08
なに言ってんだよ、会いたいとか…恋人でもないのに。
けどさっき、彼の声が悲しそうだったから。
そう言ってくれると嬉しいよって言ったのに、泣きそうだったから。
どうしても顔が見たくなった。
あと少しで駅に着く。
そんなメッセージを見て、俺は部屋から出た。
偶然、部屋に入ろうとしていた白河が俺を見て目を丸くする。
「…どこか、行くのか」
「おう、ちょっとな」
「…そうか」
詮索することもなく、部屋に入ろうとした彼だったがドアを開けてぴたりと動きを止めた。
「…お前、結構顔に出るよな」
「え?」
「そのしまらない顔、どうにかしてから会いに行けよ」
ふっと笑った彼は部屋の中に入っていき、俺は自分の顔に手を当てる。
しまらない顔なんてしてたか?
まぁ、嬉しいなーとは思ってたけど。
首を傾げてから急がないといけないことに気づいて慌てて寮から駆けだす。
暗くなった街並みを通り抜けて、がやがやと騒がしい駅前に着けば青道の制服に身を包んで壁に背をあてている彼の姿を見つけた。
「なまえさん!!」
「神谷」
俺に気づいた彼がふわり、と柔らかい笑顔を見せる。
その笑顔にまた、胸がぎゅっと苦しくなった。
「すんません、こんな時間に来てもらっちゃって」
「いいよ、別に。こんな時間には家に帰らないから」
「え?」
こんな時間にはって…
もう9時過ぎてるのに?
「さてと、何も考えずに会いに来たけど。どうする?」
「え?あー…考えてなかったっす」
「やっぱり?全然、構わないけど」
顔見れただけで、俺は嬉しいしと少し照れくさそうに彼は笑った。
悲しそうな彼はいない。
そのことに凄く、安心した。
「俺も…嬉しいっすよ。この間は、泣いて…その、ちゃんとお礼も言えてなかったし。呆れられてねェかなって…」
「俺のために泣いてくれたのに呆れるわけないだろ。嬉しかったよ、俺は」
けどやっぱり、笑っててくれる方が嬉しいと彼は言って俺の頬を撫でた。
「っはい、」
決して、柔らかくはない手。
まめがあって節ばっていて、でも暖かくて努力を辞めていない手だった。
「なまえさん、」
「んー?」
「ハンドボールって、楽しいっすか?」
俺の問いかけに彼は目を瞬かせてから笑った。
「楽しいよ。初めは全然分かんなかったけどな。少しずつ出来るようになると楽しくて仕方なくなった。俺は大学でもやりてぇなって思ってる」
「大学…」
「俺も一応、受験生だぞ?…まぁ、今は部活ばっかりで勉強してねぇけどな」
どこの大学行くか、決めてるんですか?と尋ねれば俺でも知ってる有名な大学の名前を彼は言った。
「頭、良いんすね」
「学力はまだ足りねェよ?ただハンド強いとこだし、一人暮らしするならあの辺がいいなーってだけど」
「一人暮らし、するんですか?」
おう、と彼は頷いた。
「高校卒業したら家、出て行く約束なんだよ」
「え?」
「野球、辞めた時から」
それって…どういう?
