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『お疲れサマンサー!』

「お疲れ様です」


自宅の無駄に広いリビングに響く五条の声に、名前は静かに応答した。

テーブルの上には携帯端末が置いてあり、画面には五条悟とスピーカー設定で通話中であることが表示されている。
そして彼女の膝の上には五条に貸し与えられた可愛い(のかそうでないのかは各人に感性によるだろう)ぬいぐるみ――呪骸が鎮座していた。


『どう?今日も無事過ごせたかい?』

「ええ、特に変わりなく」


五条と出会ってから2週間が経過し、当初の(一方的な)険悪さはつゆ程も感じさせない円滑なコミュニケーションが取れるようになっていた。こうした五条との通話がほとんど毎晩繰り返されているのが主な要因だろう。

勿論この通話は“友人関係”から生まれたものではなく、先日より始まったある種の“利害関係”に起因する。
始めの呪力を認識するというステップについては相対での指導でなされたが、それ以降の呪力コントロールについては自主トレーニングという形でも十分可能だということ。また、売れっ子呪術師である五条は忙しく、名前も学生とはいえ予定がないわけではない。そのためこの指導方法が最も効率的であるとの判断ゆえである。

具体的なトレーニング方法としては今まさに彼女が膝に乗せている呪骸を利用した方法が採用された。
この呪骸は一定量の呪力を流し込んでいる間は眠っているが、呪力が乱れると甲高い声で鳴き叫ぶようになっており、呪力コントロールの訓練には最適な道具である。
訓練を始めた当初は通話中で何度も鳴き叫び話題が中断されることも多かったが、名前の飲み込みはそこそこ早く――近所迷惑という四文字への必死さもあり――今はほとんど眠った状態をキープするようになっていた。

ちなみにこの通話が出来ない日には五条セレクト映画作品の一人観賞会が強制開催されることとなる。


「五条さんは?」

『えっ、やだ、僕の安否を気にしてくれるなんて初めてじゃん…どうしよう、ときめいちゃうっ』

「お元気そうで何よりです」


五条の軽口をさらりと流しつつ、名前は今日の話題について考える。
呪力コントロールという訓練の性質上、名前が気の逸れる状況に置かれることが望ましい。なので毎度主な話し手となるのは彼女の方だ。

しかし彼女から会話を始めたことはほとんどなく、五条が先に質問して それを掘り下げていくというパターンが多い。
何故ならば今までの経験から友人を作ることに消極的なのでサークルなど仲間内の話はなく、親族はもれなく死去しているため身内話もなく、これといって熱中している趣味がないので趣味話もなく、財政状況は潤沢過ぎるのでアルバイト話もない。していることと言えば学業と未だ終わらぬ故人たちの遺産相続や遺品整理などである。

さすがにそれらは話題としては相応しくはないので、彼女は他に話せそうな話題を求め脳内を漁っていく。己の訓練なのだから己も協力的にならねばという思いからだ。
しかし彼女が思いつくより先に、五条が思いつく――否、持ちかける機会を伺っていた話題をようやっと口にした。


『今日はちょっとさ、気になってたこと聞いてもいい?』

「……いいですよ」

『僕と初めて会った日に霊園近くであった呪霊、何か感じた?』

「………」


名前は呪霊と対峙したあの日、自分が唐突に思考停止した自覚があった。だからその直ぐ後に夕食を共にした五条がその理由を聞かないことに、内心疑問を抱いていたのだ。今になってその質問をされたことで、薄々察してはいたもののやはり気遣われていたのだと知る。

恐らくその気遣いは、精神面だけではなく情報面にも向けられていたのだろう。あの日彼女に与えられた情報量は多かったが、それでも尚あの呪霊・・・・について考察するには材料が不足している状態だった。実際、この2週間で訓練ついでに五条から呪霊についての様々な講義を受け、ようやく彼女なりの結論に達している。そのため、話題に挙がる頃合いとしては良いタイミングだった。


「蛇は、一族の象徴なんですよ」

『へえ、そこそこメジャーなトコいくね』


名前は考察の結果を話し始める。
それに対する五条の返答はあっさりとしたもので、話の続きを促すものだと察した名前はそのまま続けた。


「創始者であるおじい様――おじい様とは言っても、曾祖父のそのまた曾祖父なのですが…その人が窮地に陥る度、助けてくれたのが蛇だったというおとぎ話からです」


古来より豊穣の神として蛇を好む人間は多く、彼――苗字家が繁栄するに至ったその切っ掛けの商人――苗字 雅巳もその一人であった。

そんな雅巳が窮地に陥る話の度、救世主として登場するのが巨大な蛇だ。そのため一族の守り神とされていて、本家敷地内には社まであった程だ。雅巳を崇拝する曾祖父が毎朝欠かさず手入れをしていたことは彼女の記憶に強く残っている。


「そのおとぎ話の真偽は不明ですが、象徴なので身内のイベント事だと大体登場します。本家にも蛇の置物や絵画が多くありましたし。だから、我々・・からするととても馴染み深いなんです」


