07
散々悩んで送ったメールに返信が来たのは数分前。そこに記された今から取りに行く、の文字に慌てて立ち上がったせいでごんっと頭をぶつけた。
「痛っ〜…」
二段ベッドの下にいたこと忘れてた。
彼の連絡先の記されたプリントを片手に部屋から出る。
沢村や降谷に見つからねぇように、と足音を立てないように学校の校門の方へ向かう。
校門で待ってます、とメールを送ればすぐに着くからと返信がきた。
そして、その返信から数分して彼の姿が見えた。
私服に身を包んだ彼が俺に気づいて、ほっと柔らかい笑顔を見せた。
「悪い、待たせたか?」
「そんな待ってないっす」
「そっか、よかった」
微笑んだ彼はぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でる。
いつもの行動なのにどこか恥ずかしくて顔を伏せた。
「あの、これ」
「登録した?」
「はい」
そのまま捨ててくれてよかったのに、と彼は冗談なのか本気なのかわからない声色で言った。
「捨てても、また渡されちゃいますよ」
「知ってる。…未来ってのはどうにも突き返せないらしい」
彼はそう言って困ったように笑った。
「今までずっと、何かを欲したことがなかったんだ。母親の負担になりたくなかったし、それが手に入らないわかってたから」
真っ白な未来を記す紙を見つめながら彼は言葉を続けた。
「これから先も、そうだと思ってた。今まで母親が色々なことを我慢して俺を育ててくれたからその恩返しをするつもりで自分の未来なんて考えたことなかった」
「なまえさんが結婚してなかったら…」
「適当に働いて、母さんに楽させてやろうと思ってたよ。けど、母さんは結婚して仕事もやめて幸せ掴んで…」
自分がもう必要ないことがわかったんだ、と彼は感情のない声で言った。
「そしたらさ、今まで考えたこともなかった未来を突然突き付けられた。…考えたってわかんないんだよ」
どうすべきなのか、何が正解なのか。
18年間目を向けたことのなかった未来とどう向き合えばいいのか。
「…正直、逃げちゃいたいっていう…弱音」
なまえさんは髪の毛をかき乱して、大きく息を吐いた。
「なまえさん、」
「ごめんな、カッコいい兄貴でいられなくて」
「…悩んだり、弱音吐いたりするくらいでカッコ悪くなんてなんないです」
え?と目を丸くしてこちらを見たなまえさんに少し言葉を躊躇った。
「俺、は…正解なんてないと思います。きっと、どの未来を選んでも後悔するしあのときこの未来を選ばなきゃよかったってきっと思うときがくる」
それでも、間違ってなかったって思えるように進まなきゃいけないんだと思います。
俺の言葉をなまえさんはなにも言わずに聴いてくれていた。
「けど、もし本当に間違えてしまったなら…またやり直せばいい。人生は一度きりだけど歩む道が一つだけなんて誰も言ってないです」
俺の言葉を聞き終えたなまえさんは力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。
「え、なまえさん!?」
「…カッコいいな、一也は」
「え?」
俯いたまま発せられた彼の言葉。
彼はどんな顔をしているんだろう、と見てみたくなった。
「ごめんな、ホント。カッコ悪りぃ…」
「たまには、弱いとこ見せてくれないと、近寄りがたいっすよ」
そういうもんか?と彼は少しだけ肩を揺らす。
「ちょ、笑ってんですか!?」
「散々、カッコつけたのに…この様かーって。顔もイケメンな癖に、ズルいな」
「なまえさんもイケメンですって。それに、そうやって周りに気を遣うとこって普通なら長所ですよ」
突然、腕を掴んだ彼はぐいっと俺を引き寄せた。
彼の突然の行動にバランスの崩れた体を彼はしゃがんだまま受け止めた。
肩に彼が額を擦り寄せ、首筋を髪が擽る。
「なまえさん!?なにしてんすか!?」
「ありがとう」
「なまえさん…?」
大きく跳ねる心臓の音が彼に聞こえてしまいそうで、唇をきゅっと噛み締める。
体を固くする俺の頭をいつもみたいに彼の大きな手が撫でて。
ゆっくりと彼は俺を離した。
交わった視線はいつもの彼の優しい瞳。
なのに瞳の奥の感情が読み取れなかった。
「一也に会わせる顔なくなっちゃうし、頑張るわ」
「いつ会ったってイケメンなくせに」
「そんなことねぇって。俺な、一也の前ではカッコつけてんの」
