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横峰さんに指定されたのは彼女の職場の近くにある隠れ家のようなバーだった。中に入ればお客さんは疎らでバーテンダーがいらっしゃいませ、と静かな声で言った。
「あの、待ち合わせで…」
「御幸様ですね。どうぞ、こちらへ」
カウンターとテーブルのあるフロアを抜けて奥にあるドア。
「こちらです」
「え、あ…はい」
隠されるようにあるその部屋は所謂VIPルームとか言うものなのだろうか?
「一人で飲むのがお好きな方で。特別にお部屋をお貸ししているんです」
バーテンダーはそう言って微笑んだ。
「それではごゆっくり」
腰を折って戻っていくバーテンダーを見送って目の前のドアを開ける。
フロアと同じくらい暗いその部屋に俺は足を踏み入れて目を見開いた。
カタンと氷がグラスにぶつかり音を鳴らす。
「…みょうじ、さん…」
「御幸さん?」
何故、彼がここにいる?
店を間違えた?
いや、もしそうだとしてもそれでみょうじさんに会うなんてありえない。
ありえないけど、もしそんな偶然があったとしたら。
彼は誰を待っていた?
…例の、いい人?
「なんで、御幸さんが…?」
「横峰さんに…呼ばれて」
俺の言葉に彼は困ったように笑った。
「…そういうことか」
みょうじさんはグラスのお酒を煽って目を伏せた。
「あ、あの…俺、帰ります」
「なんで」
慌てて部屋から出ようとすれば彼の手が俺の手首を掴んだ。
「…なんでって、待ち合わせてる人がいるんじゃないんですか?」
「うん」
「じゃあ俺がいたら駄目でしょう?」
貴方が他の誰かといる姿なんて俺は見たくない。
なのに彼は俺の手を離してはくれなくて。
「…その相手が、御幸さんだよ」
「え?」
「座って。何か飲むだろ?」
戸惑いながら彼から距離を取ってソファに座る。
こういう店に来たことはなくて何を頼めばいいかわからない、と伝えれば彼はじゃあ適当に頼むよと言って彼は部屋から出て行った。
なんで、こんなことになった?
静かな音楽が流れる部屋にはサイドテーブルと大き目のソファが置かれていて。
部屋の壁には彼のコートがかけてあった。
「すぐに持ってきてくれるって」
ドアが開いて彼はそう言って微笑んだ。
「コート、脱いでハンガーにかけておいていいよ」
「え、あ…はい」
言われた通りコートをハンガーにかけてソファに腰かける。
みょうじさんは少し距離を開けて隣に腰かける。
どちらかが口を開く前に部屋にノックの音が響いた。
「入っていいよ」
入ってきたさっきのバーテンは俺の前にグラスを置く。
「どうぞ」
「あ、どうも…」
「なまえのはさっきと同じ奴な。それから適当に食べ物」
テーブルにはお洒落なおつまみが並ぶ。
「それにしても珍しいな。なまえが日和ちゃん以外をここに連れてくるなんて」
「日和とはもう来ないよ」
「何で?」
恋人が出来たんだよ、とみょうじさんはどこか嬉しそうに笑った。
「日和ちゃんに?フラれたのか、お前」
「ほっとけ。来るとしたら俺一人かこの人と来るから」
そう言って尾崎さんは俺の肩を叩いた。
「…まぁ、ここはお前の私室みたいなもんだし。有名人でも安心して飲めるか…」
「え…」
「あぁ、サインくれとか他の客に話したりはしなから安心して。それじゃあごゆっくり」
彼はそう言って部屋から出ていく。
「あの人は…」
「あぁ、信用できる男だよ。長い付き合いだし、さっき言った通り言いふらしたりはしないから」
安心して飲んでいいよ、と彼は言って残りわずかだったお酒を飲み干して新しいグラスに手を伸ばした。
「…あの、」
「ん?」
「待ってるのは俺ってどういうことですか…」
俺の問いかけに彼は眉を下げて、困ったように笑った。
「俺も日和に誘われたんだよ。まぁ、まんまとハメられたみたいだけど」
「…なんだか、すみません。俺が来ちゃって」
「何で?俺は、嬉しいよ」
尾崎さんはそう言ってこちらを見た。
「こういう形でも、会えたことが嬉しい」
彼はどこか寂しそうな目をしていた俺は首を傾げる。
なんで、そんな目をしているんだろう。
こんな形でも会えたことが嬉しいって…
帰ってくれば会えるのに。
「…もう、会えないと思ってたし」
「え?」
彼はそう言って視線をグラスに向けた。
「失いたくは、なかったんだけどな」
「あの、みょうじさん?」
「何?」
会えないって、どういうことですかと尋ねれば彼は不思議そうに俺を見た。
「俺は、御幸さんの知って欲しくないことを知っちゃったから。御幸さんさ、俺が御幸さんがプロ野球選手だって知らなかったから親しくしてたろ?」
みょうじさんの言葉で俺はやっと思い出した。
いつものなら、自分の職業を知られた時点で次の部屋を探し始めるのに。
今回はそんなこと一度も考えなかった。
ただ、みょうじさんことをずっと考えてて…
「失いたくないから、隠してること知りたくなかったんだけどな」
…そういうことを、その誰かにも言っているのだろうか…
「…そういうこと、あんまり言わない方が良いですよ」
「え?」
「きっと、勘違いしますよ」
俺みたいに、勘違いする。
男の俺でもそんなことを考えてしまったんだ。
女だったら簡単に、落ちてしまうだろう。
「勘違いって?」
「みょうじさんが、自分のこと好きなのかなって…」
「御幸さんもそう、思ったの?」
みょうじさんの言葉に肩を揺らして、視線を逸らす。
「そ、んなわけ…ないじゃないですか」
「…そっか。けど、さ。俺はこんなこと御幸さんいしか言わないから」
「え…?」
俺が今、失いたくないって思ってるのは御幸さんだけだよ。
みょうじさんはそう言って、悲しそうな顔をする。
「…まぁ、その御幸さんもいなくなっちゃうわけだけど」
「……いなく、なるなんて…言ってないです」
俺の言葉に彼は「え?」と目を丸くした。
「……だから、いなくなったりしませんって…」
「え、なんで?」
「なんで、って…」
そんなことにまで頭が回らなかった。
もし、一瞬でもそれを考えていたとしても俺は引っ越そうとはしなかっただろう。
失いたくないと思っているのは俺も、だから。
「…みょうじさんは、周りに言い触らしたり…するんですか?」
「するわけない」
「だったら俺は、それを…信じたい」
みょうじさんは驚いていたけど、すぐに優しい瞳を俺に向けた。
「嬉しい」
彼は安心した、と言ってソファの背もたれに体を預けて。
「……なら、帰ればよかった」
「え?」
みょうじさんは顔を大きな掌で隠す。
カランと氷が音をたてて、耳に入るクラッシックが心地いい。
「…御幸さんが隣にいるなら…帰ればよかった」
「俺がいなくなると思って…帰って来なかったんですか?」
「だって。家に帰って隣に御幸さんがいないっていう事実を受け入れたくなかったから」
だから、職場とここに泊まってた。
彼はそう言ってどこか自嘲するように笑っていた。
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