06
昼休み。
ご飯を食べてからなまえさんの教室へ向かえば、廊下で先生と話している姿が見えて足を緩めた。

「みょうじ、いい加減に白紙で出すのはやめてくれ」
「…やめろって言われても白紙にしかならないんですよ。…色々、考えてはいるんですけど」

やっぱり、今更すぎてと彼は冷めた口調で言った。
あの時と同じ優しい彼じゃない、彼の姿。

「大学進学も考えたけど、やっぱり金銭面で難しいし。再婚したと言っても親父さんのお金を俺に遣っては欲しくないんですよね」
「どうして?」
「そのお金はきっと、後々に一也に必要になるお金なので」

人一倍周りに気を遣う。
彼の言葉を聞いたとき、自然とクリス先輩の言葉を思い出された。

「子供がそんなこと気にする必要ないだろ?」
「今更、子供でなんていられないですよ。お金を稼ぐのがどれだけ大変か、ずっと見てきたんですから」

突き返されたプリントを受け取った彼は困ったように笑った。

「…すいません、困らせてばかりで」
「どの道を進むか悩む生徒の相談に乗るのは俺たちの仕事だからいい。けどな、お前が悩んでるのはそれじゃない。両親や弟の未来ばかり気を遣って自分のことを考えようとしてないんだよ」

先生の言葉になまえさんは何も言わなかった。

「まず物事の中心を自分にしろ。お前の場合はそこからだ」
「…だから、今更そんなこと出来ないんですよ。今までの生き方はそんな簡単に変えられない」
「今までのお前の生き方を否定する気はない。お前がお袋さんのために色々我慢してきたことは間違ったことじゃない」

けど、これからはそうある必要はないんだ。

先生のその言葉になまえさんは手に持っていたプリントをぐしゃ、と握り締めた。

「大学進学のお金が気になるなら奨学金でもいいだろ?」
「…はい」
「もう一度考え直せ。まず物事の立ち位置からちゃんと変えろ。提出に期限はつけないから」

自分自身のために、自分の納得のいく答えを出しなさい。
それだけ言って、去っていく先生の背中を少しの間見ていたなまえさんは溜め息をついて。
窓枠に体を預け、皺の残るプリントに視線を落とす。

「…だから、今更だって…言ってんだろ」

その呟きは酷く、弱々しいものだった。

その姿を見ていていいのか、声をかけていいのか。
わからなくて、立ち止まった足を動かすことが出来なかった。

あー、と声を漏らしながら髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて彼は窓枠から背を離した。

「あれ、一也?」
「あ…あの、体育着…返しに来たんですけど…」

交わった視線。
目を瞬かせた彼は俺の言葉にいつもの笑顔をみせた。

「サンキュ」
「こっちこそありがとうございます。助かりました」

手渡したそれを受け取った彼は片手に持っていたプリントを少し雑に折り畳んでポケットに押し込んだ。

「あ、あの…」
「うん?」
「いや、えっと…さっき、の」

触れていいのかわからない。
けど、知りたいと思った。
悩んでいるのなら、力になりたいと思った。

「もしかして…聞いちゃった?」
「…すいません」
「謝ることじゃないだろ。ごめんな、変なとこ見せて」

彼は眉を下げて、困ったように笑った。

「進路…決まって、ないんですか?」
「そう。ああやって言われるのももう3回目」

なまえさんは俺や両親に気を遣ってる。
彼は気遣いだとは思ってないのかもしれないけど。

「あの、生意気って思うかもしれないんすけど」
「なに?」
「俺で良ければ、話聞きます」

俺の言葉になまえさんは目を瞬かせてから、微笑んだ。

「ありがとな。けど、これは俺の問題だから」

こう言われることはなんとなくわかってた。
俺は年下だし、血の繋がらない弟だし。

「…一也の前では、…」
「はい?」
「なんでもねぇよ」

彼は俺の頭をいつもみたいに撫でて目を逸らした。

今、何を言いかけたんだろう。
彼が隠したのは何だ?

「なまえー?」

今何を、と尋ねようとしたときに聞こえてきた声。
そちらに視線を向ければ以前、彼が一緒にいた先輩がいた。

「これ、頼まれてたやつ」

そう言って手渡したのはホチキス留めされたプリントだった。

「悪い、ありがとな」
「いいって、別に。あれ?なんか話してる最中だった?悪いな」
「あ、いえ…借りた体育着返しに来ただけっす」

俺の言葉にその先輩は目を丸くしてなまえさんを見た。

「は?なまえが貸したの?体育着を?」
「そうだよ」
「珍しいな」

一也は特別なんだよ、と頭の上に乗せられた手。

特別?
てか、珍しいってどういう…?

