
此処じゃなきゃ駄目なの
「……刀が好き?」
「はい、そうです……」
六平親子を愛すようになったきっかけを、柴による力業で白状させられた静姫の答えは「刀」。
彼女が答えるのが嫌がるものなのでどんなことと思えば、と柴は意外だったのだが、逆にチヒロとしては腑に落ちるものがあった。
というのも、この五日間の静姫といえば、国重とチヒロが工房に行く時は必ずヒヨコのようにちょこちょこと後ろについて来ていたのだ。
最初こそ、遠慮がちに工房の入り口から覗き込んでは見学してもいいかと伺ってきたので、それを二つ返事で快諾すれば……次の日もそのまた次の日も頬を赤くして「今日もいい?」と期待に満ち溢れた表情で聞きにくる静姫。
それに「もちろん」と答えると静姫は簡易的な椅子に座り、ただただ黙ってその鍛刀の様子を眺め始める。あまり座り心地が良いとは言えない椅子なのに、そんなことは気にもしていない様子で長時間座りながらじぃっと見つめ続けるのだ。
飽きもせずほうっと息を吐きながら……まるで満天の星空を目にしていると言わんばかりに見惚れている彼女には刀匠の国重とそれを目指すチヒロは何処か嬉しいものがあった。そんな静姫が「刀が好き」だと言うのも頷ける。
ちなみに、鍛刀が終わる前には煤だらけになった二人がすぐに風呂に入れるよう、自ら進んで湯を沸かすようにもなったので、素直にありがたいとも思っていた。
「なんでそれ答えんの嫌がったん?」
「だって刀が好きって言ったら、傍から見たら危険人物って思われるかなって……」
「いやそんなことないやろ」
「なら『ほぼ見ず知らずの子供が他人の家に転がり込んだきっかけが人を斬るための刃物が好きだから』って聞いたらどうですか?」
「……うーん、日本語って不思議やね」
「そんなことありそう」
静姫としても、別に国重が作り上げる刀を悪用するために盗んでやろうだとか、やましい考えを持っているわけではない。
しかし「物は言いよう」とはよく言ったもので、事実だけを並べると少々怪しいことを否定するのは難しい。しかも、結界を難なく突破できる技を持っている彼女なら尚更だ。
最初こそ、恥ずかしいと思いながらも話すつもりではあったのだが、その字面の怪しさにすんでのところで気付き誤魔化そうとしたのだ。まあ、誤魔化し方がわざとらしすぎて余計に怪しくなってしまったのだが。
「……実は私、刀にあまり良いイメージがなかったんです」
静姫は刀匠の二人の前ということもあって、気まずそうに俯きながらポツリポツリと話し始めた。
日本は刀社会。一般人が刀を所有することは珍しくはなく、静姫が過ごしていた街にだって当然のように刀を腰に下げる者たちは何人も見られた。
「自衛の為とは分かっているんです。それでも私の今までの認識の刀とは、暴力という手段をいとも簡単にしてしまう力。拳よりも危険な武器。容易に人の命を奪えてしまう物なんだって……」
特に静姫とその母親のような貧しく力の弱い者達からすればその恐ろしさは一入だろう。誰に頼ることもできず生きている者達が……何食わぬ表情で自分の隣を歩く武器を持った見知らぬ人間達を恐れず生きることが出来ると、どうして言えようか。
静姫が柴を欺けるほどに気配を消す才能を持っていたのは確実だが……その才能を開花させることが出来たのは、彼女自身のそのような攻撃手段を有する赤の他人への不信感が起因している面も大きいだろう。
「でも、だけど、それなのに……私は惹かれてしまった……!」
静姫は己の胸をタンッと手のひらで叩きながら顔を上げる。その頬は熟れた果実のように赤く染まり、誰に急かされるでもないのに、何かに焦っているように興奮しており、恋する乙女が想い人に気持ちを伝えるような、そんな気が逸る様子だった。
