04
神谷と会うよりも前から決まっていた稲実との練習試合を終えて、俺は露希に声をかけてから1人先に外へ出た。
向かった先は野球のグラウンド。

数年前までは自分もあちら側にいた。
フェンスの向こうに広がる景色を見ながらそう思った。

聞こえる掛け声。
金属バットの音。

耳に馴染む音を聞きながら、ただただフェンスの外からそれを見つめていた。

戻りたいか、と言われれば戻りたいわけではない。
楽しかった野球よりも楽しくない野球の記憶の方が多く残っているから。
けど、忘れられるものではなかった。
きっと彼も気付いている。
俺が心の底から野球を嫌いになれないこと。

好きだった。
大好きだった。
だから、嫌いになっていくのが怖かった。
好きなものを嫌いになる自分から逃げたくて、楽しい楽しいと自分を騙して。
でも、気付いたらもうダメだった。
騙し続けた代償に、俺は自分の気持ちを受け入れることが出来なくなっていた。
嫌いと嫌いになりたくないが自分の中で反発し合っていた。
心が耐え切れなかった。

だから、練習をサボって、試合をボイコットして。
そんな俺に鳴はいつも怒ってて、監督にも怒られて。
親にも白い目で見られた。
そんな中、露希だけは変わらなかった。
変わらず俺と接してくれて。
アイツもアイツで大変な時期だったから、お互いのことに干渉する余裕がなかっただけかもしれないけど。

「野球、やめちゃえば?」

露希はいつもと同じ、冷めた声で言った。
真っ直ぐとした目で俺を見ながら。

「俺も、やめる。家出ることにしたんだ。中学卒業したら」

俺一人じゃ、逃げられなかった。
なんだかんだ言って俺はいつも最後には嫌々でもグラウンドに行っていたから。
周りの目や声に俺は反発することが出来なかった。
あの時と同じ。
同じことを繰り返していた。

アイツの言葉に救われた。
俺は逃げることがいけないことだと思っていた。
けど、アイツはたとえそれがいけないことだとしても自分が正しいと思うことをしたいと言ったから。
だから俺もアイツと逃げ出した。

小さく息を吐き出して、首を横に振る。
逃げ出したのに手の届く場所にある。
それが、凄く自分を曖昧にさせていた。

「…大学は、野球部ないとこにするか…」
「…なまえ、さん?」

聞こえた声に視線をそちらに向ける、
そこには数日前に会ったばかりの彼の姿があった。

「神谷、」
「何でここに?」
「あぁ…部活の練習試合でな」

肩にかけていたスポーツバックに気づいた彼は目を瞬かせた。

「ハンドボール、ですか?」
「今はね。やったことないこと、してみたくて。これでも今は部長だったりする」
「部長…。なんか、なまえさんには似合いますね」

そんなことないだろ、と苦笑を零せば彼は少し遠慮がちにこちらに歩み寄ってきた。

「えっと、この間は…ありがとうございました」
「いや、別に気にしなくていいよ」
「……あの、」

彼は視線を少し伏せて、グローブをぎゅっと握る。

「すいませんでした」
「は?」

下げられた頭に今度は俺が目を瞬かせた。
謝られることなんて、会っただろうか。

「あの、何が?」
「……俺、嘘…吐きました」

彼は頭を下げたままそう言った。

「…まず、頭下げるのはなし。で?嘘って?」
「………なまえさんが、今楽しいならそれでいいって…言ったんですけど。…そう、思いたいとは思ってるんです。俺が、どうこう文句を言うことじゃないしその資格もない。だから、なまえさんが今楽しいならそれでいいって…思うべきなのに。思わなきゃいけないのに…」

やっぱりやめて欲しくなかったって思っちゃってるんです。

目を伏せて、彼は言った。

優しい奴なんだ、コイツは。
きっと、優しすぎるんだな。

「…別に謝ることじゃねぇだろ」
「けど、」
「そう思おうとしてくれただけで、俺は嬉しいよ」

そう言って笑えば彼は俺を見て目を見開き、そして唇を噛んだ。

「……俺が楽しいならいいって。そう、思おうとしてくれた奴も今までいなかったから。自分の選択が受け入れられないことにはもう慣れてるし、それを無理矢理理解させたいとも思ってない。今の自分を応援しろとは言わないから、邪魔はしないで欲しい」

冷たいこと、言ったかもしれない。
言葉にしてから俺はそう、思った。

「なまえ」

じゃり、と土を踏む音がして聞こえた声。
振り返れば露希が肩に鞄をかけて立っていた。

「悪い、露希。すぐ戻るわ」
「いいよ、話してる最中だろ?」

露希は神谷を一瞥してから腕時計に視線を落とした。

「時間もあれだから、反省会は明日の部活の時な。学校着いたらすぐに解散させるから、なまえは好きに帰ってくればいい」
「…悪い、ありがとな」
「いいよ、別に。それじゃ、また明日」

