百六万八千三百七十二円


 恐ろしい女だと思った。
 自分の我儘を、エゴを、自分本位の生き様を……何もかもを賭けて全うしようとするこの女を。
 柴は今までの人生で一人たりとも見たことはなかった。



 時は少し遡る。静姫が柴に一時的に六平家から退去されていた、ほんの三時間の出来事であった。
 彼女は退去時、それはそれは暴れ泣き叫び柴へ不名誉な言葉を浴びせ続けていた。柴の棲家へ移動した後にはどのような汚い言葉を投げつけられるのかと、彼は少々身構えていたのだが…… 静姫の口から飛び出してきた言葉は柴の予想のどれもを外してみせた。

「助かりました。柴さんがみたいな人が来てくれなかったら、これからどうしようかとも心配してたところだったんです」

 一瞬、聞き間違いかとさえ思った。静姫は柴の自宅に飛んだ瞬間に六平家での暴れ猫のような状態から一変して、淡々とした冷静な口調へと変わったのだ。彼女は二重人格なのではないかと本気で思い込んでしまったくらいである。

「……誰やきみ」
「四十万静姫です」
「さっきまで泣き叫んでたは四十万静姫どこ行ったん?」
「死にました」
「そうか」
「南無三」

 静姫は柴に抱えられたまま、目を閉じパチンと手を合わせた。南無南無。
 そしてぴょいんっと柴の腕から抜け出して「お茶っ葉どこですか。喉枯れたんでなんか飲みたいです」と戸棚を漁り出す。

「待て待て、俺はまだこの状況についていけてへんのやけど」
「えー情けないですね。この程度の状況変化にすら順応できない人じゃないでしょうに」
「俺の何を知っとんねんおい」
「その言葉、そっくりそのままお返ししましょうか」

 茶缶らしきものを発見した静姫はカポンと蓋を開けて、残量を確認したかと思えば怪しげにくすりと笑いつつ、缶の中身を見せながら柴の方へと振り返る。
 するとそこには……長話をするには十分な量の茶葉が残っていた。

「……腰据えて話そか。お茶でも淹れて」
「助かります」



「……つまり何や。ほんまに猫やったってとことか」
「そうです。猫でも被らないと可愛がってもらえない、擦れまくりのスカした全く可愛くないガキです。初めまして」
「ズタボロ言うやんけ」
「結構自虐しますよ。残念ながらこれが私の素です」

 片肘をつきながらズズ……とお茶を飲むの静姫なんと太々しいことか。化けの皮が剥がれた、と言うよりは自ら脱ぎ散らかしたきたと表現する方が正しいだろう。
 チヒロくん、国重さん!とニコニコ笑っていた朗らかな女の子は何処へ……あっ死んだんだった。蘇生されることを切に願うばかりである。

「ってことはあれか?全部嘘やったってことか?」
「んなわけないでしょう。逮捕されるんですから」
「まあそやな」
「好きな人に好かれるように本性を偽る女の子の努力を『嘘』の一言で片付けるのはどうかと思いますよ」

 確かに静姫が嘘をついていた様子は見られなかった。
 人が嘘をついているときの微細な反応を柴は決して見逃しはしない。彼女があの場で話していた全ては本当に違いないようだ。しかし、もっと正確に言うなれば嘘はついていないが、全ての真実を話してはいないのだろう。
 それにしても、誤魔化すのが下手な振りをしたり、嘘泣きであの量の涙を流す等とそう簡単にできる芸等ではない。意外な場所でとんでもない逸材を見つけてしまったようだ
 ここまで思案した柴は先ほどの静姫の言葉に「ん?」と違和を覚える。なんか聞き流しちゃいけない台詞が聞こえたような?
 
