放課後、練習を終えていつも通り体育館に入れば珍しく彼の姿がなかった。

「…いねぇか…」

負けたのか、それとも疲れてきていないのか…
俺と会いたくなかったのか…

「まぁ、仕方ねェか」

ステージに腰かけて、返そうと思っていたボールを自分の横に置く。

この体育館で彼は3年間何を思ってバスケをしていたのだろうか。
彼の眼には、何が見えていたのだろうか。

そんなことを考えていれば倉庫のドアが開く音がして、入ってきた彼は目を丸くした。

「…山崎、」
「よう」
「……どうかした?」

いつもと同じ、笑顔が張り付いていた。

「ボール、返しに来た」
「あぁ…そっか。忘れて行ったんだっけ、俺」
「あぁ」

こちらに歩いてきた彼は俺の手からボールを受け取って少し、複雑な顔をした。

「…勝ったのか?」
「負けるわけないだろ。絶対に負けない、俺達は」

嬉しそうで、でもどこか泣きそうな顔だと思った。
終わりが確実に近づいている、そう思っているのかもしれない。

「山崎は明後日から地方大会だっけ」
「あぁ」
「…頑張れよ」

彼はそう言って微笑んだ。

「…なぁ、瀬尾」
「何?」
「明後日、暇なら…見に来ないか?」

きっと、俺の最後のレースになる。
それを見て、コイツがなにか思ってくれるかはわからない。
けどもしかしたら…何か変わってくれるかもしれない。
未来が閉ざされた俺を見て、未来を諦めることをやめてくれるんじゃないかって…

「見に行くって何を?」
「俺達のレース」
「…俺、水泳とかよくわかんねぇんだけど」

いいよ、それでもと言えば彼は首を傾げた。

「応援しろとか、そういうこと言ってるんじゃない。ただ、お前に見て欲しい」

真っ直ぐ、彼の瞳を見つめてそう言えば彼は居心地悪そうに目を逸らした。

「別に、いいけど…」
「絶対に、見に来い」
「あぁ」

目を逸らしたままの彼に俺はふっと笑って、隣を叩く。

「座れよ」

瀬尾は隣に座って、視線をボールに落とした。

「…見に行くなら、全国の方が良くないか?」

彼の問いかけにそれじゃダメなんだ、と答える。
全国まで、この肩が使えるとは限らない。
いや、多分無理だろう。

「…まぁ、試合もないからいいんだけど」

ボールを人差し指に乗せて、クルクルと回し始めた彼の横顔に視線を向ける。
子供みたいに、キラキラした目は水泳に出会った頃の自分にどこか似ていた。
凛と競い合うことが楽しくて仕方なかった、あの頃に。

「……お前は、なんでバスケ始めたんだ?」
「テレビで、NBAを見たんだ。衝撃を受けたよ」

瀬尾の口が綺麗な弧を描く。

「このボールを自分の体の一部みたいに操って、あんな小さくて遠いゴールに入れる。試合はたった1秒、2秒で流れが変わって。最後の土壇場、ブザービーターで逆転することだってある」

初めて見たそれはキラキラしてたんだ、と彼は言った。

「スゲェって、ただそれだけだった。自分もあんな風になれるかな、って自分もあそこで戦ってみたいって…そう思った」

いつまで経っても、色褪せないんだ。
子供が夢を語るみたいに、彼はキラキラしていた。

「あの日の衝撃。あのたった一瞬で俺の世界は変わった。あの日のことは多分一生忘れないよ」

彼の横顔に俺はただ、見惚れていた。
小学生の頃、凛が夢を語った。
そのときの横顔に良く似ていて、でもどこか違う。
目を逸らせなくて、心臓の音が速くなっていった。

「バスケに出会って初めて、俺の人生が始まった。そんな気さえする」

その人生を、自分で終わらせるのか?
…やっぱり、おかしいだろ。

「瀬尾、」
「何?」
「…俺は、」

彼と視線が交わって、俺は口を閉ざした。
なんて言おうとしたのか、わからなくなった。

「…山崎?」
「なんでもねぇよ」
「そっか」

彼ステージから降りて、ドリブルをしながらコートの中に入っていく。
綺麗な動作でシュートの体勢に入り、彼の手から離れたボールは吸い寄せられるようにリングをくぐった。

