ストライカーの糸師凛
『U-20日本代表 VS.
実況者席からのアナウンスが前半戦の終了を告げる。ここから休憩を挟んで後半の試合になる。また、今回の試合は九十分経っても同点で決着がつかなかった場合、延長・PKなしの引き分けとなる。だから後半の四十五分で勝敗が決まる。
「もう!廻ったらもっとゴールを狙いなさ……あれ?何処行くの?」
選手達は控室に戻るためかコートの端を歩いている。だから今、彼らと観客席との距離は近い。
試合開始前は席で名前を呼ぶことすら躊躇われた。コートへと入場するその背中は私の知らない彼だったから。でも今なら近付けるかもしれない。
階段を駆け下りて手すりに手を掛ける。少し背伸びをしてコートを見下ろせばブルーロックの選手が見えてその中に糸師くんの姿を見つけた。他の選手達のように前半のリードを喜ぶわけでもなく一人で歩いている。呼んだら気付いてくれるだろうか。でも集中力を切らすことになるかもしれない。
そうこちらが迷っていれば不意にターコイズブルーが私を捉えた。試合外でも空間認識能力の高さは健在だったようだ。
「お前の声援聞こえねぇんだけど」
そして久しぶりに会ったというのにその態度も何一つ変わっていなかった。というか匿名の手紙を学校に送っておいて、それでも現地まで辿り着けた私にもう少しかける言葉はなかったのだろうか。
「この大観衆の前で届くわけないでしょ」
「なにぬりぃこと言ってんだよ。他の奴見てそっちに気ぃ取られてたんじゃねぇのか」
そりゃあ隣で優さんが叫んだら蜂楽選手のことだって気になったし、糸師冴のボールさばきは素人目に見ても上手いと思ったし、ラストのゴールを防いだ蟻生選手の姿には息を呑んだけどずっと見ていたわけじゃない。というか糸師くん、約束忘れてない?
「元から糸師くんしか見てないよ!」
見てろって言ったの自分じゃん。しかも「いくらでも」と言った割に一回しかゴール見せてもらってないからね。私そういうのはちゃんと覚えてる人間だから。
そしてここへ来て何故顔を逸らした糸師凛。右手でぐしゃりを髪を握りしめ顔を伏せたまま動かなくなってしまった。こら無視するな。もう一回言ってやろうか。
しかし、顔を上げたと思ったら真っすぐとこちらを見据え、右手の人さし指をスッと向けた。
「よそ見したら殺すからな!!」
そんな物騒な言葉を公式の場で使うんじゃない。しかも宣戦布告する相手間違ってない?だが売られた喧嘩を買わない私ではない。腕に力を入れて先ほどよりも身を乗り出した。
「じゃあゴール決めてよタコ!」
いつの間にか私も大分口が悪くなったらしい。糸師くんの口癖が移ってしまった。片や糸師くんはというと言われたっきりなのも癪なのか「目ぇ離すんじゃねぇぞ!」と捨て台詞を吐いてスタジアム奥へと消えていった。情緒が忙しいなあの人。
「ウチの息子が出てるもんで」
「あら!ウチもです!」
「ブルーロックの十一番!ウチの息子!」
やたらと疲れた。しかしどこかすっきりとした気持ちで自分の席へと戻ると優さんが前の席に座っていたご夫婦と何やら盛り上がっていた。そこへ水を差すのも悪いな…と離れたところで見守っていればこちらに気付いた優さんに大きく手を振られる。それに釣られるようにしてご夫婦も振り返ったので軽く会釈をして残りの階段も上っていった。
「こんにちは」
「こんにちは!ブルーロックの十一番、ウチの息子なんですよ!」
「もうお父さんったら!いきなりごめんなさいねぇ」
十一番と言うと潔選手か。イサギ…そういえば糸師くんの初めてできたサッカー友達のことだ。そうか、そんな人のご両親。どちらも優しそうでほわほわしている。きっと彼らの息子の潔選手も私生活ではこんな感じなんだろうな。糸師くんとパス回ししているときはものすごい顔してたけど。
「貴方はお友達の応援?」
「え?」
そういえば糸師くんのご両親は来ているのだろうか、と考えていたところでお母さんの方が私のことを見ているのに気が付いた。いけない、自己紹介がまだだった。しかし私の開きかけた口は後ろからの反動でつぐむことになる。