俺、ホントはすげぇ弱いんだよ。
彼はそう言って困ったように笑った。
「強いことが必ずしも正しいわけじゃないですよ」
「そっか」
「はい」
ありがとう、と彼は俺の頭を撫でて柔らかな瞳をすっと細めた。
「…いつでも、話…聞くので。頼ってください」
「そういうの俺が言いたかったな。けど、サンキュ」
じゃあ、そろそろ帰るからと彼はプリントをポケットにしまって背を向けた。
ひらひらと手を振って歩いていく彼におやすみなさい、と言葉を投げ掛ける。
「おやすみ、一也」
足を止め振り返った彼は微笑んでそう言葉を返した。
彼の姿が見えなくなり、俺はその場にしゃがみこむ。
「あー…緊張した…」
どきどきと未だに激しく鼓動を刻む心臓。
抱き締められるとか、思ってなかったし。
伝わってきた温度や、すぐ近くで聞こえる呼吸音。
一瞬のことなのに鮮明に覚えていた。
「やっぱりこれって…あれだよな…」
自分の好意が形を変えてきている。
「…なまえさんは兄貴…なまえさんは兄貴、のはず…なんだけどな…」
彼の嫌う好意に俺の感情は傾きかけていた。
男なのにとか、兄なのにとかそんなことを考えると前に根付いた想い。
「どーすんだよ、マジで」
これから先、一番長く共に過ごしていくのは彼だ。
そんな彼にこんな感情を抱いたまま接していけるのか?
「つーか、まず…俺ゲイだったのか?」
普通に女の子好きだったハズなのに。
何で、どうして、よりによって彼だったのか。
「カッコよすぎんだよ、なまえさんは…」
▽
「ただいまー」
誰もいない真っ暗な部屋の電気をつけて、そのままベッドにダイブする。
「あー…なんだこれ。何してんだよ、俺は…」
弱さは見せたくなかったのに。
カッコいい兄でありたかったのに。
あんな、カッコ悪い姿を見せて、話してしまった弱さ。
距離感を誤るなよって、アイツが言ってたのに。
何で、抱き締めた?
何で、抱き締めたいと思った?
「おかしいだろ。一也は、弟なのに」
この両腕にすっぽりと収まってしまう彼の体。
体を強張らせていた彼が、可愛いと思った。
もっと触れていたいと、抱き締めていたいとあのとき思っていた。
「…なんだよ、これ」
頭の中を彼が支配して。
俺が見た色んな表情が何度も繰り返し流れてくる。
どきどきしてる。
いつもより速く脈打つ心臓の音が静かな部屋の中に響いて聞こえた。
この感情は何だ?
こんな感情を俺は知らない。
ベッドから体を起こして、大きく息を吐く。
髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、ポケットの中に突っ込んだプリントを出した。
少しだけくしゃっと歪んだプリントを開けば真っ白な未来。
ただ1つ、書き記した名前の下に俺の字じゃない誰かの字。
誰のかなんて、考えなくてもわかった。
改めて見ると新婚みたいで恥ずかしいですね、なんて。
一也は何を思って、どんな顔してこれを書いたんだろう。
「つーか…新婚って、俺と一也が?」
あぁ、けどそれも面白いかもしれない。
一也とならこれから先ずっと、一緒にいてもいいと思えた。
そう思っていなかったらあのとき、一番長く俺と過ごしていくのは一也だよなんて言えない。
「…一也みたいな女の子がいればいいんだよな」
まぁ、きっといないだろうけど。
「あーぁ、やめやめ。風呂入って飯食お」
テーブルに置いたプリントの隣。
親友がくれたプリントの束が広げて置かれていた。
「…アイツにも、心配かけてるし…一也にも、クリスにも…迷惑かけてばっかで…」
アイツらみんな、優しいよな。
俺のことなんて見捨ててしまえばいいのに。
たとえ、道を間違えても。
またやり直せばいい。
一也の言う通りだ。
けど、それは自分で道を選んだ奴の特権だと思う。
「自分の道を選ぼうとさえしない俺に、それは…きっと許されない」
間違ってるかどうかなんて、俺にはわからない。
与えられた未来を甘受して、その道を進む。
たとえ、それが間違っていても関係ない。
それに気づくことさえ俺はきっとできないから。
「ごめんな、一也」
俺は、良い兄にはなれはいだろう。
兄という言葉に、チクリと胸を刺す痛みがあった。
けどその痛みが何かは、この頃の俺にはわからなかった。
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