「まるで、全てを焼き尽くされたかのようでした……!あのとき、工房で目にした、火花が弾けて舞うあの、あの眩しく綺麗な光景に!」
母を失ったばかりの静姫は、それはそれは全てに絶望していた。それはわざわざ口にしなくても、大なり小なり三人には想像が出来てしまう。
どことも分からぬ山に立ち入り流れに身を任せてこの六平家に辿り着いた……本来なら今頃、野垂れ死にしていても何も不思議ではないほどに、全てのことを投げ出していたのだ。
まるで人生の終わりのような……いいや、最初から始まってすらなかったのだろう。何も始まらないままでも母さえいれば、名前すら与えられない没ストーリーのキャラクターでも良かったのに、と。
そんな腐った心を焼き尽くし、本当に何もかもを無に帰した後に目に映ったものは……
「それは、この世で最も尊く美しいと感じさせるものでしたっ……!」
今までは、ただの暴力の象徴というだけ認識のものだった。
それが、それだけのはずったったものを、彼女が目にした瞬間、シュレッダーにかけられてあとは紙屑になるだけだった演劇『四十万静姫』という人間……その人生の幕が開かれた。
それは……今まで生きてきた上で心の支えにしていた静姫の母、紗凪さえ出来なかったことだ。
「単純でしょうか、安易な理由でしょうか。その美しい物を生み出す人を……釣られるように、好きになってしまうことは」
「いいや。よくある話やな」
「……でしょうとも」
つまり、静姫は刀匠『六平国重』の熱烈なファンになったのだ……それは今まで生きてきた全てをひっくり返してしまう程に。そして、その後の五日間を過ごす間に国重とその弟子であり息子でもあるチヒロの為人を知ることができた。
人が人を愛する理由を育むには十分過ぎるだろう。柴は納得がいったという風に膝をポンと叩いた。
「そりゃお互いに大好きになるわけや。こないに熱々な大好きを表現されたら」
「……そ、そうですかね?」
「おろ、照れとる」
先程まで熱く語っていた静姫の興奮は治ったらしいが、今度は思い出したように照れ出してチラチラと六平親子を交互に見ながら指をつんつん突き合わせ始めた。おそらく、この仕草は彼女自身の癖なのだろう。
「……」
「……?ど、どうしたの?チヒロくん」
国重は何も言わずにニコニコと再び静姫の頭を撫で始めるが、チヒロの方は真剣な眼差しで彼女を見つめている。無言のままのチヒロに静姫は少々狼狽えていると、彼は静かに口を開いた。
「俺も、すぐにはなれなくても……」
「うん……?」
「シズが一目見た瞬間に美しいと思わせる刀を作るから」
「!」
チヒロの夢は六平国重に並ぶ刀匠になること……そして、それを夢のままで終わらせるつもりは一切ない。
先程の静姫の口から出た彼女なりの最大の賛辞をチヒロは手にしたくなった。これはその決意表明なのだろう。
「いつの日か必ず。だから、それまで待ってて」
「……っうん!楽しみにしてる」
チヒロは静姫の返事を聞き、フッと笑った……表情変化の乏しい彼にしては珍しい微笑みである。
幼い少年少女の約束事から醸し出される柔らかく暖かい空気が和室を満たしたように感じられ、大人二人も釣られて笑った。
「さてと、聞くこと聞いたし、そろそろ俺もお暇させてもらうで」
「あっはい!また、いつか……!」
チヒロの言葉が嬉しかったからか、静姫は立ち上がった柴にも笑いかけて手を振る。
しかし、彼は首を傾げて「何言うてん、シズちゃん」と言いながら彼女の前に手を差し出した。
「……え?」
差し出されたその手に、静姫は激しすぎるデジャブを覚える。
おい、待て。さっきもあったぞこの……この、流れ変わる感じ。
「シズちゃんも一緒にお暇するんやで」
「エ゛ァ゛ーーーーーッ!?」
「ワハハ慣れたなぁその叫び」
