この先も共に


大きい扉を開けば、誰もいない静かな部屋に少しの騒がしさが戻ってくる。
外から差す柔らかな光は見るからに高価な部屋の装飾品を美しく際立たせ、床に影を伸ばしていた。
部屋に戻ってきた月詠が紺色のソファへとゆっくり腰をかければ、続くようにフロイも隣へと腰をかける。

「楽しかったけどちょっと疲れたね」
「主役お疲れ様、フロイ」
「ユイも慣れない事だったと思うけどお疲れ様」

ふう、っと少し疲れた様子で息を吐きながら笑いかけたフロイに、月詠も疲れた様子で労いの言葉を返す。
先程まで大勢の客人が集い賑わう中、だだっ広い空間で立ちっぱなしだった二人はすっかり疲れ切っているようで、体全体をソファに預けている。
しかし、反面で二人の表情はどこか柔らかく、特にフロイの表情は疲れを感じさせない程、晴々としていた。

なぜなら今日は、6月12日​───そう、フロイの誕生日だったからだ。

彼等が先程までいた場所もいわゆるパーティー会場。彼の出生を祝うための催しだ。
ロシアでも誕生日の日は日本と変わらず、その日産まれた主役の誕生を祝うため、誕生パーティーが開かれる。それは家族ぐるみの間だけという時もあれば、仲の良い友達等を招待する時もある。だが、日本と全く正反対な所は、サプライズ好きな日本に対してロシアの誕生日はその日の主役が全て準備するという決まりがあるという所だ。つまり、もちろんサプライズなどあるはずなく、ただ招待をした友人達からお祝いの品を受け取り、お祝いの言葉を投げかけられ、そうして誕生を祝されるのだ。
そして、フロイはオリオン財団を司るギリカナン一族の一人。現理事長はフロイの実の兄であるべルナルド。
その事から誰しも予想は着くだろうが、その立場にいる彼の誕生パーティーは盛大に行われた。幼い頃から同じ光景を見てきたフロイは、それ故に多少耐性があったためか、暫くすると疲れた様子は何処かへと消えていた。

すっかりご機嫌なフロイ、反面で月詠は初めての誕生パーティを未だ慣れない地で祝った。文化の違いにはもちろん、大勢の客人にも驚き、なんとなく予想はしていたものの気を休める暇さえなく。集まり事が余り得意ではない彼女からすると、とにかくその場から離れたいという気持ちと、彼の誕生日をお祝いしたいという気持ちの狭間で揺れて考えれば考えるほどその疲労へ追い討ちをかけていた。
おめでたい日であるのに、このままではいけない。そう思いながら残っている疲れを振り払うように首を左右に振り、何か楽しくなるような話題を提示しようと考えた。
その時、頭に過ったのは日本にいる彼の顔だ。

「そういえば、光から連絡は?」
「あったよ。誕生日おめでとう、って。ユイにもよろしく言ってたよ」
「そう。光も律儀だね」
「それは、ユイも同じだと思うけど?」

一星はきっとフロイの誕生日をお祝いするため、何かしら連絡を寄越したはずだ。そう思った月詠の勘は的中した。
自身の知らぬ間に連絡を取り合っていた二人。片方の光は、フロイの誕生日を祝うだけでなく、彼女の事に対してまでも忘れず触れてくる。日本とロシアとでは時間差も大きくわざわざ忙しい中で、なんとも律儀なんだろうかと思い口にすれば、どうやらそれはフロイから見た月詠もそうだったようだ。「そんな事ないと思うけど…」とぼやく月詠とフロイの視線が交わる。何となくおかしくて、二人はくすくすと笑い出した。

小さな笑い声が静かな部屋ではよく聞こえる。
ふと、突然フロイが「ねぇ、ユイ」と彼女の名前を呼んだ。どうしたの、と返そうとすれば、それを遮るようにフロイの身体が傾く。
ぽすっ、と音をさせて月詠の膝の上に倒れ込んだフロイは、天井を向き彼女の顔を見上げる。ふわふわとした柔らかな髪と、伝わる彼の体温。アイスブルーの瞳に見つめられ、思わず月詠は戸惑いを見せる。
これは一体どういう意味だ。どうするのが正解なのだろうか。わけも分からずただただ手を彷徨わせる月詠にフロイは心底幸せそうな笑みを浮かべている。

