居場所


スマホの着信履歴から電話を掛け直す。二コールにも満たない速さで繋がった電話は四桁の部屋番号と『早くしろ』の一言だけ告げてすぐに切れた。その一方的な態度にその場で舌打ちをする。

「クソ兄貴……!」

フロントに一言入れ、エレベーターに乗り込み目的の階を指定する。もう日付が変わろうかとしている時刻だからか途中でエレベーターが止まることはなかった。しかし目的の階に着くまでには途方もない時間を過ごしたような気さえした。

早足で廊下を歩き、息を整える間もなく目の前の扉を拳で殴るようにノックする。その場でじっと耳を澄ませて待っていると中から足音が聞こえてきた。次いで扉を開錠する音。ガチャリ、とドアノブを捻るのと同時に拳を固く握りしめた。ゼッテェ一発ブン殴ってやる。

「やっと来たか凛。ほらよ、これが部屋の鍵だ」

しかし、まさに振りかぶろうとした寸でのところで目の前にカードキーが差し出された。それはもちろんホテルの部屋の鍵である。反射でそれを受け取れば同じ瞳をした兄弟は右手で髪をかき上げながらこれ見よがしにため息をついた。

「自分の女の管理くらいちゃんとしとけ。あとは好きにしろ」

双眼のターコイズブルーが交わる。しかしそれも一瞬で、これで用は済んだとばかりに部屋を出て行こうとする。だが自分にはまだ聞きたいことが山ほどあった。

「待てよ!」
「あ?」
「なんでアイツと兄貴がこんなとこいんだよ!どうゆうつもりだ?」

二人はいつから知り合いだったのか、アイツと兄貴がなぜここにいたのか。そして電話口で告げられた「隣で寝ている」という言葉は決して無視できるものではない。
しかし腕を掴まれこちらが人ひとり殺すほどの剣幕で迫っても目の前の男は至って冷静だった。そしてあろうことか二度目のため息をつきその瞳に同情の色すら滲ませた。

「お前の想像してるコトなんか何もねぇよ」
「じゃあなんで二人で会ってたんだよ!」
「それは目が覚めた本人にでも聞け。俺は自分の部屋に戻る」

掴んでいた手が降り払われたがもうそれ以上、呼び止める気にはなれなかった。それよりもアイツのコトが気がかりだ。未だに理解は追い付かず苛立ちは募るばかり。だがそれもアイツに聞いた方が速い。そう判断しホテルの部屋へと踏み入れた。



明かりのついた部屋に入り初めに目に付いたのはテーブルの上に置かれたバッグだった。初めて見たものだったが女物の小ぶりのそれは間違いなくアイツのものであろう。そして直ぐ近くにあったソファに彼女の姿を見つけた。

「寝てる……?」

こちらが近付いても起きることなく小さな寝息を立てている。そして衣服には一切乱れた形跡もなかった。ターコイズブルーのドレスは確かにそれなりの露出はあるがそれだけだ。念のためベッドルームも覗いてみたがシーツは皺ひとつないほどに綺麗に整えられていた。

「クソッ……マジで何なんだよ」

伸びきった前髪をぐしゃぐしゃに握りつぶして壁に背を付ける。しかしこの場にその答えを教えてくれる者はいない。肝心の本人も寝ているし……ともあれ、さすがにあのままソファで寝かしておくわけにはいかないためベッドに運ぶことにした。

「んー……うぅ…」

背中と膝下に腕を差し込み抱き上げれば僅かに苦しそうな声を上げた。それと同時に鼻に付くアルコール臭。これはおそらくかなり飲んでいる。コイツの酒の弱さを考えれば泥酔して寝落ちしたことは容易に想像がついた。

「……、……りん…?」
「……っ!」

起こさないように慎重に運んでいたところで腕の中から名前を呼ぶ声が聞こえた。視線を落せば焦点の合わない瞳が揺らめいている。久しぶりに聞いたその声に鼻の奥がツンと痛む。思わず抱えていた手に力が籠った。