「綺麗だな」
「何が?」
「お前のシュート」

目を瞬かせた彼はふっと口元を緩めた。

「サンキュ」

本当に、綺麗だと思った。
彼がバスケをする姿が、バスケをしているその横顔が。
鼓動を速く刻み続ける胸に手を当てて、小さく息を吐いた。
強ち、凛が言っていたことも間違っていなかったのかもしれない。

いつからだろうか。
彼が俺の中に居場所を作り始めたのは。
いつからだろうか。
彼と過ごすこの時間を楽しみにしていたのは。
いつからだろうか。
彼のために、何かしたいと思うようになったのは。
いつからだろうか。

「…お前に惹かれ始めたのは…」

山崎?と彼は首を傾げてこちらを見た。

「見てるから、好きなだけやってろよ」
「じゃあお言葉に甘えて」

俺は、お前のために何が出来るだろうか。
お前のその楽しそうな笑顔を守るために、力になれるだろうか。
俺の泳ぐ姿を見て、何か変わってくれるだろうか…?

「俺は、」

お前を幸せにしてやれるだろうか。

「あ、そうだ。山崎」

シュートを打とうとしていた彼が手を止めこちらを見る。

「会場とか、時間とかわかんねぇんだけど」
「あー…悪い、俺も今は憶えてない」
「じゃ、後で教えてよ」

予定表持ってお前の部屋に行く、と言えば彼は頷いた。





11時ごろに部屋に戻れば少ししてノックの音が聞こえた。

「開いてるよ」

中からそう声をかければ、彼がドアを開ける。

「散らかってて悪いな」
「綺麗だろ。俺の後輩の部屋スゲェ汚いから」
「マジで?座っていいよ」

ベッドを指差せば彼はそこに腰かけて部屋をぐるりと見渡した。

「バスケばっかりだな」
「まぁな」

本棚も、壁のポスターも飾ってあるユニフォームも。
バスケに染められたこの部屋に彼は何が面白いのか笑っていた。

「その写真は?」

机の上の飾ってある2つの写真。

「中学の時のバスケ部の奴らと去年優勝した時の写真」
「へぇ…」

座ったばかりだったのに彼は立ち上がって、俺の横に立つ。
背を屈めて写真を見る彼がこちらを振り返った。

「っ!!?」

椅子に座っていた俺と振り返って彼の顔は予想以上に近くて目を見開く。
彼が息を詰まらせた音が聞こえて。
目の前に綺麗な瞳に自分が映っているのがわかる。

「わ、悪い」
「え?あぁ…平気」

山崎は顔を逸らしてベッドに腰掛ける。

「…中学の、写真」
「ん?」
「病院か?それ…」

写真の中心にいる包帯を巻いて病院の服を着ている自分。

「そうだよ。リハビリしてるとき」
「……そう、か」

彼の方に視線を向ければ山崎は俯いていた。

「お前の言った通り…あの頃の体は取り戻したよ。もうバスケは十分に、いや十二分にできる体だ」

けど、失ったもの全てを取り戻せたわけじゃない。

「過去は、どうやったって取り戻せない」
「瀬尾…?」
「あの頃と同じようにバスケをしてる。けど、あの頃とは違う仲間と、あの頃とは違うものを目指してる」

顔を上げた山崎が俺を見て何か言いたげな目をした。

「あの日俺が壊した俺達の夢は、もう一生取り戻せないんだ」

時計の針を逆向きに回したって、必死にバスケをしていたって、IHで戦っていたって。
俺達は前にしか進まない。
前にしか、進めないんだ。

「あー、こんな話しに来たんじゃなかったよな。会場と時間は?」
「あ、あぁ…」

彼が会場と時間を読み上げるのを近くのメモ帳に書き入れる。

「朝結構早いんだな」
「俺が見て欲しいのはメドレーリレーだけだけどな。まぁ、御影も出てるし早く来られるなら見てやれよ」
「あぁ、アイツも本当にまた泳いでるんだな」

兄を失って、その心臓を胸に抱き、また泳いでるのか…

「絶対に見に行くから。頑張れよ」
「…あぁ」

山崎は少し、悲しそうに微笑んだ。


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