07
真田さんへの気持ちに気付いてからも私はなにも変わらず真田さんの家にお邪魔した。
光くんと遊んだり、真田さんと夕飯を作ったり。
なにも変わらず日々を過ごしていた。


今日は帰れそうにないと書かれたメールを見て、光くんを迎えにいけばいつもより少しだけ暗い表情。

「光くん?」
「…なまえ…姉ちゃん」
「どうしたの?」

いつもの帰り道、足を止めた光くんの前にしゃがんで繋いでいた手に反対の手を添える。

「……帰りたく、ない」
「え?」
「今日は…やだ」

光くんがこんなことを言うのは初めてで首を傾げる。

「真田さんと喧嘩した?」
「ううん。パパは好き。けどね、今日は嫌い」
「んー…」

事情は後でゆっくり聞こう。
立ち上がって光くんの手を引く。

「や、やだっ」
「うん、わかった。だから、私の家行こうか」
「え?」

大きな瞳をさらに大きくして光くんは私を見つめた。

「帰りたくない理由はあと後で教えてね」
「…うん」
「あー、けど、冷蔵庫空っぽだからスーパー寄ってからでいい?」

光くんはうんっと頷く。
いつもの光くんだ…

スーパーでご飯の材料を買って自分の家に帰る。
光くんはずっとそわそわしていて私はクスッと笑った。

「おじゃましまーすっ」
「はい、どうぞ」

ちゃんと手を洗ってから光くんが部屋に入っていく。
マンションの一室。
お世辞にも広くはない空間で光くんは目をキラキラとさせていた。

「ごめんね、なんにもなくて」
「本、いっぱいだね」

壁一面に置かれた本棚を光くんは興味深そうに眺める。

「あ、写真っ!!」
「ん?あぁ…」
「これ、お姉ちゃん!?」

幼い頃の私と母親が写る唯一の写真。
それを指差してキラキラと目を輝かせる。

「うん、私とお母さん」
「なまえ姉ちゃん、お母さんにそっくりだね」
「…そう?」

初めて言われたことに驚いていれば光くんは迷うことなく頷く。

「…ありがとう」
「えへへ」

頭を撫でれば嬉しそうに微笑んで、さっきまでの暗い光くんなんてそこにはいない。


いつも通り、夕飯を食べてお風呂に入る。
帰りに寄った光くんの家から洋服は持ってきたから問題はなく。

光くんがお風呂に入っているうちに真田さんに連絡をしておこうと電話をかけるが無機質な電子音が鳴り響くだけ。

「忙しいのかな…」

お風呂から上がった光くんの髪を乾かしながら帰りたくない理由を聞けば悲しそうに目を伏せた。

「光くん?」
「…今日ね、えんかいなんだって」

えんかいって…宴会?

「宴会、嫌い?」
「えんかいの日はね、知らない人がね家に来て…気持ち悪い顔で笑うんだよ」

気持ち悪い顔で笑う?
…作り笑いってことかな。

「パパもね、僕が嫌だって気付いてくれないんだ。いつもは気づくのに…」
…真田さんは酔ってるのか…

そういえば…真田さんは再婚に踏み切らない理由は光くんだった。
光くんにさえ気に入られてしまえば再婚相手として認められる。
真田さんカッコいいからな、モテるんだろう。

「だから…帰りたくないの?」
「うん」

酔った真田さんと媚を売る女の人に会いたくない。
そういうことなんだろう。

「…明日、幼稚園は?」
「あるよ?」
「お弁当いる?」

光くんは不思議そうに頷いた。

「…今日は泊まっていく?」
「え?いいの!?」
「真田さんにら私が言っておくよ。幼稚園にも送るしお弁当も作る。制服は今から洗えば平気だと思うし」

酔った人達のなかに一人でいるには光くんは幼すぎる。
凄く勝手なことだと思うけど、光くんが嫌だと言ったのは初めてだから。
嫌いなものも我慢して食べれるような光くんが本当に嫌だったってことはそれはきっと心のそこからの言葉。
それを無視しちゃいけないってことは私が一番分かる。

