愛しき人よ獄卒となりて


 多分、まだ私が八歳くらいの頃だった。自分と血の繋がった男……我が家で唯一、人を殺せるような純粋な暴力を振るえる男が、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった頃だ。
 その男は私という人間に然程興味がなさそうではあったのに、彼は私を毎日のように殴ったり蹴ったりした。まるで、道端に転がっている空缶をコォーンッと音を立てて蹴ることが心地良いことであるように……私は彼にとって人間ではなかったし、同時に私は彼を自分の力ではどうしようもないモンスターのように思っていた。
 母はいつだって私を庇ってくれた。あの男は私のことは腹だろうが顔だろうがお構いなしに殴りつけるのに、母にはあまり荒っぽいことはしなかった。その理由は単純で、母がこの家で唯一金を稼いでこれる存在だったからだ。
 決して愛しているわけではない……あの男にとって、体を売って金を引っ張ってくる母は良い財布。商売道具である顔や体を傷つけては自分の金が無くなると考えてのことだ。
 しかし、そんな母だって目立つ傷ができない程度には手を上げられるし、そんな彼女を見るのは私は嫌だった……かといって庇ってもらえなかったらと思うと体が震える。働きに出かける母がいない間は、私を守ってくれる存在はいない。
 私は自然と自分の気配を消す、音を立てずに生活する術を身につけていった。存在を認識されないのであれば、強者にとっては私は本当に路傍の石だから……浅瀬に沈む綺麗な石になれなかったとして、誰にも気に留められない方がずっとずっと気が楽だった。
 私には、お母さんさえいれば本当にそれで良かったから。



 そんなある時、とうとう奴はやってはいけないことをした。
 その日は特に男は荒れていた。酒を浴びるように飲みながら、文脈もめちゃくちゃなままギャイギャイと騒ぎ立てて、何を言っているかよく聞き取ることができなかったが……断片的な言葉をまとめれば珍しく外出したらギャンブルで大負けした上に、道すがらに歩く身なりの良い男女にゴミを見るような目で見られた、とかそんなところらしい。
 そんな彼を横目で見ながら、標的にされぬようにと気配を殺しつつ座り込んでいた私は、掠れた景色の中で確かに見た。あの男が出稼ぎから帰ってきたばかりの嫌がる母を思いっきり殴りつけて、あまつさえ強姦しようとする姿を。そして、加えてこう言いやがった。
 
「今更カマトトぶるんじゃねえ。いつも股開いて稼いでいる阿婆擦れのくせに」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがふつり、と静かに切れた。
 誰のせいだと思っている?お母さんはお前がいなかったら、お前さえいなければあんなに身を擦り切らせながらやりたくもない仕事をしちゃいない。
 今までずっと、何も見ないように、何も感じないように。ただただ本物の空気のように振る舞って生きてきた私だったのに、男の母を侮辱するその言葉だけでふわふわとしていた意識がみるみるうちに鮮明になっていくのが分かる。それはまるで、私が突然人間らしい五感を取り戻していくような感覚だった。
 気づけば私はゆらりと立ち上がっていた。それに気づく者はいない……それは、両者共に興奮状態にあることだけが理由ではないだろう。もはや私は自分の一挙手一投足、吐く息や身に纏った服の擦れ、傍にあった角材を手に取ることさえも全くの無音で動けるまでになっている。人が呼吸するのに特別な意識を必要としないように、私はその行為を無意識にごく自然にやってのけた。
 ずんずんと私が二人の傍まで近づいても、どちらも私に気づく様子はなかった。それどころか、とうとう男は母の首に手をかけて締め出す。母は「ヒュッ、ガ、」という酸素を求める音を喉から絞り出し、男の腕をガリガリと掻き毟り始めていた。目に見えて苦しんでいる。あーあ。