「眠いなら部屋に………」
「大丈夫だよ、寝ないから。ただ、もう少しだけこうさせて」

ようやく放つことのできた言葉は、明らかに的外れで。それでも、フロイは気にせず目を伏せた。
長く白い睫毛が光を受けてきらきらと輝いているように見える。やっぱり、彼は綺麗だな。見惚れてしまいそうになるその顔に段々と月詠の心も落ち着き出した。

「ユイ」
「なに?」
「僕ね、今すごく嬉しいんだ」

目を伏せたまま彼は言う。頬を僅かに染めて、嬉しそうにこう語る。

「昨年も、一昨年も、自分の誕生日がやってきてこんなに嬉しい気持ちになったことなんてなかったよ」

思い返してみれば、自分の誕生日が何時にもなく待ち遠しく感じていたのなんてもうずっと昔の話だ。時が経つにつれて、誕生日という言葉も日も、彼の中では興味の対象外となった。誰かに指摘されることによってそういえばそうだったな、と思い出す程度。それくらい彼は自分の誕生日に無頓着で、彼の誕生日などほとんど無いにも等しかった。もちろん、祝われなかったわけでもプレゼントをもらえなかったわけでもない。わけではないが、彼の心にぽっかりと空いた穴を埋めるには余りにも足りなさ過ぎた。
ワクワクもドキドキも何一つ感じない、いつも通りの日常だったのだ。

「みんな祝ってはくれるけど、それは僕の産まれがギリカナンだったから。兄さんも、誕生日にはプレゼントをくれたけど、忙しくてお祝いの言葉を直接言ってくれることなんてなかった」

「でも、今日はちゃんと言ってくれたよ!」と後付けするフロイ。それがどれほど嬉しかったのかは、彼の表情から見て取れる。ほしいものに手が届いた子供のような無邪気さを秘め、照れ臭そうに笑っている。
僅かに目を見開いた月詠は、今まで見た事もない顔をした彼をただただ見つめながら、続く話に耳を傾けていた。

「きっと、今年こんなに幸せなのはユイやヒカル……みんながいてくれたおかげなんだろうな」

大変なことも、嫌なことも沢山あった。でも、それを全部打ち破ってくれたのは二人の存在だった。
オリオンをこうして助けてくれたのも、兄が元の優しさで触れてくれるのも、二人の​────いや、みんなのおかげだった。
開かれた瞼から覗く冷たい色の瞳が余りにも温かく、思わず目を細め口元を綻ばせる。

「フロイ」
「どうかしたの、ユイ?」

優しい声音が彼の名前を呼んだ。
膝の上で小さく小首を傾げてみせるフロイの手に、月詠は自身の手を伸ばす。そして、その手を優しく包むように両手で握り、きゅっと唇を引き結ぶ。
なんとなく、なんとなくだが、今なら言えそうな気がした。抱えた気持ちを素直に伝えられそうな気がしたのだ。

「誕生日おめでとう。昨年も一昨年もずっと長い間、貴方の誕生日を祝えなかったけど、私は貴方が産まれたこの日にすごく感謝してる」

だから、と口にし際む。何故か湧き上がる緊張感や余計な考えを追い出すように吐き出した息。そして、覚悟を決めたように彼女は話を続けた。

「だから来年も再来年も、誕生日だけに限らず、私を貴方のそばに……フロイの一番近くにいさせてほしい」

それは、昨年も一昨年も祝えなかった分の償いなのか、それとも自身の産まれに感謝してくれているからなのか、はたまた誰よりも自分を思ってくれているからなのか。彼女の言葉の意図に思考を巡らせてはみたが、すぐにやめた。
どれにしろ、彼にとってはそんなことどうでもよかった。彼女の心意よりも、彼女の放ったその言葉で彼は満たされた気がしたからだ。来年も、再来年も、彼女はずっとそばにいて、誕生日の日には祝ってくれる。自分よりも喜んで可愛らしい笑みを浮かべてこちらを見てくれる。安心感と満足感がフロイの心に流れ込む。
ふっと細めた目付きは柔らかく、頬には綺麗な三日月を浮かばせる。

「ユイってば今更だなあ。僕は、初めからずっとそのつもりだよ。ユイは違うの?」
「ううん、違わない」

握られた手を強く、握り返したフロイ。月詠は彼の答えと、手に感じる温かな体温に一瞬だけ目を見張って、そして笑った。
いつものように眉尻を下げて、どこか困ったよう微笑んだ。