
手を伸ばしても届かない
太陽の代わりに、月が辺りを照らし出す夜九時頃。チヒロはそろそろ寝るかと和室の襖を開けると、静姫が縁側に座りぷらぷらと足を揺らしながら夜空を見上げていた。
本日、柴と向かい合って尋問していた和室よりも少し狭いここは一応チヒロの部屋ではあるのだが、彼はあまり私物を持たず大きいものは布団ぐらい。実質的に二人の寝床扱いになっている。元々チヒロと国重の寝床が別だったのだが、そこへ静姫が転がり込んだ形だ。
初日の静姫は、チヒロではなく国重と同じ寝室で寝ようとしていた。チヒロは「別に構わないし、父さんと一緒じゃない方が良いと思うよ」と言ってはいたものの、彼のテリトリーに侵入してまで睡眠を取るのは流石に申し訳なかったのだ。彼女は六平家に永住するつもりでもあるので余計にである。
むしろ、静姫は不思議に思った。国重が寝室に使っている部屋は広く三人で寝るには十分のスペースが確保できる。何故、わざわざ部屋を分けているのか。チヒロも同じ部屋に布団を敷き、三人並んで川の字で寝れば良いのに、と。
しかし、静姫が国重の横に並ぶように敷いた布団に入り目を閉じた後、すぐに彼女はその理由を……チヒロの言葉の真意を知ることになる。
それはいたってシンプルなことだった……はちゃめちゃにうるさいのだ、国重のいびきが。
静姫も最初は我慢していたのだがこれは耐えられない、とものの三十分でギブアップ。その後、半泣きでチヒロの部屋の戸を叩き、現在に至る。申し訳なく思いつつもあれを毎日は無理だと。チヒロは「だよね」と言い、すんなりと迎え入れてくれた。
そんな経緯があって、二人は寝床を共にしている。
「あ、チヒロくん」
襖を開ける音に気付いた静姫がチヒロの方を向く。月の光に照らされた頬が余計に白く輝いて見え、それに感心しつつ彼は「布団敷いてくれてありがとう、シズ」と礼を言う。二人の間には先に寝る準備を済ませた方が布団を出すという暗黙のルールがあり、そこには既に少し間を空けて二組の布団が敷かれていたのだ。
チヒロはシズの横に腰をかける。彼女があまりに見惚れているようだったから興味が惹かれてしまったのだが、成程そこには息を呑むほどに美しい満月が悠然と存在していた。
「……明日、薊さんがシズと話に来るんだっけ?」
「うん、らしいね」
薊、というのはお国雇われの抑止力組織「神奈備」の幹部。柴の言っていた「信頼のおける限られた数人」の一人だ。流石に国にまで隠匿している六平家に居候する静姫の話は通さず、というわけにはいかないらしい。
柴という関門はかなり無理矢理にも押し通ったらしい静姫だが、薊にも同じ戦法が通用するとは思えない。だというのに、彼女といえばやけに間延びしたような返事で呑気なものだった。
「こんなこと聞くのはどうかと思うんだけど不安だったりはしないの?」
「アザミさんって人との話?大丈夫だよ」
「……ちなみに根拠は?」
「私のご尊顔という武器」
静姫は得意げに彼に向かって顔をキメた。手で銃を作り顎に当てている。すごい……なんかここまですごく不安しか覚えない状況は逆に清々しい。
ちなみに、彼女が何故こんな主張をし出すようになってしまったのかと言うと……
「なんでそんなに自信満々なのさ……」
「だって私のお顔は「それなりに可愛い」というチヒロくんのお墨付きだし」
「それなりの意味知ってる?」
これだ。どうやら本日、六平家への帰還を果たしたときにチヒロに言われた賛辞を静姫はやけに大袈裟に受け取ったらしい。言われた瞬間はそこまで大きな反応ではなかったはずだが……あとからじわじわ込み上げるものがあったらしく、至極ご満悦そうな彼女は現在『四十万静姫イズビューティフルフェイスモード』に突入してしまったのだ。
簡単に説明すると、顔面に関する自己肯定感が爆上がりしているらしく「この顔でお願いしたら大抵なんでもイケるっしょ!」という状態らしい。
チヒロは「失敗したかな……」と地味に後悔し、夕飯後の静姫と柴の会話を思い返し始めた。