「彼氏の応援よね?」
「え"っ?!」
「まぁ!」
「おぉ!」
違う違う違う、残像すら一瞬で消える勢いで首を振るがイマイチ私の気持ちが伝わっていない。「あ、まだ付き合ってなかったか!早とちりゴメン!」と優さんには言われるがそれも違う。お二人には、あらあらまあまあと微笑ましい目で見られる始末……うん、もうそれでいいです。
——2ND HALF KICK OFF!——
日本代表チームは一人メンバーチェンジをし、ブルーロックチームの選手交代はなかった。そしてこの交代選手が糸師冴と連携を取ることにより早々に一点を決め、すぐに二対二の同点に追いついた。その後、ブルーロックが交代枠を二枚切るが日本代表の勢いは止まらずに士道選手が後半二得点目を決める。
「まだまだこっから!負けるなブルーロック!ゴールを決めろ廻ー!!」
後半十五分、ブルーロックチームは最後の交代カードを切る。十三番・馬狼選手の敵味方を翻弄するスタイルに選手も観客も全員ざわついていた。しかしそこから試合運びが一転する。ブルーロックの優勢とも取れる。が、日本代表のディフェンスが固い。
「糸師くん…!!」
糸師くんが日本代表主将・愛空選手との競り合いでボールを取られた。でもブルーロックの奮闘により日本代表チームの猛攻を凌ぎボールを奪取する。ゴール前からのロングパスが決まり再び前線へ。
ボールが繋がれ潔選手へと渡る。しかし糸師冴が追いつき一点が決められない。だが、そこに確かに
『馬狼照英のスーパースライディングシュートで
実況の声が響きスタジアムが悲鳴を上げた。
「やったっやった!これで同点……ってどうしたの?!すごい顔!」
「いや、その嬉しくて……」
否、苦し紛れの嘘だった。確かにこれで追い付いて、チームとしては喜ぶべき一点だった。でも糸師くんの決めるはずだったゴールを奪われた気がして何とも言い表せない気持ちになっている。
「世っちゃん惜しかったわねぇ」
「いいやまだまだ!残り十五分あるぞ!」
潔夫婦の言葉を聞き時計を確認すれば確かに残り十五分。この時間で勝敗が決まる。
両者ともに引き分けは負けと同じであろう。だからこそ絶対的な勝利≠ノ固執する。そしてブルーロックチームは誰しもがゴールを狙っている。
「ゴール決めろ!糸師凛!!」
きっと私の声なんか届いていない。それはこの観客と歓声のせいではない。彼の脳内には勝つこと、そしてこの試合の主役≠ノなることしかない。でもそれでいい。私はそんな糸師くんだから応援したいって思ったから。
『最終局面の試合再開です!!』
日本代表チームのボールからリスタート。糸師冴のスピードに食らい付く糸師くんの姿が見える。スライディングを交わされ、無視され。それでも背中を追いかけていく。それは意地か執念か。しかし言葉では言い表せないほどの何かが彼を駆り立てていた。
一人ゴールへと突き進む糸師冴。
「う、わ…!」
でもそこに糸師くんはいた。士道選手の動き、というよりは糸師冴のパスを読んでいたようだった。しかし読みが
「ひー!痛そう!ちょっと、顔真っ青だけど大丈夫?!」
「私は全然…でも糸師くんが……」
会場がざわつくが、遠目で見ても出血はしていないようで安心した。足取りもしっかりしているし脳震盪の心配もなさそうだ。でも糸師くんの様子がいつもと違うように思える。それはラスト一点を狙うために感覚を研ぎ澄ませているせいか。それとも別の
「廻いっけぇー!!」
試合再開。ゴールを狙い前線へと飛び出してきたストライカーの中に蜂楽選手がいる。優さんは今日一番の声を張り上げ応援していた。それでも私はずっと糸師くんを見ていた。蜂楽選手のシュートがはじかれたときも、攻守が反転して糸師冴にボールが渡った時も。だから糸師くんが愛空選手の決定的なゴールを防いだことにも驚かない。
「あと五分、あと五分……」
コーナーキックでの試合再開。残り時間を唱えては最後の一点が決まることを祈った。
