07
今日、彼女の意識の中にいる男が職場に来た。
忘れ物の傘を届けに来たらしい。
最近の彼女の仕事の進みはハッキリ言って最悪だ。
そろそろ注意をしようと思っていたところで、折角だから2人の関係も変えてもらおうかなんてお節介なことを考えた。
だから、わざと彼女を名前を呼んで肩を組んだ。

セクハラで訴えられないのは一応俺と彼女が友人という間柄に戻っているからだろう。
どうやら、俺の狙い通り相手の彼を怒らせたようで同じく彼女も不機嫌そうだった。

「お前がそうやってイライラしてるのも珍しいもんだよなぁ…」

昔の彼女からは考えられない。
仕事があればどんな感情も押し殺していたのに。
今、彼のこととなるとそれさえもできなくなっている。

オフィスに残っていた彼女を急き立てて帰らせ、俺は1人ソファに腰かける。

俺もさ、また前に進めそうだから。

彼女に言ったその言葉。
お前への想いは吹っ切れた、という意味で口にした言葉だったけど、言葉にして浮かんだのは御幸さんの顔。

「まさかなぁ…」

もしかして、惚れた?
何も知らない彼に。
知ろうとしなかったのは俺だけど。

「そんなまさか、だよな。…さぁて…俺も帰るか…」

彼女のことだから明日には復活しているだろうし。
着々と進んでいるプロ野球選手との対談の件でも相談事は山ほどある。

明日からは仕事に切り替えないといけないな。





隣の部屋に彼が帰ってきた音がした。
数日前の件から、俺はどうも彼と顔が合わせにくかった。

失いたくないから知りたくない。

そんなこと、始めて言われたし。
なにより、最後に俺に向けた優しい目がずっと残っていた。

みょうじさんが好きだったという女の人。
その人の話をしていた一番初めの時と同じ目を俺に向けた。
それに胸がぎゅっと締め付けられた気がして。

「男相手になんだよ、これ…」

胸の辺りのシャツを握りしめて、溜息をつく。
頭を冷やそうとベランダに出れば冷たい空気が肌を刺す。

「うわ、寒っ…」

小さく呟いた言葉。
その直後に隣から聞こえてきた笑い声。
どこか聞き慣れてしまった心地よい笑い声が鼓膜を揺らす。

「ちょ、なんで笑ってんですか!?」
「だって。前と全く同じこと言ってんじゃん」

隣のベランダを覗き込めばタブレットを片手に椅子に腰かけている彼がいた。
灰皿に置かれた煙草からはゆらゆらと煙が揺れる。

「風邪ひかねェように、暖かいもの着て来いよ」
「…みょうじさんだってスーツじゃないっすか」
「お酒飲んでれば暖かくなるよ」

そう言って灰皿の横に置いてあったウイスキーの瓶を揺らした。

「またストレート…」
「終わったからね」
「終わったって何が…」

俺の方を見て彼は微笑んだ。

「片思い。まぁ、結構前にフラれてはいたんだけどね。アイツに恋人が出来るから」
「…ヤケ酒、ですか?」
「いや、ヤケ酒ってわけじゃないかな。多分祝い酒」

不思議と悲しくないんだ、と彼は呟いて、視線を伏せた。

「フラれた時点で諦めはついてたし、こうなることはわかってたし。今は心からおめでとうって言えると思う」
「好きだったんじゃないんですか?」
「好きだったよ。今までで一番の恋愛だった。けど…」

彼はこちらを見て目を細めて笑う。

「けど、なんでだろうな」
「みょうじさん?」
「人の感情なんて、案外何が起こるかわからないみたいだよ」

意味が解らなくて首を傾げるが彼はクスクスと笑うだけだった。
煙草を灰皿に擦り付けて彼は立ち上がる。

「ありがとな、御幸さん」
「は?」
「君がいてくれてよかったよ」

意味が解らなくて、彼をじっと見つめていればこちらにゆっくりと歩み寄ってくる。
伸ばされた大きな手が髪をかき混ぜて、慣れない感覚に咄嗟に閉じた目を開けて彼を盗み見て俺は固まった。

あの日と同じ。
あの優しくて、愛おしそうな目が俺に向けられていた。
壊れ物に触れるようにそっと頬に彼の手が添えられる。

ドキドキと鼓動が速くなっていって、頬が熱くなるのがわかる。

なんで、意味が解らない。
俺をどうしてそんな目で見ている?
そんな優しい手つきで触れている?

彼の視線から逃れるように目を閉じれば逆にその手の感覚に意識が集中して。
沈黙が息苦しかった。

「…体、冷えてるぞ」
「、え?」
「風邪ひくなよ」

頬を撫でていた手が離れ、頭をポンポンと撫でてから彼は背を向ける。

「それじゃあ、おやすみ」
「え、あ…はい。おやすみ、なさい…」

彼が部屋の中に入るの音が聞こえて、俺は胸の辺りのシャツを握りしめズルズルとそこにしゃがみ込む。

待って、なんで。
なんでこんなにドキドキしてんの?
まさか、俺…

「みょうじさんに…、」





手の平を見つめて溜息をつく。
何してんだ、俺。

触れた頬の熱がまだ残ってる気がする。
つい、触れたくなった。

頬を撫でた時、目を閉じた御幸さんに俺は多分…キスをしようとした。
体が勝手に彼に吸い寄せられた…そんな感覚。

「やっぱり、惚れてんのか…俺」

本当に、人の感情は何が起こるかわからない。
日和に告げた言葉はどうやら、嘘にはならなかったようだ。

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