苗字家の人間に“一番馴染み深い生き物は?”と問うたなら、間違いなく“蛇”と返ってくる。もはや生き物というよりも、自己を構成する一部とさえ言える程に根幹的な存在なのだ。


「あの日、霊園近くで出た呪霊は、蛇の姿をして…私の名を呼びました――だから、」


名前はそこで一度言葉を切る。しかしそこまで口にしたのなら、言ったようなもの。
彼女が何故あの日、あの呪霊への攻撃の手を止めたのか。その、答え。

彼女は重い口を静かに割った。


「だから…死んだ親族の、私に向けた・・・・・呪いなんじゃないかって、そう、思うんです」


通常呪霊は意味ありげな言葉を意味なく零しているだけで、会話などは成り立たない。何故なら、複数の呪いの寄せ集め・・・・・・・・・・に過ぎないからだ。複数の人間の雑多な感情が一つに集約して形を成しているだけ。何もかもがバラバラで、その上一つ一つは取るに足らない程小さなものであるが故に何にもなれない・・・・・・・

であるならば一つの感情、一人の人間に向けられた複数人の呪いはどうなるのか?そこにはきっと、“目的”や“対象”が生まれるのではないか。
名前へ向けられた感情だけを固めた結果が、あの呪霊なのではないのか。

名前はこの可能性に気付いたときから、誰かに話さなければならないような、そんな気持ちを抱えていた。
そうしてついに今この時、ある種 罪の告白にも似たそれを口にする。


「私の周りでは、良くないことが起こることが多かったです。怪我をしたり、死んだり。…今思えば、呪霊のせいも大きかったでしょう」


しんとした室内に呪骸の寝息だけが息づいている。五条は何も言わない。どんな顔をしているのかは名前にはわからなかったが、何となく、笑ってはいないだろうと察していた。
五条悟は他人の心を無関心に扱うような人間ではないだろう。そういう確信を知らず知らずのうちに得ていたからだ。だからこそ、誤魔化すことなく返答したとも言える。


「でも、親族といるときはなかったんです」


名前の脳裏には、今は亡き親族たちとの交流が浮かんでいた。
金を稼ぐ才に溢れた活動的な大人たち、何不自由なく豊かな発想で生活を楽しむ子供たち。恐らく世間では“変わり者”と称されるであろう人間たちの集まり故に集団性はなかったが、気の良い人間が多かった。
行く先々で巻き込まれる不運のせいであまり外に出たがらない名前だったが、親族の集まりだけは安心して参加することが出来た。凄惨な事件に巻き込まれることはなく、自分を遠巻きに見遣って小声で話す人間もいない。むしろ忘れさせようと彼女を頻繁に遊びに連れ出してくれるほどだった。


「親族は、誰でもしょっちゅう呪いに纏わりつかれていました」


金がある。そう思われるだけでも呪われやすい。とは、五条の言葉だった。そう言われた彼女が思い出した光景は、親族とその彼らに憑く呪霊たちだ。

呪霊――あの頃の名前は幻覚だと認識していたが、思い出すどのシーンにもそれは存在した。むしろ、いない光景を思い出すことが困難なほどに。しかも会うたびに違う呪霊を連れているのだから相当だ。しかし名前は恐ろしくもなんともなかった。友人といるときの呪霊は、不幸を連れてくる不吉の象徴だったが、親族といるときの呪霊はただの景色の一部だったからだ。絵面だけならば親族といる時の方が余程の地獄絵図であるにも関わらず、だ。


「でも皆なんともなかったんです。いつだって、あっけらかんとしてました」


――つまり、呪霊は苗字家の人間を害することが出来なかったため、名前にとっては主張のうるさい背景画像でしかなかった。

非術師であっても呪力が全くない訳ではないため、呪いによる影響には個人差がある。
少しの呪いで影響される者もいれば、多少の呪いではびくともしない者――苗字家の人間には後者にあたる人間が多く、そもそも呪いへの耐性がある家系だったのだろうと彼女は五条の話から推測していた。


「様子が変わったのは2年ほど前です」


名前が大学受験を終えた頃、彼女の祖母が亡くなった。明らかな不審死だったこともあり、皆動揺したものの、それだけだった。他殺であったならば何かできたろうが、そうでなかったので 為すすべがなかったと言った方が正しいだろう。とにかく、多少のわだかまりはあったものの粛々と葬送は進められた。
ところがその1週間後、またしても親族から不審死者が出た。そうしてそれは続いていった。さながらリレーのように。


「初めは祖母、次に叔父と従兄、それから伯父夫婦、私の両親…順番に死んでいきました。そして死んでいくほどに私の名前があがる・・・・・・・・ようになった」


死者が増えるほどに苗字家の関係者は“原因が必ずある”と確信していく。4件と続けば、まるで連続殺人事件が起きていると言わんばかりの様相になっていった。ほとんどが不審死であるのにだ。

そうして5件目で名前だけ・・が生き残るという状況が起きたとき、関係者の脳裏に浮かんだのは数多の凄惨な事件で生き残ってきた彼女の異常性だった。そう、今まで偶然として目を瞑ってきたソレ・・――彼女という死神の鎌・・・・・・・・・がついに自分たちに向いたのだと理解したのだ。