彼と同じように壁に背をあて、彼に視線を向ければ俺の考えているのがわかったのだろう。
彼は眉を少し下げて言った。
「野球辞めたのが原因で喧嘩したのは鳴だけじゃないんだよ」
「…両親とも、」
「そう。2人とも野球ファンでさー。自分の身に起きたこと、話せなくて。勝手に辞めた」
それから両親とは上手くいってない、と言って彼は笑った。
今度は辛そうな、悲しそうな笑顔。
さっき電話した時も、こんな顔してたのかな。
「いつも、家帰らないんですか?」
「帰ってるよ、一応ね。風呂入って、寝るだけ。飯はなまえってわかるよな?アイツと食うことが多いかな」
「なまえさんって、この間の…」
俺の親友、と照れくさそうに笑った。
「アイツも、俺と同じなんだよ。自分を縛ってたものを捨てて、逃げ出した」
「え…」
「俺はアイツと一緒に逃げたんだ。逃げられずにいた俺の手を引いてくれたのがアイツだった」
俺の苦しみに気づいて、俺に逃げ道をくれた。
ただ唯一俺を裏切らずにいてくれた親友。
そう言った彼の顔を盗み見れば伏せられた瞳を瞼が隠して、長い睫が震えた。
「俺よりも辛い人生歩んでる奴でさ。何か好きになるとか、誰かを好きになるとか何かを欲したり望んだり…そういう当たり前のことを知らない奴でさ。自分を大事にする方法も知らないで、自分の人生を自分の物だと思うことさえできない」
酷い話かも知れねぇけどそんな奴を隣でずっと見てたから、自分の人生もそこまで悪いものじゃないと思える、と彼は苦笑を零した。
「なまえさんは露希さんの話するとき凄い優しい表情しますよね」
「え?そうか?全然自覚ないな…」
「大事なんだなって、伝わってきます」
大事だけど、俺はもうお役御免だなと彼は笑った。
安心したように、でも少しだけ寂しそうに。
「露希さん、恋人でもできたんですか?」
「んー、どうかな。今頃付き合ってたら万々歳?上手くいくかはあの2人次第だからなんとも言えねェけど。付き合わなくても、俺はもう必要なくなるだろうな」
「恋人ができたからって必要なくなるってわけじゃないんじゃないですか?親友ってところは変わらないだろうし」
自分で口にしてはたと気づく。
あれ、それって俺も同じじゃね?
真緒にはもう自分は必要ねェなって俺も思ってた。
けど…
「神谷?」
「案外、自分のことになると気付けないものなんですね」
「え?」
白河がいるから必要ないって思ってた。
友達ってとこは変わらないはずなのに、どこか以前より線引きをしていた。
「…いえ、自分も…友達に対してなまえさんと同じこと考えてたなって…」
俺の言葉になまえさんは目を瞬かせてから笑った。
「似てんのかもな、俺と神谷って」
此方を見て笑ったなまえさんにやっぱり、胸がぎゅっとなった。
この笑顔、好きだなぁって…思って。
もっと見たい、と思った。
周りに俺を苗字で呼ぶ人が少ないから、神谷って呼ばれるだけで少しくすぐったくて。
なまえさんって呼べることが、なんか嬉しいと思った。
「嬉しいです」
「え?」
「なまえさんと似てんの。嬉しいなって」
俺の憧れた人。
俺の、憧れてる人。
野球を辞めたって、変わらない。
変えられない。
野球をしていなくたってあの一瞬で奪われた心は、きっと今も奪われたままなんだ。
俺が心惹かれたのはあのプレーだけじゃなくて、成宮なまえという人間だったんだろうなって思った。
あの時と変わらない笑顔と真っ直ぐな眼差しが今自分に向けられているのが嬉しいのがその証拠だろう。
「嬉しい?なんで?」
「憧れてる人に似てるって言われて、嬉しくない奴なんていないっすよ」
俺の言葉になまえさんは目を丸くした。
けど、すぐに顔を伏せた。
「なまえさん?」
「っ今、こっち見ないで。見せれる顔じゃない」
片手で顔を隠した彼の肩が微かに震えているのに気付いて。
でも、気付かないふりをした。
自分の選択を受け入れられないことは慣れてるって言ってた。
けど、きっと嘘だ。
周りに、家族にさえ認められないなんてきっと俺の考えている以上に辛くて苦しいことなんだと思う。
それを支えてきたのは露希さんなんだろうけど。
俺も支えられるだろうか。
俺も支えられる人になれるだろうか。
駅前の喧騒に、微かに彼の嗚咽が聞こえる。
「ありがとな」
「…はい」
彼の声も震えていた。
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