「こいつ、人に物貸すの嫌いなんだよ」
「え?」
「なんか昔流行ったおまじないでさ。好きな相手の私物を持ってると恋が叶うみたいなのあったろ?」

確かに、そういうのは聞いたことがある。

「それで、貸した自分の私物と相手の私物を勝手に入れ替えられたことがあってさ。しかも何個も」
「その話やめろって。思い出すだけで気持ち悪い」
「まぁ、そういうわけで人に物貸したがらなくてさ。俺にも貸してくんねぇんだよ」

お前は貸したら返ってこないだろ、と呆れた声で言って呆然とする俺の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

「一也、お前は特別だから。嫌々貸したとかそんなんねぇし」
「けど、俺…なんも知らなくて」

そうだ、何も知らない。
いつだって彼の隣にいる人から彼のことを聞くばかりで、直接教えてもらったわけじゃない。
ぎゅっと胸が締め付けられる感覚は、体育の時の暖かいものじゃなかった。

「そんな泣きそうな顔すんなよ。隠してるわけじゃないから。聞いてくれれば、答える」

俯いた俺の顔を覗き込んだ彼は至近距離で視線を合わせて、優しく微笑んだ。
頭を撫でていた手は頬を撫でる。

「一也」

何も知らないことが悲しかった。
知ってるこの先輩やクリス先輩が羨ましかった。
これは子供みたいな嫉妬。

こつん、と額に額を合わせられる。
周りがざわついたのになまえさんは気付いていない。

「知らないことは悪いことじゃない。まだ出会ってそんなに経ってない。一緒に過ごす時間だってこいつに比べりゃすげぇ短い」

わかってる。
わかってるけど、それがとても嫌だと思ったんだ。

「けど、これから一番長く俺と過ごしていくのは間違いなく一也だろ」
「っ、」
「だから、悲しい顔はしないで」

ゆっくりと俺から離れて、彼はポケットに押し込んだプリントを出した。
俺の胸ポケットに入れてあったシャーペンをすっ、と引き抜いた彼はそのプリントになにかを書いていく。

あ、なまえさんって左利きなんだ。
なんだろう、なんか…ズルいな…

「聞きたいことがあれば、いつでも聞いて。全部が全部、答えられるかはわからないけどできる限り話すから。愚痴でもなんでも、俺で良ければ、聞くし」
「え?」

いつでも連絡して、彼はそう言って俺の胸ポケットにシャーペンを戻して一緒にプリントを押し込んだ。

ヒソヒソと周りから声が聞こえて、視線を動かせば遠巻きに女子の先輩が此方を見ていた。

う、わ…
そうだ、さっきすげぇざわついて…

冷静になってみればとても恥ずかしいことをしていた。
一気に顔が熱くなって、顔を伏せる。

「あ、えっと…失礼しますっ!!」
「え?」

驚いている声を無視して階段をかけ下りる。
教室に行こうかとも思ったが、この顔で行ったらなにか言われることは確実で。
普段使われない空き教室に駆け込んだ。

勢いよく閉じたドアに背を当ててずるずるとしゃがみこむ。

彼の触れた頬に手を当てて小さく息を吐き出して。

「な、んだよ…なんだよこれ…」

どきどきと音をたてる胸。
彼に触れられた場所が熱を持って、彼の微笑みが目蓋に焼き付いて離れない。

嫉妬した。
なまえさんの色々なことを知ってる先輩や、クリス先輩に。
おかしいだろ、そこから。
嫉妬なんて、なんで…だって、俺は…なまえさんの弟なのに。

膝を抱えたとき、くしゃっと紙が潰れる音がして胸ポケットに視線を落とす。

「そういや、さっき…」

彼は何か、書いていた。
ポケットから出した紙に書かれていたのは携帯の番号とメールアドレス。

いつでも連絡して、ってこういうことか…

「てか、これ…先生に返されてたやつじゃ…」

折り畳まれたそれを開いて裏返せばやはり進路調査表だった。
真っ白なその紙の名前の欄。
綺麗な字で書かれた文字に、目を見開く。

「マジで…なんなんだよ、ほんと…」

御幸なまえ。
それは兄であるという証明。

これから一番長く俺と過ごしていくのは間違いなく一也だろ

弟の俺に向けられたその言葉。
嬉しいのに、素直に喜べないのは…どうしてだろう。





「逃げちゃった」
「そりゃそうだろ。昼休みの廊下でなんつーことしてんだよ、お前は」
「別に何もしてないだろ?」

それ、笑えねぇ冗談だぞと彼は溜め息をついた。

「お前にしちゃ、近いな。距離が」
「言ったろ、特別なんだって」
「…なんだっていいけどな。大事なら距離感誤るなよ」

友人はじっと俺を見つめた。
その視線から俺は逃げるように目を逸らした。

「好意を向けられたら捨てちまうんだろ?傷付けてやるなよ」
「…わかってるよ」

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