「大丈夫か?」
「りん……あの、」
「今は喋んなくていい」
「ちが……、ぅッ」

先ほどまで宙を揺れているだけだった手が突如、口元に宛がわれた。自分で自分の口元を抑える姿を見て、いつかの夜の繁華街での出来事を思い出す。そして悟った。

あっこれはやらかすな、と。


◇ ◇ ◇


この夢の中にずっといたいと思った。温かくて安心できて、そしてひどく懐かしく感じるこの場所にいたかった。でも頭の片隅では現実を見ろとうるさいくらいの警告音が鳴らされている。甘い夢を見たいと思っているくせに誰よりもそれを許さなかったのは現実世界の私だった。

「うぅ……」

重い瞼を気合で持ち上げれば目の前には人の顔らしきものがあった。ぼやける視界に徐々に焦点を当てていけば確かにそれは人で、そしてその人はすやすやとよく眠っていた。

「りん」

布団の中から手を出して伸びきった前髪を顔から払う。伏せられた長いまつ毛も端正な顔立ちも変わっていないが目の下の隈が目に付いた。そして頬は少しこけたように思える。痩せたというよりはやつれたような印象があった。

「…、……っ」

そんな凛の顔を撫でていれば長いまつ毛がふるりと震えた。そしてターコイズブルーが瞼の隙間から覗く。それはずっと私が身に着けているネックレスよりも透き通っていて綺麗で、そして恋焦がれていたものだった。

「おはよう、凛」
「……はよ」

数ヵ月ぶりに会って、しかもこの状況すら理解しきれていなかったけれど零れ落ちた言葉はそれだった。凛もきっと聞きたいことや言いたいことがたくさんあるだろうに朝の挨拶だけを短く返してくる。たったそれだけのことなのに胸がむず痒くなった。

「あのさ、」

そこで思い出したかのように自身の胸に触れた私は気付いてしまった。

「なんで私、服着てないの?」

なぜ私は今、下着姿なのだろうか。
昨夜の記憶はかろうじてある。糸師冴に捕まってホテル内のバーに行って色々と話をしたとこまでは覚えている。でもあるところでぷっつりと記憶が途絶えていた。それでも断片的にではあるが引きずられるようにして廊下を歩いたことと昨夜のうちに凛の顔を見たことはなんとなく覚えている。しかし記憶が上手く繋がらない。ただ一つ確実に言えることは昨夜は相当飲んでしまったということだった。

「汚れてたから脱がした」
「汚れというのは……」
「お前がゲロったんだよ」
「うわぁ」

ついにやらかしたか。そして自分に記憶がないのがなおのこと恐ろしかった。どれくらい戻してしまったかも分からないが服を汚したとなると相当なレベルだ。そしてその現場を凛に見られたのもショックが大きい。

「もしかして凛がいま上着てないのも私のせい?」
「まぁ……少し掛かったから洗って干してる」
「ごめん。本当に、ごめん」
「別にそれはいい。……それよりなんで兄貴と一緒にいたんだよ」

やっぱり凛は糸師冴と顔を合わせていたか。そもそも凛を呼んでくれたのも彼だったのだろう。疚しいことはしていないしもう凛に隠すこともない。だから、以前凛の家の前で糸師冴と出会ったことも含めて昨日のことを話した。

「——それで話してるうちに飲み過ぎてたみたいで記憶が飛んで今に至るという感じ…です……」

掛布団を胸元にかき集めて縮こまりながら説明した。凛はというと私と向き合うようにしてベッドに横になり話を聞いていたが、それが終われば寝返りを打つようにして顔を枕に埋めてしまった。その様子に心配になりシーツの海を泳ぐように移動して凛との距離を詰めた。

「ったく本当にお前は……」
「凛?」
「散々外で飲むなっつったろ」
「ごめんね」

顔を枕に押し付けたままで喋る凛の声は聞きとりづらい。顔を近づけ耳を澄ませて、やっとのことで聞きとれるほどだ。そしてまだ凛は私に何かを話そうとしてくれている。だからこちらも聞き漏らさないよう、枕に耳を寄せるような形で続きを待った。

