02
この日なら時間が作れるとメッセージが送られてきたのは数日前。
その中に偶然にもこちらのオフがあり、その日会う約束をした。
場所は稲実からも青道からも離れたところにある駅だった。

「…早く着きすぎたか…」

待ち合わせ場所の駅前で辺りを見渡し、目当ての人の姿はまだない。

話す機会をくれたことは嬉しかった。
だが、俺が聞きたいと思っていることは彼にとって聞かれたくないことじゃないのだろうか。
最初から失礼だったし、あまりいい印象は持たれていない気がするし…

そんなことを考えていれば肩をトントン、と叩かれた。

「悪い、待たせたか?」
「え?いえ、全然。今着いたところなので」

顔を上げれば彼が立っていた。
黒を基調としたシンプルな服に身を包んだ彼はどこか座れるとこ、行こうと歩き出して。
彼の少し後ろを歩きながら、彼の顔を盗み見た。

やはり、昔ほど鳴と似ていない。
目つき、髪色、雰囲気。

「どうかしたか?」

俺の視線に気づいたのか彼は視線をこちらに向ける。

「あ、すいません」
「謝んなくていいよ。最初の俺の態度が悪かったからかもしんねぇけど、そんなビビらなくても別になんもしねぇから」
「あ、いやそういうわけじゃないんすけど…」

有名なカフェのチェーン店に入って、少し暗い店内の一番奥の席に座る。
俺は紅茶を、成宮さんはアイスコーヒーを頼んで、すぐにそれが運ばれて来た。

使っていないミルクとシロップをテーブルの端に置いた彼はストローでコーヒーをかき混ぜた。

「悪いな、態々時間取らせて」
「いえ、それは俺の方っす」
「いいよ、聞きたいこと全部聞いてくれて。全部こたえられるかはわかんねぇけど」

ブラックのコーヒーを一口飲んだ彼は視線をこちらに向けた。

「聞きたいことはまぁ、なんとなくわかるけどな」
「成宮さん、あの…」
「…あー、まず成宮はやめよう。なまえにしてくれ」

じゃあ、なまえさんと言い直して視線を手元にある紅茶に落とす。

「野球は、辞めたんですか」
「うん、辞めたよ。高校ではやってない」
「…理由、聞いてもいいですか?」

恐る恐る尋ねて視線を彼に向ければ、彼はどこか言い慣れた様子で答えた。

「嫌いになったから。野球を」
「…嫌いになった…」
「と、いうよりは好きになれなくなったから…かな」

もう、やりたくねぇって思ったから。
だから、辞めた。

あっさりとした答えだった。
やりたくないから、やめた。
何もおかしなことはない。
ないけど…

「なんで、嫌いになったんですか?遊撃手で秀でた才能があったのに。打撃だって…」
「才能云々の話じゃないんだよ。才能があってもなくても、嫌いにはなる」
「…そう、ですか」

野球を嫌いになる。
その感覚は俺には分からなかった。
子供の頃から野球をやって、壁にぶち当たっても乗り越えた先にある物がどれだけ自分を楽しませるか知ってたから。
負けたら、次は勝つ。
それの繰り返しでも俺は楽しいと思ってた。

「神谷は野球、好きか?」
「はい」
「じゃあ、わかんねぇよな。いや、わかんねェ方がいいな」

好きなものを嫌いになるのって、苦しいからと彼は哀しそうに笑った。
彼も、元々は野球が好きだったんだ。
けど何かきっかけがあって、嫌いになった。
好きになれなくなった。
…それで、野球を辞めた。

何か言わなければいけないと思った。
沈黙は、あまり好きじゃないから。
けど言葉が出てこない。

「…そんな難しい顔すんなよ」
「え?」
「別に、慰めの言葉とか同意の言葉が欲しいわけじゃない。異論反論も正直聞き飽きたし」

神谷は聞きたいことどんどん聞いてくれればいい、と柔らかい笑顔を見せた。

「…もう、似てないんすね」

自分の口から自然と零れた言葉。
彼はストローを咥えたまま、目を瞬かせた。

「誰に?」
「鳴に…もう、似てないなって」

試合とかで見てきた笑顔と違う。
何か、無邪気なものじゃなくなって大人になった、落ち着いたそんな笑顔。

「兄弟じゃないからな。そんな似てないよ、昔から」
「…笑った顔とか、」
「アイツみたいに笑えば、楽しそうに見えるだろ?」

彼は首を傾げクスクスと笑う。

「俺の笑顔が鳴に似て見えたなら、その時には既に俺は野球を楽しんでなかったよ」
「え…」
「隠すのに必死だった。野球を好きになれなくなった自分を。だから、いつの間にか身に着けてた。楽しそうに見せる方法を」

