距離が近いよ糸師くん


センチメンタルなんて柄じゃないけど、どこかの誰かさんの影響を受けたみたい。わざわざ電車に乗って夕暮れ時の海まで来てしまった。もちろん行先は誰にも告げていないし、ましてや昨日あれだけの試合をした人間がこんなところにいるはずがないと思っていた。
だからこそ逆光を背にしたいつかと同じ光景を見た瞬間、一目散に駆け出した。

「糸師くんっ…だ!」

息を切らして名前を呼んだ私を見て僅かに目を見開いた。しかしそれも一瞬で「遅せぇよタコ」なんて言ってくる。体育に関しては万年『三』を取り続けている私の全力ダッシュをもっと褒め称えて欲しいんだけど。

「なんでここに?っていうかいつ帰って来たの?」
「今日。つーかお前連絡くらいしろよ」
「それは私の台詞かな?!」

ゼェハァ息を整えてコンクリート壁に背を預ける。糸師くんは柵を超えた先の出っ張りに胡坐をかいて座っていた。

「悪りぃ」
「え?」

潮風が火照った頬を撫でて気持ちがいい。その風に攫われるくらいの小さな声だった。
コンクリートに預けていた背中を正し、糸師くんを見上げる。彼は海の先を見つめていた視線をこちらへと移し「一点しか決められなかった」と言った。

「最後も全部、潔にもってかれた」

糸師くんのまつ毛が伏せられ下まつ毛の上にさらに影を作った。
もしかして夕日を見つめて傷心中だった?センチメンタルnowですか?いつものような威勢もないし背中に哀愁背負っちゃって昨日の試合のこと引きずってる?というか私に謝ることでもないし、らしくなさすぎ。

「?……おい、何やってんだ?」
「私もそっち側行く!」
「危ねぇからやめとけ」
「体育の成績三を舐めんな!」
「それは平均……ッ」
「うわぁ?!」

勢いをつけコンクリート壁を駆け上がり柵に乗り上げたまでは良かった。しかし柵につま先が引っ掛かりバランスを崩す。その先が海ならばまだよかったが生憎消波ブロックが敷き詰められた固い海。打ち所が悪ければ瞬時にこの綺麗なお空に召されることになるだろう。しかし横から伸びて来た腕に引き寄せられることでこの世に踏み止まることが許された。

「テメーは死にてぇのか!!」

破けそうなほどに鼓膜が震える。それもそのはず、引き寄せられた反動で私は糸師くんの膝の上に乗り上げていたのだから。

「ご、ごめん……」
「っとに……はぁ」

ここはビシッと一発渇を入れてやろう!と意気込んでいたのだが己の失態にその気持ちは萎んでいく。かっこ付かなかったなぁと羞恥と自己嫌悪に苛まれていれば、ぽすりと肩に何かがぶつかった。その反動からか、潮風ともまた自分のシャンプーとも違う爽やかな香りが鼻を抜ける。良い匂いだなぁなんて考えていたものだから、今の状況を理解するのに思いのほか時間が掛かってしまった。

「え……っ、ちょっと糸師くん…?!」

離してよ、までの言葉を紡ぐことはできなかった。支えてくれていた腕が体を拘束するよう巻き付いて、そのまま引き寄せられる。そして滑らかな黒髪が頬を撫でたと思ったら首元に糸師くんの頭が収まっていた。

「兄ちゃんが俺に求めていたモンが分かんねぇ」

糸師冴を選手ではなく『兄』として呼んだ言葉に息を呑む。
抱きしめられたことにより硬直していた体の力を抜いていけば、糸師くんの頭がさらに首筋に寄せられる。彼が呼吸をする度に肌に熱が当たってくすぐったかった。

アレ、、の正体も、そうなるトリガーも分かんねぇ」

日本代表との試合ラストの光景が頭を過る。舌を出して涎を垂らし、憤怒と執念を撒き散らしながらゴールを喰おうとするあの姿。誰がどう見ても異常だった。糸師くんは不安なのだろうか悲しんでいるのだろうか、それとも自分を恐れているのだろうか。