「それはだめでしょ」

 私が言葉を発しても、角材を振り上げる空気に撫でられても誰も気付かない。
 それに柄があるわけでもないのにまるで刀を振るうような体の動きで、私はそのまま男の額に迷いなく角材を叩き込んでやった。
 そのとき、やっと自分でも不思議だなと思ったのは、男を殴り飛ばしたときにもガィンッというような音がしなかったことだ。しかし、音なんかなくとも、この手に伝わる頭蓋を殴った手応えに、それに震える手の痺れに、両腕を広げて後ろから倒れ込む男に……私は会心の一撃を決めることができたのだと実感させた。
 ここまでの一連の動きを私は客観的に、まるで最初からプログラムされたロボットのようだとか、川を難なく泳ぐ魚のようだとも感じていた。酷く落ち着いた心であったような気もするし、何を考えるでもなくそうすることが自然なことだとでもいうように……私は自分の体が自分のものではないかのように全てをやってのけたのだ。

「……えっ、え?あ……?」
 
 だからこそ、そんな非現実的な感覚から母の酷く困惑した声にきゅうーっと現実に引き戻される。先程まで冷静だったはずの私の心はザワザワと困惑し出した。
 しかし、それは何も自分自身が躊躇いもなく振るったこともない暴力に出てしまったことではない。

「え、よわ……?」

 そう、目の前の恐怖の塊であるはずの男が。モンスターのような存在であるはずの男が……彼にとって空缶であるはずの小娘に。そんな私が殴った程度で、額から血を流し勢いのまま倒れ込んで……そのまま無様に気絶していたのだ。
 震えながら死んでいないだろうかと手をあわあわとさせて男のそばに座り込む母をよそに、私は片手をグッパー握っては開いてを繰り返す。
 音は立てなかった。それは事実だ。しかし、特に筋力を強めるだのそんなびっくりなことはしていない。以前として力の弱い女児の腕だ。そんな弱々しい力で一発殴られた程度で男は気絶した。
 私はそこで「あっなんだ」と至極単純なことに気付いた。

 人間じゃん。私もこの男も。
 空き缶でもモンスターでもない、同じ人間なんじゃないか。
 この男が簡単に私を殺せるように……私もこの男を簡単に殺せちゃうのか。

 そりゃそうだ。その通りだと納得すると同時に「何故こんなに簡単なことに気付かなかったんだ」と自分が情けないとさえ思ってしまった。
 それどころか、その事実から今や見下ろせる場所にいるこの男に、私はある種の失望さえ覚えた。それは逆らう術を持たぬ力無き私達母子に暴力を振るっていたことではない。男の詰めの甘さに辟易していたのだ。
 この男が、我が家で恐怖政治を敷き続けることが出来たのなら、私達はお前に従い続けることができたのに。不自由さに苦しみ喘ぎながらも「この男に従えば殺されずに済む」という洗脳のもとで確かに生きる方法を確立できたのに。それがたとえ、暴力という単純な方法だったとしても。
 でも、こいつはそんな単純な方法を取っても私達のような弱者を支配することすら出来ず、あまつさえこんな子供に額をかち割られてしまった。
 その程度の器だったのだ、と私に知られてしまったのだ……底知れぬ恐怖は底を曝け出してしまえば後は叩き割られ、ゴミと成るだけなのだな、と。
 私は何だか全てが馬鹿馬鹿しくなった。こんなゴミに怯えて暮らしていた今までが無駄な時間だった。

「……生きてる?」
「えっ、あっ……?」
「息してるのかって聞いてる」
「あっ……」

 狼狽えるばかりで男の傍で震えながら何も出来ずにいる母の横に座り、人差し指と中指を合わせゴミの首に軽く当てた。指先に感じるとくっとくっという脈の動きと上下する胸の動きから、こいつが生きていることを確認できた。額から血がダラダラと流れてはいるものの、倒れた時も打ち所が悪かったわけでもなく、命に別状はないらしい。

「気を失ってるだけっぽいね」
「そ、そう……!」

 母は私の言葉を聞き、心底ホッとして胸を撫で下ろす。私としてはこんな奴の生死が、今は然程重要なことではなく暴行を働かれていた母の容体の方が気になっているのだが……無事か?と聞けば母は「平気よ、ごめんねシズちゃん……」と返してくれる。絞められた首も少し赤くはなっていたものの痣は出来ておらず目立った外傷もなさそうだった。襲われ始めてからすぐに助けたからだろうか?
 懸念すべきところは、母は大丈夫じゃなくても大丈夫と答えるタイプの人なのでいまいち信用できないのだが……まあ、いいとしよう。

