08
無事、彼と付き合った日和は仕事に集中してくれるようになった。本人に付き合ったのか、と聞いたわけではないけど仕事に向かう姿勢を見る限りそういうことだろう。
「なまえ。これ、例のプロ野球選手の件」
「仕事が早くて助かるよ。えっと…この日は…」
資料を読みながら自分の手帳に視線を落とす。
「あー悪い。俺、会議入ってるから…全面的にお前に任せるわ」
「日程ずらそうか?」
「いや、平気。会議前に挨拶だけ行くから」
対談、と書き込んだ手帳をパタンと閉じる。
「御幸、選手だっけ?対談の件随分と快く引き受けたな」
「この漫画好きだから、って言ってた。それになんか面白そうって」
「…そうか。まぁ、お前に任せておけば失敗することはないだろうし。来月号に特集入れておくから」
来月号の構成を見ながら、どこに入れるかと考えていれば「ねぇ、」と彼女が声をかける。
「何?」
「いや…休憩行かない?」
少し言いずらそうに視線を逸らした彼女に俺は瞬きを繰り返してから立ち上がる。
「そうだな」
随分と人間らしい表情を見せるようになった。
躊躇いなんて、お前にはなかったのに。
自販機でコーヒーを買ってプルタブに爪をかける。
少しの間口を閉ざしていた彼女が視線を逸らしながら口を開いた。
「あのさ、ありがとね。一応…付き合うことになった」
「へぇ、くっついたのか」
「まぁね」
彼女はそう言って少し照れくさそうに笑った。
「よかった。安心したよ」
そう言って笑えば、彼女は水を飲みながら首を傾げる。
「なまえは?どうなの?前に進めるってことは好きな子できたってことだよね?」
「まぁ…なんつーか…」
「どんな子?可愛いの?」
彼女の言葉に俺は視線を逸らす。
可愛いことには可愛いけど…
てか、好きな子…なのか?
いや、まぁ…惚れてはいるか…
「なんつーかさ、あれだ」
「何?男です、とか言うの?」
「……お前、本当に鋭すぎんだよ」
コーヒーを持った手で顔を隠して大きく息を吐く。
「いいんじゃない?」
「気持ち悪くねぇの?」
「別に。人それぞれでしょ?そういうの」
幸せになって欲しい、と彼女は言って笑った。
「それで、どんな人?」
「そういうのは今度な。今はお前の話聞きたいし」
話すことないけど、と彼女が言って俺は溜息をつく。
「マジかよ」
「元々一緒に住んでたわけだし。まぁ、名前呼びになったくらいかな」
「キスは?」
してないね、と彼女が言ってそれでも大人かと呟いた。
「いいんだよ、私らなりにやれば」
「ま、そうか。幸せになってくれりゃ、文句はねェし」
彼女は微笑んで、俺達の会話を切るように部下の声。
「ま、あれだね。こういう話はお互い幸せになってからにしよっか」
彼女はそう言ってオフィスに戻っていく。
その背中を見ながら苦笑を零した。
「なるかわかんねぇぞ」
「亮介にも言ったんだよね、昔」
「え?」
亮介って…コイツの恋人だよな?
「自分の手にしてるモノが案外、その人にとってのベストなんだって」
「なんだよそれ」
「要はさ、幸せの形は人それぞれってこと。私の手にした幸せと貴方がが手にしようとしてる幸せは違うけど。きっと、交換したら幸せになんてなれない」
そうだな、と言葉を返せば前を歩く彼女が振り返る。
「今、掴みかけてる幸せはきっと…一番の幸せなんじゃない?私はそんな気がする」
そう言って仕事に戻っていく彼女に俺は口元を緩める。
「…一番の幸せ、か。サンキュ、日和」
「こちらこそ、ありがとう」
▽
よく行く居酒屋に行けば少し遅れて向かいの席に座った倉持。
「遅くなった」
「別に」
とりあえずビール、と頼んだ倉持は頬杖をついて口を開く。
亮さんが横峰さんと付き合ったらしい。
彼はそう言って笑った。
「亮さん、付き合えたのか…」
「らしいぜ。よくもまぁ、片思い続けたよな」
「本当にそれな」
運ばれてきたビールを一気に飲んで、ジョッキをテーブルに置いた。
「長かったよな、本当に」
「そうだな」
「あー、俺も恋してー…」
メニューを開きながら言った倉持に少し馬鹿にするように笑えば舌打ちをされた。
「お前はいいよな、モテて」
「良かねェよ。何回引っ越ししたと思ってんだよ」
「ヒャハッざまぁ。また引っ越したんだろ?」
まぁな、と頷く。
「今回はどうよ。お隣さん」
「角部屋だし。隣の人は…」
言葉の途中に浮かんだみょうじさんのあの優しい目に言葉が詰まった。
「御幸?」
「あ、いや…なんつーか、いい人…」
「女?」
いや、男。と答えれば彼はふぅんと興味なさげに返事をする。
「お前の事、知ってんのか?プロ野球選手だって」
「いや、知らねェみてぇ」
「へぇ、珍しい人もいるもんだな」
本当にそうだな、と頷いて。
彼はおつまみを何品か頼んで、俺もお酒を頼む。
「追っかけは?来てねェの?」
「来たけど。そのお隣さんに助けられた」
「…なんだそりゃ。変な人だな」
確かに、変な人だ。
俺を助けたり、あんな表情したり。
「変な人、だけど…嫌いじゃねェよ」
「珍しいな、お前がそんな風に言うの」
確かに、珍しいだろう。
俺がこんなに人に近づいたこと。
こんなに彼を気にしているのも…
「珍しすぎて笑える」
「なんだよそれ」
ヒャハハと笑う彼から視線を逸らした。
「今度は静かに暮らせるといいな」
「おう」
倉持はどこか疑うように俺を見た。
「心配すんなって。平気だから。優しいな、倉持くんは」
「心配なんてしてねぇよ。引越しの手伝いさせられんのが怠いだけ」
「…今回は荷造りだけだったろ」
それだけでも怠いに決まってんだろ、と倉持は不機嫌そうに言った。
「まぁ…今度は、多分平気」
「そうか。ま、無理すんなよ」
「おう」
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