カラカラとなんてことないように柴は笑うが、静姫としては一切笑えなかった。チヒロも同様に驚いていたが、国重だけは「えぇー?」と不満げではあるものの、さして意外そうでもなかった。
「なぁー本当に駄目か?柴ぁ」
「アカンねん。それは最初言ったときから変わってへん。六平家の滞在はシズちゃんには許可できん。この子は一旦俺んとこで預からせてもらう」
確かに、柴は最初からとりつく島も無い様子で滞在を却下していた。
尋問も始めたが、それは嘘をつかないなら国へ連行しないというもので滞在許可をおろすためのものでもない。
「……アッ!?さっきの柴さんが私とお話しないなら連行するって言ってたやつ!」
「べっつにあれ俺は一言もお国に連れてくなんて言うてへんしぃ〜?」
「こっこの……!よくもぬけぬけと……!」
尋問後の話は聞いても聞かなくても結果として静姫を連れ出すつもりではあったのだが……柴は純粋な興味で彼女の荒肝を拉ぎ、六平家大好きの理由を聞き出したのだ。汚い、流石大人だ汚い。
「ひっ人が!人が心に秘めておきたい想いを暴きながら!この場所から引き離すって!」
「いやいや、引き離しはせんよ。だいぶ込み入った話は聞いたことやし、たまにここに訪問したり出来るくらいにはかけあったるから……」
柴は「薊にも話通さんとなぁ」と国お抱えの機関『神奈備』に所属する中で、最も信頼のおける男のことを思い出しながら静姫を回収しようとする。
「ヤダァーーーッ!24時間365日六平家じゃないとヤダァッ!」
「うおっ!ちょっどんだけ素敵な毎日やってん!」
「何もしなくても美味しいご飯が勝手に出てくる毎日!」
「びっくりするほどユートピアやん……」
「それに柴さんは料理出来なさそう!」
「アホか柴さんをナメたらあかんでぇ!俺かて林檎くらいズタズタに切れるわ!」
「もうダメそう!」
しかし、静姫はチヒロにしがみつきながら断固として拒否する。
彼女からの三者それぞれへの信頼と好感度を考えれば当然だろう。チヒロといえばもう慣れた様子で彼女の背中を支えている。柴には築けぬ絆がそこにはあった。同年代だからだろうか?まあ、多分純粋に柴が怖いだけだが……。
「っていうか!私っ枕変わったら寝られないんで!安眠できないんでッ!」
「そんなん言うて四、五回しか使うてへんやろ。ここ来てまだ五日目なんやから」
「いいえ!もう八回は使いました!」
「毎日しっかりお昼寝挟んでるやん。寛ぎすぎや六平家歴五日」
しかも、退去を拒否する理由がもう完全に駄々っ子のそれになっている。枕が変わったら寝付けないとかそんな理由で結界で守られるレベルの国家機密のど真ん中でのうのうと眠らせるわけにはいかないに決まってるだろう、と柴は呆れる。
「つべこべ言わんと早うチヒロくんから離れぇや」
「ヤダァ!チヒロくん!助けてチヒロくん!」
「具体的にどうしたらいい?」
「人質になって!」
「お断りします」
「わーん交渉決裂したぁ〜!」
「人質に交渉するんじゃないよ」
明らかに交渉内容を間違えた静姫は、ノーと言えるチヒロにゆっくり肩を掴まれながら押し返される。さっきまで支えられていたというのに案外その絆は脆かった。全面的に静姫が悪い。
「ほらっ行くで」
「ミギャァアアーーーーッ!!」
その隙を逃さぬ柴は静姫の脇下に腕を入れてヒョイっと簡単に持ち上げれば、完全に柴を恐怖対象と認識している彼女の喉からは絹を裂くような悲鳴が発せられる。それはまるで動物病院に連れて行かれる暴れ猫を彷彿とさせる叫びだった。その切実さはチヒロが若干申し訳なくなってしまったほどである……まあ、そうであっても人質は御免だが。
「わーん国重さぁん!国重さん助けてぇッ!」
「何したらいい?具体的に何したらいい!?」
「なにを目ぇキラキラさせてんねん」
チヒロに裏切られ(自業自得)頼れるものはもう一人の大人である六平国重ただ一人となってしまった静姫。彼女は半泣きになりながら今度は国重に助けを求めるが……何故かこのおじさん、妙に乗り気である。