 これから、大丈夫になるのだから。

「じゃあ、さっさと済ませてしまおうか」
「え?」
「次に回す必要もないでしょ。タイミングも良いし」

 私はそう言いながら台所へ向かう……やはりまあ、何というか酷い有様だった。ゴミ袋が完全に台所の戸棚を塞いでしまっている。饐えた臭いが酷く、謎の液体が気持ち悪かったのだが、私は何とかゴミ袋を退かして戸棚を開けると、そこには最低限の調理器具が揃っていた。
 もう二度と使われることがないだろう台所に何の用があるのか、見当もつかないらしい母は「ど、どうしたの突然……」と私の後ろにそろそろと近づいてきた。何だか怯えている様子だったが、これからは安心してほしい。

「何か探しているの?シズちゃん……」
「うん、包丁」
「ほ、……え?」
「だって拳じゃ流石に無理だし角材じゃ疲れるし。こっちが確実でしょ」
「かく、じつ……?何、何のこと……」
「ああ、あったあった」

 私は戸棚の扉にかけられていた包丁を掴み、スラリと引き抜いた。若干、錆びてはいるものの……まあ、問題はないだろう。

「え、何……待ってシズちゃん。か、勝手に包丁なんて持っちゃ危ないわ……元あった場所に戻して?」
「大丈夫だよ。研いだりしなくてもいけると思うし」
「研ぐ……?ねえ、シズちゃんっ……!さっきから、何を言ってるの……!?」

 私の肩を掴んで母は自分の方へと振り向かせた。びっくりした。そうやって力強く引く方が危ないと思うんだけど……。
 私が刺したいのは母ではないのだから、やめてほしい。

「これであいつを殺すんだよ」
「こ、……ッ!?」
「私は間違っても一命を取り留めないよう丁寧に刺しておくから、その間にお母さんは荷物まとめておいて。すぐに出ていけるように」

 私は肩に置かれた母の手をパッと払って状況を飲み込めていないらしい母に指示を出す。私の言葉を聞いた母は目を丸くして口をはくはくとさせていた。目から鱗というか、今まで気付きもしなかった私の名案に言葉を失うほどに感心しているのだろうか。
 こいつを恨んでるとかそんな感情は不思議となかった。これからこいつとお別れすることになるのに、今更そんなこと考えても仕方ないから。あるのは殺しておいた方が何かといいだろうという損得勘定。
 本当に永遠に関わり合うことがないのを、確実なものとするために今ここで息の根を止めておくと色々都合がいいだろう。放っておいても食べる物がなくて死ぬかもしれないけど、ゴキブリの生命力ってすごいらしいし。

「だっだめよ……!」
「は?」
「人は殺しちゃだめっ……!」

 しかし、母は私の考えに同調しているわけではないらしかった。ああそっか、そういえばこの人は良い人だった。たとえどんな状況におかれようと、自分が殺されるかもしれない瞬間でも「人を殺してはいけません」という考えを捨てることはできないか。
 そんな母の綺麗な心を私は正直好きだし愛してもいるけど……自分のことを良い人だとも綺麗な心を持っているとも言い難い私にとってはそんな道徳の心なんてどうでもいいと思っている。
 そんなもので腹は膨れないんだし……母が綺麗なぶん、私は汚れていたっていい。それで足して二で割れば私達は二人でやっと一人分の人間の心を持てるんじゃないかな。知らんけど。