それでもアイツには気付かれたけどな、と彼は言った。
優しい目、優しい声色。
真緒が白河の話をするときに、よく似ている。
だからきっと、彼が今思い浮かべているのは彼にとって大切な誰か。

「あの…、なまえさんは今、楽しいですか?」
「…楽しいよ。お前の選択は間違ってたって、誰かに言われても俺は間違ってたとは思えない。今が楽しいし、これからやりたいこともある。あのときみたいに、自分を騙してないから」

真っ直ぐな瞳。
嘘はついていない気がした。
彼は今、自分の道を歩いていてそれが楽しいと思っていて。
彼がもう一度野球をやることはきっとない。
俺が憧れた彼は、もういない。
もう戻ってこない。

「…なまえさんが、楽しいなら…よかったです」
「え?」
「けど…一度でいいから、なまえさんと野球がしたかった、です。一緒に外野守ってみたかった…」

からん、と氷がぶつかる音がして。
何も言わない彼に視線を向ければ、目を丸くして固まっていた。

「…なまえさん?」
「お前、なんで…」
「え?」

彼は首を横に振り、黒く染めた髪をかき上げて俯く。

「あの、なまえさん…?」
「なぁ、神谷。お前なんで俺が外野だったって知ってるんだ?」
「なんでって…見たこと、ある…からです」

何か、まずいことを言っただろうか?
彼を見ながら内心、焦っていれば悪い、と彼は小さく謝罪の言葉を呟いた。

「ちょっと想定外」
「え?」
「憶えてる奴がいると思ってなかったから。俺が、外野手だったって」

確かに、昔のことだし彼は遊撃手の印象が強い。
白河も彼を凄い遊撃手だと言っていたし。

「俺、なまえさんのプレーに憧れて外野手になったんです」
「憧れるようなプレーしたか?」
「ホームランになりそうなボールをフェンス登って捕った奴…なんですけど。大会の準決勝だったと思うんですけど…」

彼はあぁ、あれかと頬を緩めた。

「憶えてる。あれだろ?フェンスの向こうにそのまま落ちた奴」
「はい、それです」

あの時のこと、憶えてる奴がまだいたんだなと彼は少し嬉しそうに見えた。

そういえばあの時はまだ、今と同じような笑顔だった気がする。
歓声に少しはにかむように笑う彼は今彼の浮かべる笑顔に良く似ていた。

「憶えてる奴、いないんだよね。俺が外野手だったって」
「まだ小学の低学年か中学年くらいでしたもんね」
「鳴も、忘れてるんだよ。従弟のくせに、薄情な奴だよな」

鳴も知らないのか。
…なまえさんの話し、鳴には出来ないから全然知らなかった。

「そういや、鳴は元気?」
「あ、はい。元気っすね」
「ならよかった」

喧嘩してるんじゃないんですか、と言えば向こうが怒ってるだけだよと苦笑を零した。

「まぁ、怒らせる原因は俺にあるんだけどな」
「野球やめたこと、ですよね」
「うん。一緒に甲子園行くって約束破るのかよって。それ以来一度も会ってない」

野球も見なくなったから、今どんな感じかも知らないけど元気ならそれでいいやと彼は言った。

「俺が青道行ったから、アイツは稲実にしたんだよ。…野球をやってない俺には会いたくないって思ったみたい」
「そう、なんですか…」
「うん。まぁ、あの時のまま俺にべったりってわけにもいかなかっただろうし良かったとは思ってる。いつか、アイツの心を支えてやれる友達とか恋人ができてくれれば嬉しいってのが、従兄として思うことかな」

…心を支えてやれる友達とか恋人。
彼の言葉で浮かんだのは俺はまだ会ったことのない絵描きの恋人のこと。

「…いる、と思います。心の支えになってる人。」
「へぇ、いるんだ。どんな人か知ってる?」
「詳しくは全然…ただ、絵描きの恋人だってことくらいで」

アイツにも恋人が出来るんだな、と彼は笑った。

「…鳴と仲直りっていうか…こう、会おうとか思わないんですか?」
「別に、思わないね。会ったところでアイツは俺を受け入れられない。どれだけ歳を重ねて大人になっても…野球が好きなアイツに野球が嫌いになった俺を理解することはできないから」

彼の言葉に迷いはなく、どこか拒絶の色を含んでいる気がした。

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