でも糸師くんの先を行く選手が一人、それは潔選手だった。
『さぁラスト二分を切った…!!』
最後の逆襲。ボールはブルーロックチーム十六番・氷織選手が持つ。そしてパスをするであろう瞬間、それを奪い去っていったのは糸師くんだった。周囲を置き去りにし一気にゴールまでの距離を詰めていく。爆走、暴走——舌を出し突き進む姿は獣という言葉がふさわしい。
しかし、思考は冷静なのか合理的とはかけ離れた動きであるにも関わらずディフェンスを次々に交わしていく。傲慢で強欲。そしてこの時、以前彼が言っていた「糸師冴をぐちゃぐちゃにする」という意味がようやく分かったような気がした。それが今の醜く壊す<Tッカーに繋がっていく。
「あ、……ッ」
振り切った右脚がボールを打つ。しかしそれはゴールポストにはじかれた。
アディショナルタイムは一分——これが本当のラストプレー。そしてはじかれたボールが糸師冴に渡るという最悪の展開。でもやっぱり糸師くんは食らい付いていた。
口を開けたまま涎を垂らして。きっと今の彼に見えている物はボールでも勝利でもなく糸師冴だ。
残り時間的にもこれがファイナルマッチ。瞬きはおろか呼吸を忘れるほどに熾烈なボールの奪い合い。いや、エゴのぶつかり合いと言った方が正しいか。初めのマッチアップでは奪われたボール。しかし糸師冴の動きを読みボールを蹴り飛ばしたのは糸師くんだった。でも、それでも——
『ただひとりゴール前に残っていた十一番…潔世一の
試合終了のホイッスルが鳴り響き、三対四の
「廻おめでとー!ブルーロック万歳!!」
「世っちゃん!ねぇ世っちゃんがゴール決めたわよ!」
「すごい!本当にすごい!!」
スタジアムの熱気は冷めやまない。優さんと潔夫婦はハイタッチをして喜んでいる。確かにブルーロックチームの勝利は喜ばしいことだ。でも手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。それはコート上に、未だに立ち上がれずに片膝を立てて座る糸師くんの姿があったからだ。
そしてそんな彼に近づいていく選手が一人、糸師冴だった。
流石に会話までは聞き取れないし表情もよく見えない。でも糸師くんの纏う空気が絶望≠感じさせるほどに淀んだように感じたのは気のせいだろうか。
「もちろんこれから行くでしょう?!」
「えっ……?」
不意に肩を抱かれバシバシと叩かれる。潔夫婦も自分たちの荷物を持ちにこにことした表情でこちらを見ていた。生憎、今までの会話を何も聞いていなかった。苦笑いをしつつ、どこに?と尋ねれば選手控室と答えられた。
「ほら、チケットと一緒に入っていたお手紙に書いてなかった?招待客は試合後に控室への入室を許可するって」
潔選手のお母さんの言葉に、そういえばそんな文言も書いてあったなと思い出す。でも正直、今の糸師くんに掛ける言葉が見つからない。おめでとうともお疲れ様ともいえる気がしなかった。
「せっかくなんですけど遅くなると家族が心配するのでもう帰らないと」
「それは渡さなくていいの?」
優さんが目ざとく見つけたのはバッグと一緒に置いてあった紙袋。でもあまりにも分かりやすかったか。それは糸師くんに渡すはずだった差し入れだ。さすがにこんないい席のチケットをタダでもらうわけにはいかなかったから。まぁ押し付けられたような感じだったけど。
「えーっと……」
「あっもしよければ廻伝手に渡そうか?貴方からだって言えばきっと受け取ってくれるだろうし」
「じゃあお言葉に甘えて。お願いします」
差し入れを優さんに預け、そして潔夫婦にも挨拶をしてスタジアムを出た。
帰りの新幹線に乗りスマホのトークアプリを立ちあげる。そこには約三週間前の通話履歴だけが残されていた。テキスト欄に文章を打ち込む。でも何を書き込んでも安っぽい言葉しか出てこなくて結局アプリを閉じてしまった。
新幹線のアナウンスが自分の下りる駅名を告げる。窓の外を見れば地元の海が広がっていた。
しかしそこにいつものような美しさは映し出されていなかった。