「いいよ、全部私がやるから。勝手に私がやったことにするから、お母さんは止めることができなかったことにしてくんない?」
「やだ!いや、それだけはだめ!」
「やだって、子供みたいな。確かにあんな奴でも殺したらこの町では暮らせなくなるかもだけど、別の町にでも行けばいいじゃん。しばらくの間は私が物盗りでもして食い繋いでいけばそのうち棲家だって見つかるだろうし、食い扶持だって稼げるようになるよ」
「そういうことじゃない、そういうことじゃないの……!一度手を汚したら、もう二度と戻れないの……!」
「はぁ?意味分かんないから。殺した後でもあんな奴の血つけたままいるわけないじゃん。気持ち悪いからちゃんと汚れ落とすって」
「だめっ!だめっ……!」

 いよいよ持って要領を得ない主張をし出した母にだんだんと苛ついてくる。
 ごちゃごちゃとうるさいな……どうせ、何をしたってどうなったって私のことは好きなままでいてくれるくせに。
 この間、衰弱していた猫を蹴り殺して喜んでいたあのゴミだって見捨てることができないのに、そんな奴のために人殺しになる四十万静姫を見捨てたりしないことぐらい分かる。
 そんなゴミ捨てが苦手な母の代わりに私が捨ててやるのがそんなにおかしい事だろうか?生きている間に母がそばにいてくれるのなら、私が死んだ後に地獄に落ちて獄卒どもに何千年と嬲られたって後悔はないのに。

「うるさいなっ!」
「あっ……待って!」

 母を振り払って私はゴミの元まで走った……都合の良いことにまだ気を失っている。これから永遠に寝とけカスが。
 私は包丁を逆手で持ってそのまま躊躇うことなく振り下ろした。
 すると、ずぶりと音を立てて意外にも簡単に包丁はその肉にめり込んだ。その柔らかい手応えに私はちゃんと刺せたのか判断が付かずに、少し不安になってもう一度思いっきり刺した。
 それでも不安は消えなくて、もう一度、もう一度……何度も、何度も何度も何度も。振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす。

「はぁッハアッ……はぁッ……!」

 気がつけば私は息を切らしていた。当たり前だ。腕を数えきれないほど振りまくったのだから、私みたいな体力ない子供はすぐに疲れてしまうだろう。
 でも、それほどまでに何度も刺したのだから、もう死んだはずだ……脈を確認するまでもない。
 私は頬に付着しただろう血と汗を思わず手で拭ってしまう。べちゃりとした気持ち悪い感触に「失敗した」と遅れて気付いた。

 頬とは比べものならないくらいに汚れきった手では、どこを触っても何に触れたとしても汚し尽くすだけで、何かを綺麗にすることは絶対にできないのに。

 こんな顔では外に出ることも叶わないな。タオルを用意してもらうか、と母を呼んだが返事が返ってくることはなかった……それどころか姿さえ見えなかった。
 おかしい。外出したような気配もなかったし、あんな状況で母が私を置いていくなんて絶対にあり得ない。

「お、母さん……?お母さんっ……?」

 自分でもびっくりするくらい情けない声で何度も母を呼んだ。とても小さくて、蚊の鳴くような声はまさにこのことを言うのかと思うような声……しかし、それでも部屋中に響かせるには十分なほどにこの場は静寂で満たされている。
 
 静寂は私が生き抜く為の要であったはずなのに、今はそれが私の生殺与奪をぎりりと握り締めているような気がしていた。

 私は何か取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか、と言う考えが脳裏に過った瞬間身体中が震え出すのが分かる。力が抜けて持っていた包丁を手から落としてしまったようで、カツンっと音が鳴る。
 やっと自分の声以外の音が聞こえたことに安心してその音がした方をに目を向けた。

「は」
 
 そこには、ただでさえ錆びていたのにさらに真っ赤になってしまった包丁と、虚な目をしながらまるで鬱血痕のような青紫色の顔で、口から夥しい量の血を吐き出していた……母が横たわっていた。

