観客席にいた人達が外に向かって歩いて行く。
その流れに逆らって観客席の方へ向かう。
凛が言っていた場所の近くの階段を上り観客席に出れば手すりを掴んでしゃがみ込む彼の姿があった。

「瀬尾、」

階段を足早に降りて、彼の肩を叩こうとして気づく。
彼の肩が僅かに震えていた。

「なんでだよ」

瀬尾の弱々しい声が耳に届いた。

「なんで、俺に見せた…」

それは明らかに俺に向けられた言葉だった。

わかっていたのだろうか、俺がここに来ることを…

「…俺さ、オリンピックで凛と肩を並べて戦うのが夢だった」

痛む右肩に左手を添える。

「だから、オーストラリアに留学した凛に負けねェように必死に毎日練習していた。夢に近づくため、夢を叶える為…俺はただ、その一心で毎日泳いでた」

けど、オーバーワークで肩を痛めた。
故障とリハビリを繰り返しながら、徐々に夢から遠ざかっていることに気づいた。

「叶うと思ってた。叶えられると思ってた。来るはずだったんだ、俺にはそんな未来が…けど、ダメだった」

手が白くなるほど、彼は手すりを強く握りしめていた。

「夢を掴もうと必死になればなるほど、この体は悲鳴を上げて夢から遠ざかる。…気付いちまったんだ、もう叶わねェって。もう、無理なんだって」

諦めたくなんてない。
もっと、もっと泳いでいたい。
まだ、足りない。物足りない。
俺は泳いたい、それしか…俺にはないのに。
水泳がなくなった世界は退屈で、空っぽで、色がなくて、真っ暗で。
そんな世界、俺には生きられない。

「…俺さ、水泳やめんだよ。けど、やめる前に失っちまった夢の代わりにちっぽけだけど大事な夢を見つけた。凛と…一緒に、泳ぎたいって。仲間になりたいって…そんな、夢」

1位にはなれなかったけど、満足してる。
アイツと初めてちゃんと仲間になれた。

「……なぁ、瀬尾。お前の夢はなんだ?」
「俺の、夢…」
「お前はまだ、続けられる。失った過去がどんなもんか俺にはわからねぇけど、お前にはまだ未来がある。まだ、戦える。まだ…夢を叶えられる」

ずっと我慢していた涙が視界を歪ませる。
それを手で拭って彼の背中を見つめた。
なんでかわかんねぇけど、目を逸らしたくなかった。

「頼むから、瀬尾…諦めないでくれ。あんな女1人のために…未来を捨てないでくれ」

どんなに欲しても俺には手に入らなかった未来を、自分から手放さないでくれ。

「俺は、お前の夢が叶う瞬間を見てみたい。俺の夢が叶う瞬間を見届けてくれたように、俺も…お前のその瞬間を見届けたい」

ゆっくり立ち上がった瀬尾が俯いたままこちらを振り返る。
手すりを握りしめて、白くなっていた手がそっと俺の肩に触れた。
労わるように、壊れ物を扱うように、大切そうにその手が俺の肩を撫でる。

「……わからない、」
「瀬尾…」
「…スゲェ、息苦しい」

彼のその言葉を聞いたのは2度目だった。

「…居心地がいいって言ってなかったか?」
「あぁ、そうだな…」

肩に触れた手は肩から離れて俺の首の後ろに回る。
強い力で引き寄せられて傾いた体は、彼の両腕の中にすっぽりと収まった。

「…っ瀬尾?」

水泳部の中でもガタイの良い俺の体は彼の腕の中ではどこか小さく感じる。
触れた温もりが心地よくて、心臓の音は速くなっていった。

「…山崎、」
「なんだよ…」
「ごめん」

耳に届いた謝罪。
お前、今どんな顔してる?
その謝罪は何に対する謝罪?
お前の気持ちは変わってはくれなかったのか?

大きな手が俺の頭を撫でた。
慣れない感覚が少し、くすぐったい。

「…ありがとな、山崎」
「あ、あぁ…」

ゆっくりと彼が離れてやっと俺と視線を合わせた。
いつもと同じ笑顔を見せて、俺の名前を呼ぶ。

「お疲れ様。カッコよかったよ」
「…サンキュ」
「時間、平気?もう戻らないといけないだろ?」

夜までは自由を貰っている、と言えば彼は少し考える素振りを見せてから俺の左腕を掴んだ。

「外、行こう。ここに居たら邪魔だしな」

さっきまで、見ていた彼が消えたような気がした。
震える肩も白く染まった手も全て嘘だったんじゃないかって、そう思ってしまうほどだ。

やっぱり、ダメだったのかもしれない。
彼の気持ちはそう簡単には変わらない、変われないのかもしれない。
けど、俺にはこれしか方法が浮かんでいなくて…

「なぁ、瀬尾」
「何?」
「お前の目に、俺はどう映った?」

人気のない廊下で、彼は足を止めた。

「…惨めだったか、俺は」
「ふざけんじゃねぇよ」

捕まれていた左腕を引っ張られ、ドンッと背中が壁に押し付けられる。
壁に俺の左手を縫い付ける彼の手はさっきと同じように白く染まっていた。

「……お前自身のことだからって、努力した自分を卑下するな」

真っ直ぐ俺を見る彼の目。
初めて見る、彼の表情。
言葉が出なかった。

怒ってる。
多分、いや…絶対。
この間、関係ねぇと俺に吐き捨てたあの時とも違う。
真っ直ぐ俺に向けられた怒りだった。

「…悪い」

俯いて、そう言えば彼は俺の手首から手を離した。

「…いや、俺も悪い。…なんつーかさ、キラキラしてたよ、お前。カッコよかった。今まで見た誰よりも」
「…なんだよ、それ」

嘘じゃないからな、と彼は言ってまた歩き始めた。

「どこ行くんだよ」
「考えてねェけど…腹減った」
「昼食ってねぇのか?」

食うタイミングなくて、と彼は言った。

「食ってからくりゃよかったのに」
「うるせ」

彼の隣を歩きながら、彼の横顔に視線を向ける。
バスケをしている時とは違う表情だ。
けど、どこか真剣で今まで見たことのない表情だと思った。

「そういえばさ、」
「なんだよ」
「悪かったな、この間。…なんも失ったことねぇくせにって何も知らねェくせにって…言ったろ?ごめん」

別に、と答えて彼から視線を前に向けた。

「俺、山崎のこと何も知らなかった」
「…それは、俺もだろ。俺も、お前のこと…何も知らねェ。…つーか、出会ってまだ半年も経ってねぇし」
「あぁ…確かにそうだな」

ずっと前から、お前と居るみたいだ。
彼はそう言ってクスクスと笑った。

「瀬尾、」
「何?」
「ありがとな、今日。見に来てくれて」

瀬尾はこちらを見て目を瞬かせた。
そして少し口を開閉させてから口を閉ざす。
言葉に迷っているのか、少し視線を逸らした。
そして、俺の方を見て言った。

「…俺も、ありがと」
「何でだよ」

礼を言われる筋合いはない。
けど瀬尾はそれ以上何も答えなかった。
ただ、いつもの微笑みを張り付けて静かに目を伏せた。


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