「兄ちゃんのとこに行っちまったかと思った」

それは今にも泣きそうな声だった。
やっぱりダメだな私。凛のことを散々口下手だの自分のことを話してくれないだのと思っていたのに、私の方が凛に気持ちを伝えられていなかった。あの時の喧嘩だって私が自分の将来のことをもっと凛に話していれば起こらなかったかもしれない。それが例え曖昧で不明瞭であったとしても凛に話をするべきだった。だって凛はこんなにも私との未来のことを考えていてくれてたのだから。

「そんなのあるわけないじゃん」

でも時間は巻き戻せないしあの喧嘩をなかったことにはできない。そしてこの半年の間に互いに色々なことがあり過ぎた。だけど私の中で変わっていないことが一つある。

「私が好きなのは凛だよ。昔からずっとそう。それは今も変わってないよ」

これこそが私がいま凛に一番伝えたいことだった。随分と虫が良すぎる話かもしれない。でも凛と別れる気はさらさらない。

自分の言いたいことを言って凛の様子を見守っていれば丸い頭がもぞりと動いた——と、思えば布団の中で腕が引っ張られた。滑らかなシーツの上を滑り胸元に衝撃を受ける。次いで黒髪に顔を擽られた。

「凛?」

枕から私の胸元へと顔を埋めてしまった凛に静かに声を掛ける。そしたら背中に腕が回されて抱きしめられた。触れ合った肌と肌が熱くて皮膚にかかる息遣いがくすぐったい。私は身動ぎしたくなる衝動を抑えて目の前の黒髪に手を伸ばした。

「……これからはちゃんと言え」
「うん?」

しばらく頭を撫でていれば不意に凛がそう言った。そして相変わらず顔を埋めたままぼそぼそと消え入りそうな声で言葉を続ける。

「お前が考えてるコトとかこれからどうしたいだとか……言わなきゃ分かんねぇんだよ」

頭を撫でる手を止めて顔を見ようとする。しかしそれは背に回された腕に力を込められたため叶わなかった。

「俺の性格なんざとっくに知ってんだろ。だから全部言え」

凛がこんなにも自分の気持ちをストレートに伝えてくれたのは初めてかもしれない。

「俺ができるコトなら何でもしてやるから……これからはちゃんと言え」

私が自分のことに必死になっている中、凛は凛でずっと考えてくれていたのだろう。その不器用なやさしさに息が詰まるほど苦しくなる。凛はやさしすぎる。あんな態度で一方的に距離を取った私にまだ寄り添おうとしてくれている。

「うん。ありがとう、凛」

宝物を抱えるように私は凛の頭を抱きしめた。目から零れ落ちた雫は重力に従ってシーツに吸い込まれた。悲しくて泣いてるんじゃない。処理しきれないほどの愛おしさが涙となって溢れたのだ。

「凛は私にしてほしいことある?」

貰っているばかりではいられない。人に寄りかかるだけの人生なんか嫌だ。それじゃあ凛の隣には並べない。だって私はこれから先も凛と一緒にいたいから。

「…………に……い」

腕の中に閉じ込めていた頭がもぞりと動いたので手を緩める。すると顔を出して私と同じ目線になるよう移動した。高身長故に凛の顔を真正面に見るのは稀なことだ。そしてスッと伸びてきた手に頬を撫でられる。

「ゼッテェ俺のとこに帰ってこい」

親指がやさしく私の涙を拭った。でも次から次へ涙が溢れてくる。自分でもどうしたらいいのか分からないくらいボロボロと泣いてしまった。

私は凛のように自分の人生に大きな目標もなければ使命や義務も背負っていない。だからこれから先も自分が何をしたいのか分からなくなって、迷子になったり遠回りをしたりして凛に心配を掛けることもあると思う。でも凛がそう言ってくれるならきっと自分の道を見つけられると思った。だって私には凛の隣≠ニいう世界一安心できる居場所があるのだから。

「……っ、わかっ…た」

何とか言葉を絞り出せば、後頭部に手が添えられて引き寄せられた。凛の腕の中は温かくてまるで都合の良い夢をみているのではないかと錯覚するほどであった。でも私が嗚咽を漏らす度に背中を擦る体温がこれが現実だと教えてくれた。

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