08
「雪…?」

空から舞い落ちる白を手のひらにのせて彼女は頬を緩めた。

「初雪だね、よーちゃん」

体が冷たかった。
指先の感覚はほとんどなくなっていた。
吐き出す息は白くて。
呼吸をするごとに肺を凍りづけていった。

「…さっさと、帰れよ」
「なんで?」

普段なら風邪引くだろって言ってた筈なのに。
凍りついた肺と同じく俺の吐き出した言葉は冷たく凍りついていた。

「うぜぇんだよ。いつまで姉貴面してんだ?お節介なら他所でやれよ」

その優しさを俺以外に向けてほしくない。
そう思っていたのに言葉になったのは反対の言葉で。
なまえ姉は困ったように微笑んだ。

「お節介…だったよね。そっか」
「わかったなら…帰れよ」
「帰らない」

彼女は俺にまた手を差し伸べた。
さっき振り払われたのに、こんなに酷いことを言ったのに。

「今日だけはよーちゃんと帰りたい」

なまえ姉は優しすぎた。
大好きだった優しさがその時は本当に憎たらしくなった。
この優しさが俺以外に向けられたんだって、考えたら。

俺はベンチから立ち上がって、彼女の体を押した。
もう帰ってくれって、言いながら
これ以上一緒にいたら本当に酷いことをしそうだったから。

なまえ姉は突然だったからか、バランスを崩してフェンスにもたれ掛かった。
ガシャンって、音がした。

「あ、なまえ姉…」
「平気だよ。少しバランス崩しただけ」

彼女はフェンスから背中を離した。
短い髪に雪が微かに積もっていた。
首を降ったときにさらっと落ちた雪が首筋に落ちて気づいてしまった。

真っ赤な血が彼女の首筋に伝っていたことに。
きっとフェンスの壊れた部分で切れてしまったんだろう。

「よーちゃん?」

なまえ姉は首を傾げて、首筋の血に触れた。
彼女の細い指が赤色に染まった。

「血…」

彼女の赤色に濡れた指に雪が舞い落ちて。
白かった雪が赤色に染まった。

「なまえ姉!!」

ごめんって言おうとした俺に彼女は微笑んだ。

「ごめんね、よーちゃん」
「え…?」
「風邪引かないうちに帰ってきてね」

なまえ姉は俺に背中を向けて公園を出ていった。
首筋の血をそのままに歩いていって。
降ってくる雪が彼女の首筋の赤色に飲み込まれていった。

次の日、謝ろうと思ったけど。
首にガーゼをつけたアイツを見たら何もできなくなった。

これでよかったんだって。
俺がいない方がきっと、なまえ姉は幸せだからって。

うなじに傷跡が残ってることはあとから聞いた。
それからお互いにお互いを避けていた。





「ふぅん」

亮さんは眉を寄せた。

「て、ことは倉持は。自分がいない方がいいなんて勝手なことを言って逃げて怪我をさせた罪から逃げたってことだよね」
「そ、れは…」
「自分勝手にも程があるんじゃない?」

彼は問答無用で俺にチョップをして、呆れたと呟いた。

「それが正しいことだって思ったの?」
「え、いや…」
「正しいことを貫けばいいってみょうじの言葉完全無視?」

亮さんは怒っていた。
御幸も不機嫌そうに眉を寄せていた。

「無償の優しさなんて…本当にあるわけないだろ」

御幸はそう言って俺を見た。

「人間は見返りを求める生き物だ」
「俺は何にも返してねぇ!!今まで1度も!!」
「みょうじさんは倉持といられりゃそれでよかったんだよ。だから、あの人もまだ雪がやまないんだ」

え、と俺は固まる。

「それ関係ねぇだろ」
「ないわけない。お前はその時のことを後悔してるから今も雪が降りやまない。だったらみょうじさんだって同じに決まってんだろ」
「みょうじだって後悔してるから。あの日から時間が進まないから。今も雪を見てる」

なまえ姉が後悔?
なんで?
あの人が後悔することなんてなにも…

「あの人は何も悪くない。なんで後悔するんすか!?」
「そんなの、本人に聞きなよ」
「そ、れは…」

俺は視線を逸らした。

「馬鹿で困った後輩に優しい先輩から1つ助言をあげるよ」
「亮さん?」
「俺は、みょうじが優しいなんて思わないよ」

俺は視線を亮さんに向ける。

「なんでっすか?あの人はあんなに…」
「みょうじが人に優しくしてるところなんて俺は見たことない。この1年間と数ヵ月ね。あとは、自分で何とかしなよ」
「あの人野球好きなんだな」

亮さんは歩いていってしまって。
御幸はその後ろ姿を見てからこちらに視線を向けてそう言った。

「スコア表を読める一般人なんていねぇよ。野球が好きだったとしてもそこまでは勉強しない。マネだった訳でもないみたいだし」
「何が言いたいんだよ」
「必死に勉強したんだなぁって。お前のために」

御幸もそれだけ言って歩いていってしまった。

「優しくない?俺のために勉強?後悔?」

わからない。
わからないことだらけだ。

降り続く雪。
体がどんどん冷えていく。

「…さみぃ…」

俺はそう小さく呟いた。

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