「今までの自分とは違う…そんな自分で戦って兄ちゃんを止めた……それでも、」

思わず糸師くんの背中に腕を回した。するとその体が一瞬固まる。しかし、すぐに安心したように息を吐き出して一層強く私を抱きしめた。

「兄ちゃんは潔を評価して、全てを手に入れたのは潔だった」

俺にはまだ何かが足りなかった、と自問自答する言葉が続けられる。
糸師くんは今藻掻き苦しんでるんだ。昨日の試合を冷静に分析して、敗因を考えて、今の自分と向き合って。試合の勝利と己の負けを線引きして。そして彼は今、自分を変えようとしている。

「じゃあここからだね」

もぞりと頭が動いた。その頭へと手を伸ばせば想像通りの滑らかさで髪が指の隙間を抜けていく。

「昨日の試合はあくまで結果の一つだよ。それに次やるべきことに気付けたってすごく大きな事じゃない?」

回されていた腕が緩み肩が軽くなる。夕日に照らされても尚、彼の瞳は目の前の海を映したかのような青さがあった。そのターコイズブルーに力強く答えてみせる。

「だって糸師凛は世界一のストライカーになるんでしょ?」

私はゴールが決まる瞬間を見たいんじゃない。糸師くんが世界を舞台に活躍する姿を見たいのだ。
切れ長の目が見開かれそれからスッと逸らされる。潮風が髪を梳いて頬が朱色に染まっていた。

「当たり前のコト聞いてくんじゃねぇ」

ようやくいつもの糸師くんに戻ってきたようで小さく笑う。そしたら睨まれた。それがまた面白くて彼の頬を指で突いてやればもっと赤くなった。そんなに力は入れてないんだけどな。

「おい!」
「あーはいはい、もうやめますよー」

揶揄いすぎてぶちギレられるのも嫌なので指をそっとしまう。でも私がそうしていたのにも理由があって、それは糸師くんが離してくれないからだった。もうそろそろ降りたいんだけど。

「ねぇ、糸師くん……っ」

しかし、こちらの想いは届くことなく再び腕に力が込められた。立ち上がれなくて、身動きもとれなくて。そして、近い。

「お前は、」

一度言葉を区切り、私をまっすぐに見た。

「お前だけは俺から離れんじゃねぇぞ」

いや、ホームシックがエグイな。青い監獄ブルーロック≠ニいう閉鎖された空間であれだけの期間を過ごしていればその気持ちは分からなくもないが、その全感情を私に押し付けてこないでほしい。

「分かったからとりあえず離れようか」
「あ?お前の耳は腐ってんのか?離れんなっつってんだろーが」
「いや、それと今のこの距離感は違うよね?」

糸師くんの膝の上に座っているこの状況は中々に恥ずかしい。しかし目の前の彼はというと「何が?」と言わんばかりの表情をしている。Ohジーザス、彼にパーソナルスペースという概念を教えてやってくれ。

「いいから腕退けて」

返事を待つ前に腰に回された腕を掴んで引き剝がす。思いのほか抵抗もなく離れていったそれを宙へ放って抜け出した。でもせり出しているコンクリートの幅は狭く距離を取れるほどの広さはない。だから一人分のスペースを開けて並んで座った。

「これくらいの距離ならいいでしょ」
「……フン」

再びそっぽ向くように海の方へと目をやった。釣られるようにして視線の先を辿ればそこには真っ赤な夕日が水面を照らしている。海に浮かぶヨットが風を受け海岸を目指していた。
その光景を見つめていると隣で影が動く。糸師くんが徐に立ち上がりまっすぐに水平線を見つめていた。ターコイズブルーが夕日を反射し本物の宝石のように綺麗だった。

「糸師冴と潔を潰す」

糸師くんの倒したい相手に潔選手も加わったらしい。せっかくできた友達なのに…と思いつつも昨日の敵は今日の友という言葉もあるしいつかまた友達に戻るのだろう。それに糸師くんの場合はライバルと書いて友と呼ぶみたいなところがあるからきっとマブダチ昇進待ったなし。しかしまずはその前に、

「危ないから座ろうか」

膝立ちになり糸師くんの服の裾を掴んだ。こんな場所で立つんじゃない。普通に危ないから。そもそも柵を超えてる時点でアウトだけど。

「お前は俺の保護者か」

当たらずといえども遠からず。無言のままでいたら手を払い除けられた。そしてそのまま体の向きを変え柵を掴み、反動をつけ乗り越える。慌てて柵越しに下を覗き込むもスタントマン並みに綺麗な着地を決めていた。

