家を飛び出した。

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