夢に囚われた哀れな少年
コンコン、とノックの音が聞こえた。
「入るよ?」
「開いてます」
「お邪魔します」
ドアが開いて部屋の中に入ってきた彼はシンプルな筆箱とレポート用紙を持っていた。
俺が座っていたローテーブルの前に彼も腰を下ろす。
「髪、濡れてますよ」
「あぁ、うん。待たせちゃ悪いかなって」
「そんなに気にしなくてよかったのに」
そう?と彼は首を傾げて、濡れた髪をタオルで拭きながら俺の手元を覗き込んだ。
「英語?」
「はい。大丈夫ですか?」
「全然平気だよ」
何処がわからない?と尋ねられてワークの空欄の場所を指差す。
「あぁ、これは…」
筆箱からシャーペンを取り出した彼がレポート用紙に英文を書き写していく。
綺麗な文字を目で追って、彼の声を聞いていた。
「まず、SVを見つけるんだけど。どれか分かる?」
「これがSでこっちがV…?」
「うん、正解」
伏せられた瞳。
鼓膜を擽る彼の声。
ずっと、会いたいと思っていた彼が手の届く距離にいた。
「烏丸君?」
レポート用紙に向けられていた瞳が俺を映す。
貴方は酷い人だ。
こんなに、人の心に入り込んでおきながら彼の中に自分の居場所はない。
「大丈夫?」
口を閉ざす俺に伸ばされた彼の手を掴む。
「え?」
教材を乗せたテーブルに膝をついて、彼の唇に自分のものを押し付けた。
体重をかけたせいでテーブルが傾いて、彼を押し倒すように倒れ込む。
テーブルの上にあったノートやペンが床に落ちる。
「…アンタは、酷い人だ」
眼下にある彼の綺麗な顔を見ながらそう、言葉を吐いた。
「勉強は、俺をここに呼ぶための口実?」
「…そうです」
「そっか。おかしいな、とは思ったんだよね。普段は宇佐美さんに教えて貰ってるから」
焦った様子もなく彼は俺を見上げながらそう話した。
「コンビニでも、様子が変だった。あんなこと普段は聞かない」
「普段って…なんですか。律さんが俺といた時間なんて…数えるほどもないじゃないですか」
俺の言葉に彼は目を丸くして、すぐに逸らした。
「…そうだね。ごめん」
「っ!!なんですか、そのごめんって…」
「烏丸君にそんな顔させて、ごめん」
頬に彼の指が触れる。
優しく目尻を撫でて、頬を撫でる。
「…ズルい」
「ごめん」
「嫌いにならせてくれればいいのに。そしたら、こんなに…苦しくなんてならなかった」
彼の手を振り払うことも出来ず俺は唇を噛んだ。
「…嫌ってくれても、いいんだよ。烏丸君が俺を嫌いになっても…俺にとって烏丸君は大切な存在であることに変わりはない」
「そういうとこが、ズルいんですよ」
俯いてそう吐き出せば、頬を撫でていた手が離れ俺の頭を強く引き寄せた。
彼の体に体を寄せて、肩に顔を埋める。
頭を撫でる手と、子供をあやすみたいに背中を撫でる反対の手。
「な、んで…」
自分にだけ向けられるわけじゃない優しさ。
俺以外にも沢山いる大切な存在。
一番になんてなれない。
彼の特別になんてなれない。
どんなに手を伸ばしても届かない。
こんなに近くにいるのに、何も掴めない。
「…なんで、だよ」
彼の両腕は俺の知らない人を沢山抱き締めてきた。
さっき触れた唇は沢山の人に愛を囁いて、名前を呼んで、数えきれないくらいのキスをした。
「どんなに、アンタを好きになったって!!アンタは、俺を見てなんてくれない!!どんなに待ってたってアンタは会いになんて来てくれない!!」
彼の肩を涙が濡らす。
背中を撫でていた手が止まる。
ゆっくり顔を上げて彼を見て、何も言えなくなった。
だって、なんで…そんな、泣きそうな顔して…
「あ、…ごめん…」
彼の両腕が力なく床に落ちる。
「…っ、ごめんな…」
迷子になった子供みたいに彼の瞳が不安そうに揺れる。
彼は今にも泣きそうで、逃げるように目を逸らした。
「…律さん、」
「ごめん、烏丸君。…俺が、弱いから。傷つけたんだね」
「っ、ここにいてください。ここに、」
それはできないと彼は答えた。
「できないんだ」
「なんで…」
「俺は、もう誰のことも待ちたくない。置いていかれるのは、もう嫌なんだ」
置いてなんていかないと言えば彼は首を横に振った。
「…ネイバーと戦う君たちが死なない保証は、ない」
「そ、れは…そうです、けど」
「帰ってこない誰かを待ち続けるのはもういい。もう、やめたんだ」
アイツはもう帰ってこない。
律さんはそう言って悲しそうに笑った。
「…最初から、俺の入れる場所なんて…なかったんですね」
「そんなことない」
彼の両手が俺の頬を包み込む。
「忘れたことなんてないんだよ、一度も。名前も誕生日も、好きなものも嫌いなものも。全部、覚えてる」
「…いっそ、忘れてくれれば嫌いになれたんですよ」
「忘れないよ。忘れられることがどれだけ、辛いことか知ってるから」
待ち続けるのも辛いです、と言えば彼は悲しそうに笑った。
「それも、知ってる。知ってるけど、忘れられてしまうよりはよっぽどマシだ」
「…覚えて、ますか?本当に?全部?」
彼は何の迷いもなく頷いた。
「じゃあ、名前…呼んでください」
「…名前は、するときしか呼ばないって決めてるんだけど。悲しい顔をさせちゃったから、特別にね」
「はい、」
京介、と優しい声で彼は俺の名前を呼んだ。
それだけで、じわりと胸に熱が広がる。
「…京介」
「っはい」
「…ごめんね、辛い思いさせて」
頬を包んでいた手が俺の頭を撫でてから、ぎゅっと俺を抱き締めた。
「叶えられることなら、なんでもする」
「…ここに住むのは…無理なんですよね」
「…うん。自分の居場所はもう作らない」
彼は居場所は作らない。
それは、本命を作らないということだ。
わかってた。
わかっていたはずなのに。
なんで、好きになってしまったんだろう。
報われない。
報われることなんてない、恋心。
嫌いになれたら、どれだけよかったか。
気付いたときにはもう、抜け出せないほどにハマっていた。
「…今だけ、」
「うん」
「今だけは…」
きっと俺だけじゃない。
もっと沢山の人が彼に惹かれ、囚われ、抜け出せずにいる。
全てを隠す彼に俺達は全てを晒していく。
嫌だとは、思わない。
彼の中に少しでも俺を残せるなら。
全て、晒しても構わない。
「…今だけは俺だけを見て、俺を…愛してください」
「それって、そういうことって捉えていいの?」
「…はい。初めから、そのつもりで律さんをここに呼んでますから」
少しだけ体を抱き締める腕が緩くなって、俺は体を起こす。
微笑む彼に唇を重ねれば頭の後ろに彼の手が回された。
くしゃりと髪を撫でられ、彼の唇を割って舌を入差し込めばそれに答えるように彼の舌が俺のものに絡まった。
「っ、ん」
甘噛みされ、吸われる感覚に背筋がぞわりとした。
「ベッド…行こうか?」
「、はい」
フワリと浮遊感がして、ベッドに下ろされる。
自分を見下ろす彼の背に腕を回し、引き寄せれば再び唇を塞がれた。
「はやく、」
俺の言葉に彼は妖艶な微笑みを浮かべた。
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