彼は背を向けて、離れようとしたがふと立ち止まる。

「話してるとこ、邪魔して悪かったな」

神谷の方を見て彼はそう言って、今度こそ歩いて行った。
そんな彼を見ながら友達ですか、と言った神谷に俺は頷く。

「小学からの付き合いの奴。青道入るきっかけになったのもアイツ。野球部あるし、どうするか迷ったんだけどな。露希がいるならいいかって」
「…仲、良いんすね」
「変わらないで、いてくれる奴だから」





なまえさんはそう言って、凄く優しい顔をした。
多分彼がなまえさんにとって大切な人。
偽物の笑顔に気づいた人は、多分彼だ。
彼はなまえさんの全てを理解してるのだろうか?
俺がわからない、わかれないことも彼はわかっているのだろうか。
そう、考えたら少しもやもやした。

「あの、」
「ん?」
「さっきの話に、戻っちゃうんですけど」

いいよ、と彼は言って俺の言葉を待った。

嘘ついていたなんて、態々言わなければバレないことなのに。
俺はどうしても耐えられなくて。
嘘を吐き続ける自分を俺はきっと受け入れられなかったんだ。
けど、なまえさんはその状態でずっと野球をしていた。
楽しいと偽って、嘘を吐いて野球をずっと…

「…俺、わかりたいんです」
「え?」
「少しでもいいから。なまえさんがどんな思いで野球をしていて、辞める決断をしたのか。知って、どうなるってことはきっとないし。こんな感情だったって、聞いてもそれが俺の感情にはならないからきっとわからないんだと思うんです。けど、それでも…」

俺の始まりで終わりの彼の終わりだけでも知りたいと思った。
知って、どうするかなんてわからない。
正直どうすることもできないだろう。
けど、嘘じゃなく彼の楽しいと思える今をよかったと言いたいし。
彼の選択を受け入れたいと思った。

「やっぱり、優しいな。神谷は」
「え…?」
「知らないことは悪いことじゃない。知らなければいいことも世の中にはきっと沢山あるよ」

俺の思いも野球が好きな神谷は知るべきじゃない、と彼は困ったように笑って俺の頭をポンポンと撫でた。

俺よりも多分大きい手。
バッドを持っていたその手には今、ボールが握られている。

「知るべきじゃないかもしれないです。けど、知らないと…知ってないと俺は何も判断できない。鳴みたいに野球を辞めたなまえさんを責めることは多分間違ってると思うんです。そこには何かしらの原因がある。好きだったものがふとした瞬間で嫌いになることはきっとないから」

知ったら受け入れられなくなるかもしれない。
知ったら彼の選んだ道を楽しいならよかったですと言えなくなるかもしれない。
けど、受け入れるにもそう言えるようになるにもやはり知らなくちゃいけないと思った。
目を逸らして、わかることなんて何もないから。

「だから、あの…「カルロー?」…鳴?」

俺の言葉を遮った声。
咄嗟に口にした名前にしまった、と思って彼に視線を向ける。

「気にしなくていいって言っただろ。俺はアイツに対して何も思ってないから」
「あ、はい…」
「呼ばれてるし、行ってきたら?」

彼は微笑んだ。
話しては、くれないみたいだ。
そりゃそうか…。
一方的に知っていた俺と違って彼は俺と話すのもまだ3回目。
信頼されるわけも信用されるわけもない。

「自由時間ってあんの?寮生って」
「え?あ、えっと…一応あります。…えっと、8時くらいから…ですけど」

彼はポケットから出した携帯に視線を落とす。

「適当に、時間潰してる」
「え?」
「終わったら連絡して。…聞きたいことには、答える。…まぁ、この間その質問に答えなかったのは俺だけどな」

お前になら、話してもいいよと彼は言った。

「何で、ですか…?だって、俺は…」
「今まで、俺の選んだことは頭ごなしに間違ってるって言われてきた。間違ってる前提で理由を聞いて俺に野球をやらせようとする人ばっかりでさ。まぁ、理由を聞いて来ない人もいたけど。…神谷は、そうじゃないだろ?理由を聞いてから間違ってるって思うかもしれないけど。それでも間違ってる、間違ってないの前提なしに聞こうとしてくれるから」

だから、話してみようって思った。
彼はそう言って、笑った。

「雅さーん!!カルロ知らない!?」
「アイツならさっきグラウンドの外に…」

少しずつ近づいてくる鳴の声に彼は肩の鞄をかけ直して、視線を声の方へ向けた。

「じゃあ、ここにいたらヤバそうだから。また後でな」
「あ、あの!!まだ結構時間あるのに…いいんですか?」
「いいよ、別に。じゃ、練習頑張って」

出口の方へ歩いて行く彼を見つめていれば後ろからドンッと背中を押された。

「もーっこんなとこにいたのかよ。何してんの?」
「あー…いや、なんでもない」

あの頃の彼に良く似た笑顔を見せる鳴に俺も笑った。

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