「おいちょい待ち。つまり、柴さんの前で偽らないのは好かれるつもりないってことなん?」
「まあそうですね」
「えらいこっちゃ」

 まさか自分に対する塩対応だけは健在だったとは。
 落ち着いている状態で話す時の柴に対する態度だけ六平家とまるで変わらないではないか。「助かります」と言っていたから実はそうでもないのかと思ってしまったのに……と、地味に柴がショックを受けていると。

「だって、私が本当のことを全て話した後、他人から好かれる自信なんてありませんから」
「……ほーん」
 
 目を閉じて緑茶を啜る静姫はなんてことないように言ってのけた……どうやら、これから本題に入るらしい。
 静姫はまず自分の履いているズボンのポケットに手を入れ何かを取り出そうとする。そのポケットはえらく深いものらしく、ずるりと若干の重量のありそうなものが顔を出した。

「なんやこれ?」
「パンダカパンカって名前のパン屋さんのレジ袋です」
「パンダカパンカ」

 柴には「どっちやねん」という言葉を今は言うべきではないことは分かる……どうせ「いや、パンでしょう」と答えられるのがオチだ。しかし、静姫が何故その藍色のレジ袋を柴に見せたのか、その意図は分からない。
 彼女はレジ袋の上部を持ちながらゆらゆらと揺らす。不思議なことに、中身を錘として振り子の要領で揺れるそれには、レジ袋特有のガサガサとした音が立つことはなかった。して、その錘の正体とは……?

「百六万八千三百七十二円が入ってます」
「ひゃっ……なんて?」
「百六万八千三百七十二円が入ってます」

 予想外すぎて聞き間違いかと思った柴が聞き返すが静姫はロボットのように全く同じ言葉を繰り返した。
 静姫が揺らしていたレジ袋から手を離すと、それはどしゃりと音を立てて机に落ちる。その軽い衝撃でチャリンチャリンと銀色の硬貨が三枚ほどレジ袋から転がり出た……彼女の言っていることが正しいのならこれで中身は百六万八千七十二円だ。
 柴は中身が本物の紙幣と硬貨であることを確認しながらひい、ふう、みい、よ……と数えると、ちゃんと彼女の口にした数値と同じだけの金額が入っている。
 そして、数え終えた後にお金をもう一度レジ袋に入れ直し、丁寧に机の上にカサっと置いた柴は口を開く。

「……強盗?」
「違いますよ失礼ですね。真っ先にそれが出てくるって何ですか、私のイメージは何だと言うんです」
「……詐欺師?」
「地味に妥当です」
「何やねん」

 女児が手にするには大金すぎる金額を、何故静姫が所有していたのか。その経緯を彼女は「母が出て行った後、ゴミだらけの自宅から黙って持ち逃げしました」と話す……『強盗』という言葉も地味に妥当だったようだ。シンプルに悪の所業である。

「ちなみに母ちゃんって外出しただけだったりするん?」
「……まあ「すぐ戻ってくる」とは言ってましたけどね」
「帰れ今すぐに母ちゃん絶対困ってるやろ」
「そうでしょうね、今頃すごく困っているはずです」

 あれだけの母への愛を叫んだ口で静姫は変わらず淡々と答える。何故そこまで太々しい態度を取れるのか柴は不思議でならなかったが……次の彼女の言葉で、事態の全貌が少しずつ明らかになっていく。

「働かずに家では寝てばかりの、酒とヤクとギャンブルと自慰行為しか興味のない、母を孕ませ私と血だけしか繋がってねえゴミ男に売り飛ばされた母は……今どんな困ったことをされているんでしょうね」
「……は?」
「まあ、実際には母は私の身代わりになったみたいですけど……目的の私が来なかったことで自宅には怪しい人達が来てゴミに色々言ってましたが、どうやら母は身体中改造されて愛玩人形にされるらしいです」
「なっ……」
「私は父親と思ったこともないですけど、母に謀られた男が命乞いしながらこの後に及んで「娘も渡すから金もっと寄越せ」とかほざきやがってたからぬるっと逃げてきちゃいました。あいつ私の名前も覚えていませんでしたけど」
「……」