「……ちょっと、嘘、ねえ」

 私が呼びかけても、母は何も返してはくれなかった。

「やだ、嘘、違うこんなのじゃない、違う、起きて、起きてよ、ねえッ!」

 母の怖気がするほどに冷たい肩をゆさゆさと揺さぶっても、その目に光を取り戻すことはなく……それどころから腹からぞろぞろと赤黒い果実のような何かを溢れさせる。それが何なのか分からなかったけど、それが母の生命を維持するために重要なものだということだけは理解できた。
 私はすぐに針と糸を取り出す。大丈夫、私は破れた服を直すのだって得意だったから、人体の縫合だってできるはずだ。
 母の体から溢れたぶにゅぶにゅした何かを丁寧且つ迅速に母の体にしまおうとしたが、なかなかうまくいかない。部屋の中心で血と汗だけじゃなくてよくわからない汁に塗れながら、時間をかけて必死にその細い体にしまい込んだ私はすぐに母の腹に針を刺して縫っていく。
 それでも質の悪い糸では、人の皮膚を引っ張ることは出来ないようで途中でぶつりと何度も千切れた。私は千切れたところから重ねるように縫い直したけど、それも上手くいかず余計にボロボロにしていくばかりで……あんなにふわふわで柔らかかったはずの母の体は段々と硬くなっていく。
 いやだ、いやだ、こんなのはいやだ。お願いだから、もう一度あの柔らかい手のひらで私の手を握ってよ。私の頭を撫でてよ。
 
 どんな奴だって殺してやるから。
 どんな汚いことだってするから。
 人間じゃいられなくなったっていいから。
 もう私はゴミでいいから。
 どんなに穢れた存在になったっていいから。
 だから、だから……!
 

「お前が殺した」

 
 あのゴミ男の声が耳元で聞こえた気がした。クソが、まだ死んでいなかったのか。
 私はすぐに背後にいた男を今度こそ殺そうと、ほぼ反射的に包丁を取って男の首に突き立てた。
 そして……喉元に包丁が突き刺さった母がゆっくりと倒れていく光景が私の目に飛び込んできた。

「お前が殺した」

 また声が聞こえた。
 近くにあった角材を手に取って顔を潰さんばかりに殴り飛ばした。
 美しい顔をひしゃげさせた母が血を吐きながら倒れた。

「お前が殺した」
「お前が殺した」
「お前が殺した」

 その声が聞こえるたびに私は何度も何度も凶器を振るった。その中には斧やチェンソーや大鉈など、私の家にはなかったはずのものまであった。
 次は日本刀だ。私は背後の男の体を一刀両断した。
 今度こそ死ね、死ね。私が殺すのはお前だ、違う決してお前以外の人間を殺してはいない、違う、違う、違う!

 そうして、気づいた時には……部屋中に無数の母の死体が散乱していた。
 最早、足の踏み場などないだろう部屋の中心で私は力なくへたり込み「あっ、あ、あぁ……」とまるでオットセイのような低い声で唸り始め、次の瞬間には蹲りながら喉を張り裂けさせんばかりにと絶叫した。

「あ゛ぁ゛ーーーーッ!あ゛ぁ゛あ゛あ゛ああああーーーーーッ!」
 
 なんだろう、ここは。地獄だろうか。
 地獄がこんなところなんて聞いちゃいない。
 獄卒はどこにいるんだ。
 
「お前が殺した」

 私はその声を聞きビタリと叫ぶのを止めて顔を上げた。決して大きなものではなかったはずなのに、醜い絶叫を掻い潜り確かにその声は私の耳に届いた……それもそうだろう。私がこの人の声を聞き逃すはずがないのだから。
 少し時間が経って聞こえたその声は、愛してやまない母のもので……私への憎悪を溢れさせた呪詛だった。
 その声を皮切りに、のそりのそりと大勢の人が立ち上がる音が聞こえてくる。その正体は見るも無残な姿で死んでいたはずの母達で、自分が死んだ原因の凶器をそれぞれ手に取っては全員がそれを私に向けてきた。

「お前が殺した」
「お前が私を殺した」
「お前が四十万紗凪を殺した」

 そうして、母達が一斉にそれを振りかざす……私を殺すために。

 ああ、なんだ。
 地獄ってこんなに怖いところだったんだな。
 
 そんなことをぼんやりと考えながら、頭上から降り注がれる無数の殺意をただじっと待った。