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「ええか、シズちゃん。薊には名目上きみの保護者は俺っていうことで話通そ思うとるけど、簡単にはいかんって覚悟はせえよ。そんときの対処法は考えときぃや?」
「めちゃくちゃ可愛こぶっておねだり」
「馬鹿の発想やんびっくりしたわ」
「そんなに簡単に馬鹿って言うな」
「なんでそれでいけると思ったん?参考までに」
「だってこの世に生を受けて十年間。私より顔の綺麗な人を見たことがありませんし」
「あんな……シズちゃんにはまだ分からんかもやけど十年って案外短いで?」
「おっさん」
「そない簡単におっさんとか言わんといて」
「とにかくいなかったんです!そんなには」
「しかもいるにはいるんかい。ぐずぐずやん根拠が。どこの誰?」
「えっ……私のお母さんとか、あとはキャンディあむあむチャラお兄さんとか……」
「なんかキャラ濃い奴おるぅ……言うとくけど薊も割とハンサム顔やで?強敵やぞ」
「マジですか。じゃあゴリ押します。顔で」
「いや勢いの問題ちゃうねん。もうええわ」
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「……」
漫才か。
チヒロにはこの会話の後に「どうも、ありがとうございました」という幻聴が聞こえてきたが、正直仕方ないことのように思う。
それにしても、この後に持っていた薊の写真を柴が静姫に見せては「うっわ顔良っ!?熱いバトルになりそ」「何やこいつ」というやり取りをしていたが、いくら何でもこの二人は仲良くなりすぎではなかろうか。漫才コンビ結成していてもおかしくない。
国重までをも巻き込んで「よし!今からメイクアップするか!」「するとしても早すぎやろ」と愉快で賑やかな会話がチヒロの頭の中で響き渡る。だんだん頭痛までしてきて思わず額を抑えてしまう。そんなチヒロを見た静姫は眉を下げながら微笑んだ。
「ごめんごめん。顔でゴリ押すっていうのは冗談だから」
「本当かなぁ」
本当かなぁ。
「うん、本当。明日は真摯に真っ当にお願いするよ」
「真摯に真っ当に、ね……」
確かに、静姫は半端な気持ちで六平家に住むと決めたわけではないらしいが……最初それが柴には通じなかったのでは薊でも駄目ではないのだろうか、と思わずにはいられない。
そんな彼の曇った横顔を見ながら「そんなに心配しないでよ」と彼女は続けた。
「それで駄目だったとしても、私は何としてでもここに残るよ。二人と離れるの寂しいもん」
「シズ……」
「いざという時には、アザミさんの頭皮に多大なるダメージを負わせることも厭わないから」
「真摯と真っ当の意味知ってる?」
チヒロに「こう、ぶちぶちっと!」と言いながら髪を毟るモーションを見せつける静姫に辞書を引かせるべきか?とチヒロは呆れてしまう。現時点で言うと、少なくとも三つほど言葉の意味を調べてほしい。
「もしかしてだけど柴さんの髪も毟った?」
「国重さん以外の私の言うこと聞いてくれない大人は全員禿げればいいかなって」
「だいぶ卑劣」
すんっとした無表情でそう言ってのける静姫を見たチヒロは思わず彼女から目を逸らした……なんか怖かった。
そして何だかソワソワしてきて自分の髪を撫で付ける。自分の毛根は将来大丈夫だろうか?六平家の人間は彼女のターゲット対象外らしいが……。
「卑劣でもいいよ」
静姫は先ほどまでの明るかった声から少しトーンを落とし、そう呟いた。
不思議に思ったチヒロが彼女へ視線を戻すと、静姫は既にチヒロを見てはおらず再び美しい満月を見つめている。その表情はまるで「どうにでもなってしまえ」とでも言うように投げやりで、どこかあっけらかんとした様子だった。
「どんなに卑劣でも汚い手段を取ってもなんと言われようともいいんだ。私は綺麗な存在の傍でしか上手く呼吸できないから」
……その綺麗な存在とは六平国重の生み出す刀か、それとも母親のことなのか。