「危ないなぁ」
「もう行くぞ」
「ちょっと待ってよ!」

そう言って後を追いかけようとする。が、思いの外高さがあって驚いた。上よりも下りる方がかなり怖い。

「どうした?」
「心の準備中」

一先ず柵を越えるまではできたが下まではやはり距離がある。そして身長百八十超えの糸師くんとの目線の位置からそれなりの高さがあることが分かってしまった。

「早くしろ」
「分かったから待って」

柵を掴み幅の狭いコンクリートの上にしゃがむ。先ほどよりは地面に近付いたもののやはり高さはある。これは転げ落ちる覚悟で降りるしかないか……そう心を固めた時、糸師くんがこちらへ距離を詰めた。

「受けとめてやるから飛べ」
「えっ?!重いからいい!」
「お前一人くらいわけねぇよ」
「むりむりむりむり!」

私を見上げ極真面目に言ってくる。いや無理だって。万が一にでも糸師くんに怪我をさせるわけにはいかない。しかし譲るつもりはないのか糸師くんはその場に腕を広げて立ったまま。そこにいると邪魔で降りられないんだけど。

「それなら手貸して」

妥協という形で手を伸ばす。そうすれば伸びてきた腕がしっかりと私の手を握った。これで少なからずバランスは取れるだろう。あとはタイミングだけだ。

「じゃあせーので降りるからね。せー……のぉぉおぉ?!」

繋がれた手が引っ張られぐらりと体が傾いた。その拍子に柵を掴んでいた手も滑る。そのまま重力に従う形で倒れていき身を強張らせた。しかし次に感じた衝撃は思いの外柔らかいものだった。

「大丈夫だったろ」

それは言葉通り糸師くんが抱き止めてくれたからだった。
爪先立ちになっていた足をつけて顔を上げれば端正な顔立ちが目の前に。

「うん、ありがと」

きゅうりを見て飛び上がる猫並みの瞬発力で距離を取る。その態度が気に障ったのか糸師くんの眉がキュッと中央に寄った。

「あ?なんだその態度は」
「私の華麗なる着地を披露しそびれちゃったなと思って」
「体育三の奴がぬりぃこと言ってんじゃねぇ」

帰んぞ、と呆れたように吐き捨て歩きだす——だから、たたらを踏んでその後を追いかける形になってしまった。

海岸沿いを駅に向かって歩いていく。ここは車の量は多いが歩行者はほぼいない。脇を走るエンジン音と波の音だけが聞こえる。

「明日ヒマか?」
「いや、普通に学校あるでしょ」

耳に馴染む音の隙間を縫うように会話が進んでいく。視界の端に映る西の空は水彩絵の具を溶かしたようなグラデーションに染まっていて夜の始まりを告げていた。

「そうか」
「そうかって、糸師くんは学校来ないの?」
「行かね」

そろそろ本当に出席日数が不味いことになるんじゃ……と思っていたがその点は大丈夫らしい。強化選手として呼ばれている間は特別に授業が免除されるため学校に行かなくてもいいとのこと。私がプリントを取っておいた意味とは()

「そっか」

じゃあ私の後ろの席はこれからも空いたままなんだ。雨の日も一人で帰らなくちゃいけなくて糸師くんのぼっち飯に付き合うこともなくなる。いよいよはぐれメタル並みのレアキャラになっちゃうのかな。

「なら土曜に出掛けんぞ」
「はい?」

俯きかけていた顔を上げれば糸師くんはこちらを見ずに前だけを見ていた。そして私の視線に気付いたかどうかは分からないが「どうせ暇だろ」と言葉を続ける。いや、確かに用事はないけど。でもせっかくのオフなんだし他の人に声かけた方がいいんじゃないかな。しかし悲しきかな、彼には誘える友達がいないのだろう。しょうがない、付き合ってあげますか。

「いいよ、久しぶりのシャバだもんね。道案内なら任せて」
「たかが数日程度で地元が変わるワケねぇだろ」
「駅近くの雑居ビルにフクロウカフェができたらしいよ」
「マジか」

鎌倉の海に流れ着いた浦島太郎だな。そんな彼にいなかった時の出来事を話していく。
電話なんかじゃ物足りない。まだ先の事なんて分からないけれどこの一分一秒が愛おしくて大切に思える。
だから、手が繋がれたままの理由も今は敢えて聞かないでおく。

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