それから彼女の周辺は激変した。名前への親族への態度が全く違うものになったのである。縋り付いて許しを請うものもいたし、疎遠になったものもいたし、怨敵を見るような目で呪詛を吐きかけるものもいた。

そんな彼女の環境の変化など差し置いて曾祖父が死に、生前彼の言っていた通り遺言によって名前が家督を継ぐことになったため、一層状況は酷くなる。

しかしどんなに状況が酷くなろうとも、追い打ちの手は緩められることはなく、親族以外に使用人までも不審死することがあったし、全くの他人が巻き添えで死ぬこともあった。相変わらず名前だけは狙い澄ましたかのように避けながら。

――そうしていく中で、ゆっくりと確実に名前の心は死んでいった。


「祟りだの呪いだの散々言われてきましたし、呪いたければ好きに呪えば良いと、今も昔も思っています。人の心なんて、どうすることも出来ませんから」


彼女は唱え続けた。
『偶然なんだ』『運が悪かった』『理由はない』『私は何もしていない』『私に罪はない』『私は――殺していない』


「でも、」


親族が残らず死に終わった・・・・・・とき、彼女は過去を振り返ってみた。不思議と浮かんだ映像は、縋り付いて許しを請うたものでも、疎遠になったものでも、怨敵を見るような目で呪詛を吐きかけたものでもなく、笑顔で談話していた親族たちの姿だった。失ってしまったけれど、確かに存在していたその光景は、今なお彼女を支える柱のひとつである。

両親への親愛もまた柱のひとつだ。幼少から妙な幻覚に怯え、惨状の中ひとり生き残る娘への恐怖心は確実にあっただろうし、実際彼女自身がそう思われていることを感じとる場面もあった。
けれど無償の愛情を注いでくれていたこともまた真実だった。

しかしあの呪霊・・・・と対峙し、考察し、一つの結論に辿り着いた彼女はわからなくなる。あの光景は嘘ではなかったはず・・・・・・・・・だが、果たして最期まで真実だった・・・・・・・・・のだろうか?


「親族に呪われたのなら――正直少し、堪えます」


そこまで言って、名前は口を閉ざした。
口にした考察にはある程度の確信があったが故に、それ以上話せることがなかったからだ。

少しして、口を開いたのは五条の方だった。


『あの呪霊は名前の思う通り、多分、親族から君に向けた呪いだと思う』


名前は動揺しない。考察が終了した時点で己の罪として向き合っていたのだ。受け入れられるかは別として、その考察が第三者から事実だと指摘されたところでもはや何ともない。


『でもね、君のことを本当に呪いたかった・・・・・・・・・のかは、わからない』

「…わからない、…?」

『呪いたいから呪うんじゃない。それだけが君に向けられた全部じゃない』


五条はきっぱりと言い切った。術師が向ける呪いとは違い、非術師のそれは完全に無意識下で処理されるものであり、制御不能である。
そして人間の感情とは決して一元的なものではない。名前という人間に向けられる親族たちの感情が呪いだけだということは有り得ないのだ。

であるならば、彼女の感じた温かな感情が上辺だけで演じられたまやかしであることはない。


『もしかしたら、これからも君に向けられた呪いが現れる可能性はあるけど、君はそれを受け止める必要はないよ』


五条は彼女自身でさえ気が付いていない、罪の意識というほこが向いている先に気が付いていた。
だからその矛先を下させるために――否、矛先を正しい方向に向ける為・・・・・・・・・・に続ける。


『だから君は、アレを祓っていい・・・・・・・・


“君のせいじゃない”――そういった類の、あやふやなフォローよりも余程、五条の言葉には説得力があった。
名前の心を癒す言葉ではなかったが、間違いなくこれから・・・・の彼女の為になる言葉。

今までそもそも呪霊だという事さえ知らず、知ったところで話せる相手もいなかったために、今更になってようやく向き合ったものの独りで抱えるしかなかった問題――それを吐き出させてくれた。
その上で、それを正しく認識する一助となった五条に、名前は静かに筆舌に尽くし難い何か・・を感じざるを得なかった。

一つ間違えたなら“依存”とも呼べそうな感情に、彼女の冷静な部分は警鐘を鳴らしていたが、湧き上がる感情のすべてを殺すのはどうしたって難しい。久しぶりに押し寄せる感情のいずれに言葉を委ねるべきなのか思案した結果、名前は沈黙することになった。

そうしている間に、五条は明るい声で話題を切り替える。


『ま!その前に祓えるのかっつー問題があるワケで!』


唐突に吹き飛んだシリアスムードに、名前は瞬きを繰り返した。


『そこで来週は実践編!実際に祓ってみよ〜!』


しんとした室内に、五条の快活な声が響き渡る。


『おーい、名前チャン?聞いてる?』

「…ふ、あはは」


室内の空気と五条のトーンの落差に、名前は思わず吹き出し、そのまま笑声を零した。


「はは、なんだろう、五条さん、センセイみたいですねぇ」


年相応にきゃらきゃらと笑った彼女が、本当に五条が教壇に立っていることを知って驚くことになるのは一頻り笑ったあとのことだった。


210321
  

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