チヒロは意図せず彼女の柔い心の片鱗を触れてしまっただろうかと少しばかり後悔した。明るく振る舞っていたとしても、心の内の静姫は寒さに苦しみ震えながら彼女の傍にいたはずの綺麗な母親を想い続ける……今も、これからもだ。
それから、今更ながら彼女には本当に母しかいなかったのかという疑問が彼の脳裏に過ぎった。賑やかで優しい父とその友人に囲まれて育ったチヒロだからこそ湧いた考えなのだろう。そうとは分かっていても、目の前の寂しげな少女の味方が母親以外にいなかったとは少し考え難かった……そう思いたくなかった、というのが正確かもしれない。
「ねえ、シズ」
「ん?」
「キャンディのお兄さんってどんな人だった?」
「キャンディあむあむチャラお兄さんのこと?」
「うん」
本当に母親だけしかいなかったのか、とストレートに聞くことは憚れるため、チヒロは静姫の口から出た母親以外の彼女の交友関係にある人物について聞くことにした……そして、あくまで正式名称は「キャンディあむあむチャラお兄さん」らしい。
関係性がよく分からないが、綺麗なものに好印象を持ちがちな静姫が綺麗と評するその男は彼女にとってどんな存在だったのか。
「キャンディあむあむチャラお兄さんは……言いづらいな。『アメオさん』でいっか」
そうだね。
「アメオさんのことは実はよく知らないんだ。身なりの綺麗なお坊ちゃんって感じなのかな……髪の毛がふわふわの綿飴に似ててさ。ほんの少し前に会ってちょっと絡まれるかたちでお話した程度で、そのときに……」
何かを言いかけた静姫はそこでぴたりと固まった。そして外に放っていた足をゆっくりと縁側に乗せて膝を抱えだし、少し目を伏せながら……小さく小さく呟いた。
「……もう、会わないんだな」
その言葉を静姫はどのような感情で吐き出したのだろうか……真偽は定かではないが、チヒロには彼女が何かに恐怖しているように見えた。
「……シズ?」
「まっ!とりあえず言えるのはよく知らない人ってことくらいかな」
どこか様子のおかしい静姫を案じてチヒロは声をかけたが……そんな彼の心配そうな声を、聞かなかったことにしたであろう彼女は夜空を見上げながらにっこり笑い明るい口調でその話題を切り上げようとする。
きっと何かを誤魔化しているのだろう…… 静姫には誤魔化したい何かがそこにあったのだ。
だからこそ、チヒロは……。
「そっか」
「ごめんね、内容が薄くて」
「いや、大丈夫だよ。俺も何となく気になった程度だし」
それ以上、踏み込むことなく話題を終わらせた。
彼女の誤魔化したい「もう会わない人」をわざわざ深く追及する必要はないはずだ。暴いてはならない隠し事はあそこに輝く星の数ほどあるんだろうな、なんてことを考えながらチヒロは静姫と同様に夜空を見上げる。
視界いっぱいに広がる宵闇には火の粉のように細かくて白い光の粒が散りばめられている。まるで黒い海が煌めいているようでとても美しい。
それでもやはり一番に目を奪われるものは……。
「月が綺麗だね、チヒロくん」
「!」
静姫が唐突にそう呟く。
きっと深い意味はないのだろう……それでもその言葉にはチヒロの胸にざわざわとした喧騒を立てるには十分な威力があった。
しかし、そんな彼の心情には噸と気付かないまま、彼女は月から目を離そうとしない……それが何だか悔しくて普段ならわざわざしないであろう話をするため、チヒロは口を開いた。
「シズ、知ってる?」
「ん?何を?」
「『月が綺麗ですね』って言葉は……『あなたを愛しています』っていう意味があるんだって」
「えっまじ?どういうロジック?」
「……さぁ。諸説あるらしいけど」
平静を保ちつつ、なんだ……とチヒロは少し残念に思う。暗に「お前はさっき愛の告白と同じようなことを言ったんだぞ」と突いたつもりだったのだが……彼と違って彼女は微塵も動揺することはないらしく、豆知識が一つ増えた程度にしか思っていない様子である。
静姫はチヒロのことをあまり意識していないようだ。
「そっかぁ……綺麗、綺麗かぁ……」