「上目遣いで柴さんにかわいくおねだりしてくださぁい!」
「柴ぁ〜!シズを連れてかないでくれよ〜!なっ!おーねーがーいっ!」
「わぁ……!国重さんかわいい〜!」
「おっまじか!イケるか!?」
「いや髭面のおっさんにかわいこぶられてもおもんないねん。かわえー女の子ならまだしも」
「ッ!!やっぱりロリコンなんだッ!」
「えっうせやん、まだ疑われてたん?」
何でそれでイケると思ったのか、そして何故こんなにもノリノリなのか、と柴は二人に呆れてそう呟けば、静姫は鬼の子を見る様な目で彼を見上げた。面白いくらいに真っ青な顔で両目をガン開きにして慄いている。
どうやら、彼女の中で彼のロリコン疑惑はまだ晴れていなかったらしい。
「ヤァダァァアア!離して離してぇ!」
「おっとと!暴れんな落っことすで!」
「いっそもう落ちていい!」
「あーもう観念せえや。きみをこのお家には置いておけん大人の事情があるんや」
「嘘だ!大人の事情とか言いながら私に大人の情事をする気なんだ!」
「おいどんだけ俺を変態にしたいねん」
最早静姫の脳内では六平家からの強制退去よりも、もっと遥かに深刻な事態が迫っていると誤認しているらしい。
割と真面目に貞操の危機を覚えた彼女は、もうなりふり構わず柴の胸を叩いたり蹴ったりじたばたと暴れたが、どうやら彼は痛くも痒くもないらしい。かよわく年端も行かぬ女児と戦争を経験する猛者の間に圧倒的な力の差があるのは歴然と言えよう。
しかし、このままギャイギャイと暴れる女児をそのまま連れて行こうものなら職質は免れない。柴はそうなった場合の言い分を少し考えたが、どう言っても彼が現行犯逮捕されそうな台詞しか思い浮かばなかった。「ロリコンめぇえっ!」と泣き喚く静姫を抱えているなら尚更である。
このまま連行しようとするとかなり……すごく、まずいことになるのは明白であると判断した柴は、静姫を片腕でしっかり抑えるように抱え直した。
「アッ!?やばいッ!あの人智の及ばない謎の力のやつ使うつもりだこの人!やばいもう無理そう!」
「ほぉ〜ん聡いやんけ柴さんえらい感心したわぁ〜」
「こんなに心のこもってなさそうな感嘆の声聞いたことないよォッ!」
もうめんどいし直で行くか、と柴は妖術を使うことにした。スッと人差し指と中指を合わせ立てる柴に見に覚えのありすぎる恐怖を思い出した静姫は、彼の体を力の限り押し返そうとするが……ただでさえ力で敵わないのに、こうもがっちり拘束されるように抱えられてはもう彼女には打つ手がなかった。まじでびくともしない。完全に詰んだ。
「じゃっ今から柴さんの家行くで。危ないから暴れたらアカンよ」
「ヒィイィィィ嫌だッロリコンの家に連れ込まれるのはだけは嫌だァアッ!」
「せやから柴さんはロリコンやない!俺の好みはないすばでぃのお姉さんや!」
「じゃあっじゃあ!私をないすばでぃのお姉さんに育ててから喰うつもりなんだぁ!」
「誰が光源氏並みの美青年やて?」
「言った覚えがまるでない〜!」
この時の静姫はまだ知らなかった。
将来の成長した彼女はサラシなど巻かずとも、男物の服を着るだけで性別の判別が難しい身体つきになってしまうということを。
そして、その待ち受ける未来の自分はそれが割と地味にコンプレックスになってしまうということを……。
「じゃあ二人とも。俺らはこれでお暇するけど、また近いうちお邪魔しに来るわ」
「おう、いつでも来ていいからな!」
「やだぁあっお暇しないぃいいッ!」
「まあこんなふうに騒がしい困った子なもんやけど、シズちゃん来たときはチヒロくん仲良うしたってや」
「……はい」
「出会って一時間弱のくせに何をちょっと保護者面してるんですかッ!?」
「ほな、またね〜」
