03
当たり前だけれど、ヴァリアー邸の周りには民家およびそれを内包する街がない。職務上、存在を秘匿する必要がある人々が暮らしているのは暗い森の中にひっそりと建ついかにもな豪邸だ。つまり学ぶところがない。
私もベルも学校というものに通ったことがなかった。ベルは王族という立場上、8歳になるまでに一通りの勉強に加え政治学、帝王学や言語なんかを習得していたので元々通う必要はないらしい。あんな本能で生きているような人だけれど実際、暇つぶしに難関大学の入試問題を解いて余裕で満点をとっていたり、政治の話題をXANXUSさんと話していたりと彼の知識の豊富さは皆が知るところだった。
そんな大それた立場ではない私は与えられる仕事の合間合間に色々な人に勉強を見てもらっていた。
ただの事務員にそんな必要はないと考えていたが、以前ボスに就任する直前のXANXUSさんが「ヴァリアーに馬鹿は必要ない」「ひとりのために外部講師なんて呼べるか、てめえらで面倒見ろ」といったために膨大な量の勉強を詰め込まれることになる。
「そんな時間あるかぁ!」と叫んでいたスクアーロの声が懐かしい。ヴァリアーに与えられる仕事のほとんどが凍結され、皆が時間を持て余し余計に勉強時間が増えたのは思いもよらなかったのだ。あの直後のなんともいえない喪失感を多忙な勉強の日々が埋めてくれたのはよかったのかもしれない。
加入条件の一つである7ヶ国語は案外簡単にクリアできた。幼い頃から生活の中でたくさんの隊員がそれぞれの出身地の言語で話しかけてきたために公文書などのライティングはともかく日常会話は自然と体得していた。大人になってから勉強するよりは楽に取得できたように思う。
おかげでバイリンガルどころではない多国語使用者になったのは密かな自慢のひとつだ。問題は、一般常識とか、考え方とかそういうこの狭い世界では培えないものだったりする。ヴァリアーはそんなつまらない一般常識から外れた粒の集まりだからあまり気にしたことは無いけれど、外部の人間と話す時に稀にある認識の違いに疲弊することも良くあった。
「ここまでは理解できたか」
「うん。こっちの問題もこの公式使えばいいんでしょ」
「ああ。そこまでやったら今日は終わりでいい」
勉強は嫌いではなかった。知らないことを知ることは面白かったし、何よりこれで皆の役に立てる人間に少しでも近づいたのだと思えばどれだけ面倒な数式でも解けるような気持ちになれた。それに、勉強を見てもらった相手とコミュニケーションが取れるメリットがやはり大きい。
「ボスに仰せつかった任務だからな」とレヴィは積極的に勉強を見てくれた。いい学校を出たと聞いたことがあったけど、嘘ではないらしくその教え方は誰よりも分かりやすかった。暗殺部隊よりも教師の方が向いているんじゃないかと一瞬考えてみたが、問題を間違えるたびにパラボラを向けてくる教師は嫌だな。キレやすいし、顔こわいし。
そんなことを考えつつも問題を解き終わり、時計を見ればちょうど3時すぎを差していた。コーヒーブレイクにはいい時間だ。
「コーヒー淹れますけど、砂糖いります?」
「……いやブラックでいい」
「はーい」
こんな風に割と和やかに過ごしていると過去の自分に言ったらきっと驚くだろうな。月日は人を丸くする。私の仕事に一番必要な経済学と簿記はマーモンが教えてくれていた(叩き込まれたともいう)それ以外の勉強を広く教えてくれたのはレヴィだったりする。最初こそ私を疎んでいたけれど、数年もするとその感情も薄れてしまうらしい。むしろ、別の情にすり替わったというか。例えば、同情とか。
談話室の隣にある給湯室へ向かおうとすると、重厚な造りの扉が触れてもないのに開いた。自動ドアなんて便利なものは此処に設置されている訳も無いので、誰かが開けたことを示していた。そこからぬっと現れたビビットな緑色の髪の毛。ルッスーリアはこちらを認識するとにっこりと笑った。