 六平家に訪れる五日前の出来事を語る静姫。彼女は口調こそ淡々としてはいるが、その瞳の色には全てを諦めたような光届かぬ絶望が詰め込まれていた。
 柴はそんな彼女に愕然とした。確かに終戦後の日本の治安は酷いものではある。貧困に苦しみ、野蛮な人間による強い支配に苛まれ続ける境遇の人間は少なくはないのだろう。静姫もそんな部類にいる人間だ。
 しかし……泣けばいいものを。怒ればいいものを、足掻けばいいものを。大好きな母を奪われたことに関して静姫はもうとっくに諦めてしまっていた。
 何も、諦めるのが悪いということではない。そういうことではないのだ。
 例えば、もしも自宅にやってきた人身売買の手の者達に「母親を返せ」と殴りかかっていたならば、彼女は今頃この場にはいないだろう。そうなった場合、静姫は母親と再会を果たすことはできたかもしれないが……奴らにとって本命の静姫がやってきた後の母親は用済みとなってしまう。しかも、ヤクザ者を謀った女だ。命の保証は難しいだろう。
 それに何より怒りに身を任せて襲い掛かり静姫が捕まってしまう、なんてことになれば……彼女は身を挺して愛する娘を護った母親の想いを踏み躙ることになる。
 だから、諦めて逃げることしかできなかった。もうどうしようもないことなのだ、と弱冠十歳の子供であるこの少女はこの最悪な状況に対して嫌気がさすほどに聞き分けがよかった……聞き分けがよくならざるを得ない状況下で生き続けていたから。斉廷戦争は、このような哀しき存在を生み出す程に日本を腐らせるのか。
 そして、静姫が話したそんな社会の膿の一端であるその男は……

「……ゴミやん。まごうことなき」
「ゴミですよ。まごうことなき。今家に戻ったら本当に生ゴミになってるんじゃないですかね。特殊清掃員雇う金もないので知らないままにしておこっかな」
「それがええわ」
「……「すぐ戻ってくる」って言ってたんですけどね。こんな、こんな……端金になっちゃってさ……」

 百万ちょっとを端金と評する静姫は傲慢にも見えるだろう。しかし、母親の後生……そして、その母と共に生きれた未来の価値に比べれば紙屑同然だろう。たとえ、五千万積まれたとしても彼女の奪われた未来と同等の幸せを代替えできるものではないだろうな、と柴は考える。

「母はね、売春婦だったんですよ」
「……そう」
「好きでやっていたわけじゃないです。でも生きるために……いや、私を育てる為に身体中どこもかしこも穢され続けながら身を粉にして働いていました。そんな状況下にありながら、母の心は国重さんの作り出す刀の美しさにも負けないくらいに清らかで綺麗でした……」

 静姫は窓の外に広がる快晴を見上げながら話を続ける……ああ、あの青空にも母の清らかさには勝てないだろう、と考えながら。それに対して、彼女の心には暗雲が立ち込めている。

「それに引き換え、私の心は穢れきっています。あの人の体から産まれ落ちたとは思えないくらい汚泥に塗れた心です。生きている価値もないほどに腐りきった恥ずかしい精神を携えて死に損なったゴミです」
「……」

 柴には彼女に対して「そんなことない」……とは言えなかった。何故なら、彼はの静姫ことを何も知らないから。彼女はそんな言葉を欲して己を乏しているわけではないのだから。

「それでも、母は私の身体だけは清廉なままであってほしいと奮闘していました。私の手なんていくらでも汚して、醜く日銭を稼ぎ続け、その果てで目も当てられないほどに穢れきっても、母と一緒にいられるなら私はそれで良かったのに。「シズちゃんの綺麗なおててを汚すようなことはさせられないわ」なんて……自分の体を穢しながらいつも言っていました。説得力ないですよね」

 静姫は困ったように笑い「本当、呆れちゃう」と続けた。
 確かに彼女の気配を消すことに特化した妖術を活かせばこの世の中を生き抜くには十分だろう。窃盗や、暗殺の仕事を引き受けるなりでもすれば貧しくも生きてはいけると……そんな汚職に塗れた者たちの最期は総じて悲惨なものであることは柴はよく知っていたが。
 そんな静姫は妖術を使っていることに気づいてもいないし、妖術の存在すら知らないが、感覚的には「そういうことが出来る」ということは分かるようだ。

「でも、お母さんがそう願ったから」

 それでも、やらなかったのは……

「だから私は今まで自分の信じる穢れたことはしたことないし、おてても綺麗なままなんです。そうやって綺麗なものと穢れたものを補うようにして、二人で生きてきたんです」

 母親と一緒に生きるには、体だけは綺麗でなければならなかったから。だが、母を失った今…… 静姫にその拘りにはなんの意味を成さないのだろう。

「……これから汚れ仕事でもやる気か?」
「いやだなー柴さんが保護者としてお世話してくれるんでしょー?それで必要ならやりますけど」
「棒読みやな」
「そんなつもりないからです。気づいてるんでしょう?」