「いやぁああ!チヒロくんッ!助けてチヒロく__」
静姫の抵抗むなしく二人はシュンッ……という小さな音と弱い風を残して消え、代わりに和室には静寂が舞い戻った。
本当に一気に静かになった。きっと自分達が思ってたよりも静姫の喚き声はめちゃくちゃに煩かったのだろう。
「なんか嵐みたいだったな」
「……初めてだったね。シズがあんなに嫌だ嫌だって騒ぐの」
「相当嫌だったんだんだろうなぁ」
さて、といった様子で国重は立ち上がる。まるで先程までのことがなんてことでもない、とでも言いようだった。
チヒロは父の、そのいつも通りに「変だな」と思った。
「父さんはいいの?」
「ん?何がだ?」
「だって父さんは、シズに家にいてもらいたかったんじゃないの?やけに簡単に諦めてたけど」
国重は最初から静姫を家に置いておきたいと柴に頼んでいた。だというのにも関わらず、柴が頑として意見を変える様子を見られなかったらすぐに引き下がった。しかも、良い笑顔で彼女を送り出すほどであった。
ならば、何故静姫を家に置いておこうと考えたのだろうか。
「ああ、それか。それなぁ。それはなぁ、刀のことよく学ぶならうちがいいかと思ったんだぁが……でも柴がいるんならあっちでも大丈夫だろうと思ってな」
「刀?鍛刀のこと?」
「それもだけど、もっと大事な部分だ」
「大事な部分?」
「まあ、まだ気が早いかもなっていうのもあるからな」
「ふーん……」
チヒロはそれ以上聞かなかった。彼としてもその『大事な部分』というのは気になるところではあるが……国重が 静姫が学ぶべきと考えてることを先に自分が聞くのもどうかと思うし、彼がまだ早いというのなら今は聞くべき時ではないのだろう。
きっとこれからずっと刀に携わっていれば、そのうちチヒロにもその『大事な部分』を教えてくれる機は来るのだろう。普段おとぼけな父だが、そういうところはちゃんとしていることは彼は知っていた。
それよりも……。
「シズ、大丈夫かな……」
「んんー柴なら上手いことやってくれるだろ」
「いや、そうじゃなくて……」
チヒロは少し俯きながら、先ほどの静姫の言葉を思い返していた。
「シズ、今日はよく眠れるかなって」
「……っま、そういうのは時間が解決してくれるのを待つしかないかもなぁ」
「……」
なんだ、知っていたのか……とチヒロは素直にそう思った。てっきり自分だけが知っているものかと思っていたのに、それが勘違いだったことがほんの少しだけ悔しいような気がした彼は「シズ、新しい枕に慣れるといいね」なんてことを言ってしまう。
そんなことを本当に思っているかどうかなんて、チヒロは考えなくてもいいことだった。
――それから三時間後。
「……いや、確かに近いうちに来るとは聞いていましたけど」
「ふぎゅっ……ぐずっ……」
「は、ははっチヒロくん……ちょーっと見ないうちにデカなった?」
「たった三時間ではそんなことないと思います」
柴、再度襲来……しかも静姫を抱えて、である。近いうちどころかついさっきだったろうに。
「一体何がどうしてそうなったんですか?」
「私がかわえー女の子だったからおねだりしたら言゛うこと聞い゛てくれた……」
「十歳女児の本気の駄々を見た」
「認識に乖離が生じてますけど」
つまり、柴の自宅に着いた後に静姫がそれはそれは凄まじい駄々を捏ねたのだろう。柴の顔はげんなりといった様子で「もう柴さんは耳が痛くてしゃーないわ……」と呟いていた。静姫も静姫でかなり満身創痍らしい。目元は完全に腫れており、先程まで鈴の鳴るような綺麗な声だったはずだというのに、今は見る影もなくガラガラの掠れた酷いものになっている。これが悲劇的ビフォーアフターと呼ばれるものだろうか。
こうまでになった静姫の暴れっぷりに耐えかねた柴が音を上げ、彼女を六平家の元まで返却しに来た、と言ったところか。まさかの静姫の辛勝である。