「あら、アヴィドちゃんとレヴィじゃない。今日もお勉強?」
「今終わって、これからコーヒーブレイクです。ルッスも飲む?」
「いただくわぁ。ちょーどカヌレを焼いたのよー」
ルッスはできたてのカヌレを乗せたトレーを持って談話室の中へと入っていった。いい匂いが帯となって廊下に残っている。早くコーヒーを淹れて戻ろう、知らず知らずのうちに足取りが軽くなり自分の調子の良さに少し気恥ずかしくなる。一般隊員ならこんなおこぼれには与れないけれど、ルッスはもともと部下と言うより妹として私をみてくれている。ベルの遊びを仲裁するのだって昔から彼女の役目だった。そんなこともあり私は彼女をとても信頼している。
ルッスの料理の腕は最高だった。彼女の作る料理はなんでも美味しいけどその中でも焼き菓子のカヌレはとんでもなく美味しい。最初は酷かったコーヒーの腕もその焼き菓子に見合うように磨いたようなものだ。
「コーヒー用意できましたーーって増えてる」
「気配が増えたことぐらい察しろよな」
「無理です」
「う゛ぉい、ハナっから諦めてんじゃねえ。ヴァリアーだろうてめえ」
「非戦闘員に求める条件が高すぎる……」
「まあまあ、いっぱい用意してあるから食べましょ」
ふかふかなことで有名な幹部専用のソファには先ほどと異なりマーモン以外の全員が大集合していた。一体いつの間に。
きっとルッスのお菓子の気配を察知したんだろうけれどこんな所で気配遮断なんてしなくて良いと思う。音殺して歩くの癖になってるんだと言っていたのはどこの誰だったか。
急いで追加のカップを取りに戻ってから、その一つ一つにポットを傾けると引き立てのキリマンジャロの香りがふわりと広がった。既に美味しそうなコーヒーだけど、まだ終わりではなく、此処からの方がよほど重要だった。それぞれの好みに対して正解のものを提供しないと向こう3日はぐちぐちと文句を言われてしまうからだ。新人のメイドがよく落ち込む理由の一つにも挙げられている。ほんとかわいそう。
「ベルはミルクたっぷりで、だよね」
「少しで良いぜ」
「え、良いの? だって」
「前は飲めたもんじゃないって言ってたじゃねえか」
向かいに座っていたスクアーロが何だか面白いものを見つけたようにベルに視線をやる。その手にはすでにブラックの入ったカップが握られていて、その姿だけでも様になっていた。イケメンってすごいな。
コーヒーを淹れるようになったのは此処にきて少しした頃だ。そもそもの始まりは大人の真似をしたかったベルがブラックを飲みたいーと言って私に淹れさせたこと。初めて淹れたそれは大層まずかったらしく、その時からベルはブラックコーヒーが大の苦手になっていた。だから彼のコーヒーはどっちかといえばミルクが占める割合が多いのがお決まりだった。そもそも牛乳が好きらしいのでヴァリアーの経費を預かる立場から見ても彼の牛乳消費量はとても多い。
「最近はそーでもねーよ」
手渡すというより奪われた形に近いカップは彼の形の良い口に触れた。ゴクリと息を飲み込んで行く末を見守る。
これでやっぱりまずいって言われたら責任はなぜか私にあることになってしまう。自分でミルク少なめと言ったじゃんと返してでもすれば、私は医務室のベッドに直送だ。
考えられるリスクには早めの対処をするのは当然でしょう。今のうちに「口直しにどうぞ」と、そぉっと絶品カヌレを一つ彼のソーサーに乗せてみる。身代わりになってくれないかなとの淡い期待を込めて。
「素直に上達したって言ってあげればすむのにねえ」
「ハッ、やはり餓鬼だな」
褒めてくれたルッスのコーヒーに砂糖を入れようとしたら「今日はもう結構よ」と言われた。まだ一個も入れてないのにな。