 静姫はにっこりと貼り付けたような笑みで軽く言ってのける。
 ここまでの話はまだ前置きだ……これから静姫がどう生きたいのか、という話をするための。

「私はね、いまだに以前の生家に囚われたままなんです」
「……ゴミ屋敷か」
「でっかい生ゴミ以外にもクサの吸い殻とかポンプとか色々散乱してて、本当に手の施しようがないゴミ屋敷です。今、この瞬間にも……気を抜けばあそこに引き戻されそうになっちゃう。だから、私の傍にはいつも綺麗なものが必要なんです」
「綺麗なもん、ね……」
 
 その「綺麗なもの」というのは六平国重の作る刀か……それともあの親子二人のことか。いや、きっとそのどちらものことなのだろう。
 純粋に大好きなあの二人と一緒に生活し、一瞬にして己を魅了した刀を見ながら日々を過ごしたい気持ちもあるのだろうが…… 静姫が母の願いを苦しみなく守り続けるにはそんな綺麗なもので彼女の穢れた心を浄化する必要があるのだろう。
 しかしながら……。

「分かってますよ」
「……何をや?」
「そんな小娘の穢れた心を癒す為にと、重要機密である六平家へと私の身を預けることは出来ないってことくらい」
「そやねんなぁ……」

 それでは、まだ弱い。静姫のその主張はまだ「知ったことではない」と切り捨ててしまえることなのだ。
 柴がこのように静姫を保護しようとするのは、あくまで彼女が六平家の在処を知ってしまったからに過ぎない。本来なら口封じのために殺してしまってもいいくらいなのだ。
 流石にそこまではしないが、彼女がもしも怪しげなことをすれば……柴は躊躇いつつも、自分はそれを実行に移してしまうのだろうと自覚している。

「だから、たまの六平家訪問くらいで手を打ってもらえんかっちゅう話やねんけど」
「打ちません」
「やろうなぁ」

 ニコニコ笑いながら静姫は首を振る。今までのことを全て理解し、納得までしているというのにこの太々しさはいっそ清々しい。おそらくだが生来の才能なのであろう。

「だって、あの家じゃないと私安眠できませんし」
「なんやねん、ここにきて枕ネタまた持ってくる気か。上等な枕買ってやろうか?」
「実は枕は関係ないですよ」

 静姫はまた何かを諦めたような目で、もうすっかり冷えてしまったお茶を無理やり飲み干す。そして片肘をつきながら湯呑みの縁をもう片方の手でクルクルとなぞり始めた。

「実は毎日見ちゃうんですよね」
「……何をや?」
「あの家で実際にあった、ある出来事に類似した悪夢です」
「類似した出来事?」
「……ええ」

 静姫が先ほど言っていた「以前の生家に囚われている」という言葉の意味を柴はようやく理解した。その家は彼女が十年間生きてきた場所。たった五日ではその家での出来事を払拭することはできないだろう。
 それに薬物に手を出していた父親と力の弱い母子が過ごす家……おそらくトラウマと言えるようなその悪夢の内容は容易に想像できてしまうものだ。だが、やはりそういったものは時間をかけて少しずつ和らげていくしかないのだろう。

「……柴さんは、何故私が自分の心が穢れていると自虐し続けるのか不思議に思いませんか?」
「!」
 
 と、考えていた柴はすぐに己の考えの甘さを改めることになる。

「本当に醜いんですよ、私という人間は。母が私の身体の清廉さを強く願うようになってしまう程に……そして、それが容易に破られてしまう可能性を心の底から恐怖する程に。だって私が見る悪夢っていうのは……」

 静姫はそこで初めて口を噤む。今までのことは言い淀むことなく淡々と喋り続けていたと言うのに。
 痛切に歪み迷いを見せるその表情は、彼女の喉に張り付いている言葉が……その悪夢というものがそれほどに恐ろしいことなのだと柴に理解させる。
 静姫はギュゥッと目を強く瞑りながら覚悟を決めたようで、やっと次に続く言葉を絞り出した。

「私が、お母さんを殺してしまう夢なんです……」
「……っな」

 柴は思わず言葉を失う。
 静姫は先ほど確かに言った、言ったのだ。
 彼女の夢の内容というものが彼女の以前の生家で『実際にあった』出来事に類似したこと、だと。

「……私は」

 それが意味することとは、つまり……。

「明確な殺意を持って、人を殺めようとしたことがあります」