「ベッド、ひとつしかないから一緒に寝ることになるけど平気?」
「うんっ」
「ん、じゃあ今日はお泊まりだね」

光くんは嬉しそうに笑う。

…真田さんに連絡…しないとかな。

テレビに夢中な光くんに電話してくるね、と告げてベランダに出る。

聞こえてくる電子音。
いつもより遅く、それが途切れた。

「もしもし」
『はーい、俊平の彼女でーす』

電話の向こうから聞こえたのは甘ったるい女の声。
これが光くんの嫌がる人なんだろう。
けど、それ以上に彼女という言葉に胸が締め付けられた。

わかってる。叶わない恋だって。
高校生と、社会人。ましてやバツイチ?
こんな恋が叶うはずはないんだ。


『何、勝手なこと言ってんだよ…つーか、だれから?』
『えっとねー…みょうじさん?』
『みょうじ、さん……は!?みょうじさん!?』

乱暴に携帯を奪った音がした。
そして聞こえてきた真田さんの声。

『みょうじさん?えっと、今のは違くて!!彼女とかじゃなくて』
『あんなことまでしたのにひどーい』
『お前は少し黙ってろ。あの、本当にこいつは…』

慌てた真田さんの声を聴きながら心はひどく冷静だった。
わかってたから。彼女がいてもおかしくない。
再婚も光くんさえ気にいれば早くしたいだろうし。

「なんで、そんな必死に否定してるんですか。私には関係ないですよ」

関係ない。
知りたくない。
この想いはこのまま心の奥底にしまっておくから。
だから、何も知らなくていい。

『え、いや…あの』
「あの、光くん。家に帰りたくないって言うので今日は私の家に泊まらせますね」
『光が帰りたくない?』

少し驚いた声。
あぁ、光くんの本音に真田さんは気づいてなかったんだ。

「お弁当とか幼稚園に送るのは私がやるのでお迎えは行ってあげてください」
『わ、わかった。ごめんな』
「光くん、相変わらずいい子なので平気ですよ」


そう、いい子。
いい子なんて、いないのに。
ただ、我慢ができる子だから大人から見たらいい子に見えるだけ。
真田さんなら気づいてると思ったんだけどな…


「楽しんでるところ連絡してすみません。用件はこれだけなので」
『あのっ本当にこいつとはなにもなくて…』
「私に否定してどうするんです?私、光くんのお友達のただの高校生ですよ。真田さんの恋愛事情には首は突っ込みませんよ」


自分に言い聞かせるようにゆっくりとそう呟けば電話の向こうの真田さんは慌てて私の名前を呼ぶ。

『そうかもしれないけど!!けど、勘違いはしてほしくなくて』
「心配いりませんよ。私は何も聞いてないことにしておきますから」
『いや、だから!!』

私は小さく息を吐いて、彼の言葉を遮るように名前を呼ぶ。

『みょうじ、さん…?』
「真田さんがどんな恋愛をしてようが私に文句を言う筋合いはないですけど。そんなことのために光くんの本音に気づいていないのだとしたら」

嫌だというその感情にさえ気づけていないのだとしたら…

「私は少なからず真田さんに幻滅しました」
『、え…?』
「それじゃあおやすみなさい」

真田さんの制止の声を無視して電話を切る。

言い過ぎた自覚はある。
けど、光くんに私と同じ想いはさせたくないから。

部屋に戻れば光くんがじっと私を見つめて。

「なまえ姉ちゃん?泣きそう…」
「平気だよ。ね、明日のお弁当の中身なにがいい?」
「唐揚げっ!あと、甘い卵焼き。えっとね、それから…ポテトサラダとソーセージとえっとね、えっとねー」

指折り数えながらおかずを言っていく光くんの頭を撫でて、ぎゅっと抱き締める。

「寂しい?真田さんがいないのは」
「…うん、寂しい。けどね、僕は平気だよ。男の子だもん」

平気じゃないのにね。
男の子でも泣きたいのにね。
それでもいい子でいようとするのは真田さんのことを好きだから。
迷惑をかけたくないから。
だから本音は口にしない。

「なまえ姉ちゃん…泣いてる…?」
「ごめんね、光くん。ごめんね…」

私を信じてくれたから伝えてくれたんだよね?
その想いを私にはどうすることもできないのが悲しくて悔しくて。

どうしてこんなに無力なんだろうね。

「泣かないで、お姉ちゃん」
「うん、ごめんね。明日、とびきり美味しいお弁当作るからね」
「うんっ!!」

強さは弱さを隠すため。
我慢するのは嫌われないため。
親の愛情以上に必要なものなんて何もない。

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