静姫は何かを思案しながらブツブツと呟き始める。この台詞にスポットが当たるのは『綺麗』よりも『月』の方ではとチヒロは思ってしまうのだが……彼女にとってはそうではないらしく「綺麗、綺麗……」と繰り返していた。
やはり静姫は綺麗という言葉が好きなのだろうか。
「もしかしてさ、チヒロくん」
「何?」
「その言葉を送った相手ってお月様みたいな人だったのかな」
「……月みたいな、人?」
「そう、例えば……」
しばらく何かを考えていた静姫は、考えが纏まったのかゆっくりと口を開いた。
「そのお月様みたいな人が愛おしくて愛おしくて……どうしようもない程に好きになっちゃって。『綺麗』って言葉が『愛している』っていう意味に転じてしまう程に、真剣な眼差しで真っ直ぐ出てきてしまった言葉なら……」
静姫の目はスゥっと細められている。
その視線の先には確かに月があるのに……彼女は月ではなく別のものを見ているという確信がチヒロにはあった。
「それは正しく愛の告白に違いないよね」
その口ぶりは、たった今思いついただけの言葉ではないと。
遠くない過去に、静姫にはその例えと同じような経験があったと。
そう、分からせるような声色で……。
「……本当に好きだったんだなぁ」
それは何を考えた上での言葉なのか。誰を想って零した言葉なのか。
そんなことは、もうチヒロにとってどうでもよかった。
綺麗だと思った。
淡い光に照らされたその石膏のような白い肌が。
この夜空をぎゅうっと詰め込んだような藍墨茶の瞳が。
夜風に吹かれて揺れる絹糸のような青藍の髪が。
悩まし気に吐かれた哀愁に濡れるような温度の篭る息が。
静姫を……静姫たらしめる為の全てが。
手を伸ばせば届く距離にいる、四十万静姫という名の女の子が。
綺麗だと。
「まあ、この考えが合ってるかは分かんないんだけどね。でも、そうだなぁ……」
言葉を失っているチヒロを知ってか知らずか、彼女は話を続ける。
「あんなに綺麗なお月様がそんなに好きな人と見ることができたとしたら。嬉しくなって幸せで堪らなくなって、私はもう……」
静姫は少し首を傾けてチヒロの顔を見ながら切なそうに微笑みその言葉を……赤い果実のような愛らしい小さな唇で紡いだ。
「死んじゃってもいいかもね」
それは言ってはいけない言葉だった……『死んでもいいわ』なんて。
静姫はきっと知らない。知るはずがない。
それが、もう一つの……愛の告白たり得る台詞だということを。
「あっ……」
ゴクンッとチヒロは生唾を呑み込み、やっと声を絞り出すがそれは何の意味も持たぬただの音となり宙に溶け込んだ。
それでも、何か言わなければと思った……何を?
いいや、何かは分からない。けれど今、言葉にしなくてはならなかった。
そんなチヒロの胸の内を知らない静姫は「困らせちゃったかな」なんて言いたげな申し訳なさそうな顔をして、膝に顔を埋めてしまう。
いやだ、そんなことをしないでくれ。
きみの顔を真っ直ぐ見ながら言いたいことがあるんだ。確かにあるはずなんだとチヒロは彼女の名前を呼ぼうとする。
しかし……。
「やっぱり好きだなぁ……」
チヒロは静姫の名前を呼ぶことすらも出来なかった。
まるで、神が死んでしまったかのように。
「……っな」
チヒロは呆気に取られてしまうが、痛切なまでに理解させられた。
それは確かに『恋慕』の色を纏った声色だということを。
先程のチヒロに言ってくれた『月が綺麗ですね』や『死んでもいいわ』には微塵もなかった……いいや、比べることすらできないくらいの濃度の。
身を焦がすほどに苦しくて苦しくて堪らずに、やっと絞り出したようなその無駄のない台詞は甘美な毒を流すかのようにチヒロの耳に流れ込んできた。
チヒロは今この瞬間、自分は聴覚がなくなればいいのにと己の耳を酷く憎んだ。
「_______ちゃったかなぁ……」
そうすれば膝に隠そうとしたはずの……好きになった女の子の自分に向けていない言葉を。
ただのくぐもった意味のない音にしてしまうことが出来たのに。