「おい、瀬尾」
肩を叩かれて次の相手校の資料から視線を上げる。
「どうした?」
「どうした、じゃねぇよ。次移動だぞ?」
呆れ顔の山崎に俺は首を傾げ、教室を見渡す。
騒がしかったはずの教室に人の姿は彼と俺以外になかった。
「…あー、ホントだ。あれ、お前…松岡と一緒じゃないの?」
「トイレ行ってたから先に行ってもらった」
「あぁ…そういうことか…」
視線を資料に戻して小さく息を吐いた。
「ありがと」
「いや…順調に勝ち進んでるみたいだな」
「まぁね」
荷物を引き出しから出せば1枚のプリントが床に落ちる。
「落ちたぞ」
「あ、悪い…」
そのプリントを拾おうとした山崎がほんの一瞬だけ、眉を寄せた。
「山崎?」
「いや…このプリントって…」
視線をプリントに落として彼は首を傾げる。
「あぁ…進路調査か…」
真っ白なそれを見て彼は不思議そうに口を開く。
「決まってないのか?」
「…あぁ」
進路調査票を引き出しに押し込んで教室を出る。
「バスケのスカウトは?いいとこまで行ったら来るんじゃないのか?」
「来ても受ける気はないよ」
「は?なんで?」
大学では、バスケはしない。
俺の言葉に彼は足を止めた。
「なんで…」
「なんでって、それは」
「また、あの女か」
彼は目を細め、苛立ちを含んだ瞳をこちらに向ける。
「なんで、お前が怒ってんの?」
「お前にとってバスケってそんなもんなのかよ。なぁ、瀬尾」
「……山崎って、本当に優しいよな」
はぐらかすな、と胸倉を掴まれて壁に押し付けられた背中。
廊下を歩いていた生徒が足を止める。
「いつまで逃げてんだよ」
「……別に」
「逃げてんだろ」
あぁ、あの日…
俺が見惚れた瞳は多分、これだ。
「バスケが好きなんじゃねぇのかよ」
「好きだよ。好きだから、やってる」
「じゃあ、なんで…」
自分の口を開こうとしたとき、大和?と俺の名前を呼ぶ声がした。
視線をそちらに向ければ他のクラスのバスケ部員がいて、目を丸くして固まっていた。
「…山崎、授業行くぞ」
舌打ちをして俺の胸倉から彼は手を離す。
「悪い、なんでもないから気にしないで」
周りにいた人と友人にそう言って、さっさと歩き出した山崎の後を追いかけた。
「…悪い」
「別に」
山崎はこちらに視線を向けないまま右肩を撫で、居心地悪そうに肩を回した。
そういえばさっきプリント拾うときも…
「…山崎?」
「なんだよ」
足を止めて眉を寄せた山崎が視線をこちらに向ける。
不機嫌そうな瞳に俺はなんでもない、と視線を逸らした。
そんな俺を見て山崎は何も言わずにまた歩き出した。
よくわからない違和感が自分の中に燻った。
何か、隠しているのだろうか?
いや…俺の言えたことではないな。
教室に入っていった彼の背中を見ながら眉を寄せる。
松岡に微笑みかけて彼は席に座った。
「大和、いつまで突っ立ってんだよ」
友人の言葉に返事をして教室に入ろうとしたとき、ポケットに入れていた携帯が振動した。
「大和ー?」
「あー、悪い。ちょっと腹痛いから休むわ」
「は?」
友人と山崎が目を丸くしていた。
彼らに背を向けて教室横の階段を上る。
ポケットから出した携帯に映る名前はやはり、彼女だった。
「これから授業なんだけど」
流れ込んでくる甲高い女の声を聞きながら、屋上のドアの前で足を止める。
いつまで逃げてんだよ
山崎の言葉を思い出した。
逃げてるって、わかってるよ。
ドアノブにかけた手は力なく体の横に垂れて、ドアに額を当ててしゃがみ込む。
逃げてるってわかってる。
けど、向き合うのは怖いんだよ。
あの痛みを体が覚えている。
血の生温かさも骨が折れる音も体が軋む音も。
ゆっくりと冷えていく体も。
全て鮮明に覚えてしまっている。
もう、あんなのは御免だ。
『ねぇ、大和。大好きだよ』
電話越しに囁かれた言葉に目を閉じた。
俺はもう、その言葉には応えられないよ。
『バスケ、早くやめてよ』
嫌だ、やめたくない。
俺にはバスケしかないんだ。
『私より大切なものなんていらないよね』
お前を大切だと思えてたのは、あの事故の前までだ。
▽
授業を抜けた彼だったがその次の授業からは何食わぬ顔で教室にいた。
この前、交換した男の名前を電話帳から引っ張り出して発信ボタンを押す。
『はい、御影です』
「悪い、今平気か?」
『大丈夫ですよ』
電話の相手の御影に聞きたいことがある、と言えばなんですか?と返事をした。
「瀬尾が死にかけたことあるって、知ってるか?」
『死にかけたことがある…』
御影は少しの間黙っていたが、あのとどこか言いずらそうに口を開いた。
『凛から、俺のことは聞きましたか?』
「お前の事故のことか?少しは聞いてるけど」
『なら、話は速いです。その事故の後のリハビリで俺は大和さんと出会ったんです』
リハビリで瀬尾と?
『車に撥ねられたって大和さんは言ってました。腕とか足とか骨折してて…バスケもできなくなる可能性があって…』
「それ、いつごろだ?」
『大和さんが中3の時です。最後の大会に出られなかったって言ってました』
事故の状況は知ってるか?と尋ねれば詳しいことは残念ながらと彼は言った。
その事故がアイツの言っていたことの可能性はある。
『ただ…』
「ただ?」
『彼を撥ねた運転手の人は誰かに突き飛ばされたようだったって証言してるって話は聞きました。けど、他の証言とは食い違いがあるとかで…病院内ではちょっとした話題になってました』
他の証言の内容はわかるか?と言えば彼は少しの間口を閉ざした。
『確か…バランスを崩して、道路に…みたいな感じだったと思います。近くにいた女の子の証言だったはずです』
「…ありがとう。助かった」
電話を切って大きく息を吐いた。
憶測に過ぎないがアイツは突き飛ばされたんだ。
別れ話をして怒った彼女が彼を突き飛ばした。
そして、車に撥ねられた。
近くにいた女の子ってのは多分アイツの彼女だ。
自分のやったことを隠そうとして、証言を変えた。
それで…中3の大会をダメにした過去があるから我慢してるんだ。
全て…
「バスケが好きだから、逃げるしかねェんだ…」
右肩を撫でて視線を体育館に向ける。
けど、だからって…バスケをやめるのか?
バスケが好きだから今まで我慢して付き合ってきたんだろ?
バスケをやめて、自分の身を守って、あの女と付き合い続けて…それでどうなる?
お前、本当にそれでいいのかよ。
「…いいはず、ないよな?」
じゃあ、どうする?
放っておくのか?
才能も恵まれた体もあるアイツが、たった一人の女のために全てを捨てるのをただ眺めてるのか?
それは、あり得ねぇだろ。
見てしまったのだ、アイツの楽しそうに笑う顔を。
目が奪われた。
目を逸らせなくなった。
あんなの、初めてだった。
初めて、男に見惚れた。
「絶対に、何とかしてやる。お節介だろうが有難迷惑だろうが関係ない」
俺がそうしたいと思った。
俺がそうするべきだと思った。
もっと大きな舞台でアイツが笑う姿が見たいんだ。
「俺は、あの女からお前を助ける」
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