「ちなみになんて言ってたんですかシズは」
「六平家に居られないのなら死んでやるー!って言ってはった」
「ちょっど!ぞんなごと言っでな゛いです!誤解を生む゛こど言わな゛いでください!」
「実際にはなんて言ってたの?」
「六平家に居られないのならいっそ殺せー!って言゛っだ」
「何一つ誤解はないように聞こえる」
無事かどうかはさておいて、六平家に戻って来れた静姫は少し元気を取り戻したのか柴の腕からぴょいっと飛び降りてチヒロへと駆け寄る。そして「ぶぇえ〜んヂヒロぐぅーん!寂じがっだぁ〜ッ!」と再び泣きながらしがみつく。チヒロはどんどん湿って冷たくなる服のことを考えないように目を瞑りながら静姫の背中を撫でてやる。色々言いたいことはあるものの……とりあえず今はいくらでも涙を飲ませてやるとしよう、チヒロの服に。
「チヒロくん、国重さん゛は……どこ……?」
「夕飯の味噌汁注いでるよ、四人分」
「よかったですね柴ざん。ご相伴にも与っても良いってことみたいですよ」
「わぁ一瞬にして我が家モードに切り替えとるぅ……」
三人分ではなく、四人分ということに少しだけムッとしたらしい静姫はチヒロにしがみついたまま柴に不遜な態度を取り始める。彼女は彼女で居候という立場だろうに完全に六平家に甘え倒す気のようだった。柴は呆れたように溜息を吐いた。
「すまんなぁ、チヒロくん。本来は俺が面倒みなんとなんやけど、どぉにも柴さんには無理やった。育児ノイローゼになってまう」
「ワンオペ育児の弱みに付け込んだ甲斐ありました」
「小賢しい子ォやでほんま。どこでそんなん覚えるん?」
「柴さん」
「俺かぁ」
「……」
二人の会話にチヒロは妙な疎外感を覚える。この二人のやり取りははなんだか一見仲の悪そうに見えるが、バチバチとした陰険なものは感じられず、どちらかと言えば『喧嘩もするが仲も良い兄妹』のように見えた。
何より、静姫の態度が明らかに違う。国重やチヒロに甘えている部分は確かにあるのだろう。それでも彼女には申し訳なさだとかそういった感情があるせいか、極々薄いが二人には少しだけ壁があるように思える。
しかし、柴に対しての静姫はそういった遠慮がなくそのままの自分を晒しているような印象を受ける。おそらく柴の前でしか見られない彼女なのだろう。チヒロにはこんな静姫を引き出すことは出来ない。
「……」
一体、このたった三時間で二人に何があったのだろうか?
静姫は本当にただ駄々を捏ねただけだったのだろうか?
実は二人の間で六平家の二人のように打ち解け合える何かがあったのではないのか?
そう考え始めると、チヒロの心にモヤモヤとしたものが生まれ始める。本当にそのモヤモヤがたった今生まれたものなのかどうかは考えないことにする。
「そんなわけでチヒロくん、手のかかる子ぉやけどもやっぱりシズちゃんはそっちで面倒みてくれるか?」
「み、みてくれる?やっぱ駄目、かな……?」
「……」
彼女の世話がいくらか手がかかることなんて、チヒロは最初から知っている。静姫だってそんな遠慮がちにしなくたっていいのに。
「……別にいいですよ」
「うぉっ!えっチヒロくん?」
「シズは確かに少し手がかかりますけど……別にいいんですそのくらい」
徐々に膨らんでいくモヤモヤを掻き消すようにチヒロは静姫の身体に腕を回し……その言葉の続きを口にした。
「……それなりに可愛いので」
チヒロの台詞を聞いた柴は「ひゅう」と口笛を一つ吹いたが、肝心の静姫といえば……彼を見返しながら小首を傾げ、はてなマークを飛ばすばかりだ。
自分でもらしくない思いきったことを言ったつもりではあったが、喜ぶどころか照れすらもしない彼女を少し残念に思ってしまったことを……チヒロは、自分の胸の内に秘めておくことにした。