
ファム・ファタルの産声
「という夢を見たんですよ」
「……」
両手を広げながら肩をすくめて静姫は柴にそう言ってのけた。戯けたような口調ではあるものの、そんなことでは先ほど打ち明けられた悪夢の惨さを相殺することはできない。
柴は何というか……どういう心境で静姫を見ればいいのか分からなくなっている。彼女の見続ける悪夢の内容が彼の想像を軽く越えてしまうほどに酷いものだったのだ。
これではトラウマを通り越して地獄絵図ではないか。思わず頭も抱えてしまうというものである。
というか……口から聞いただけの柴にさえも、その惨状を鮮明に想像させることのできる静姫の話術は何なのか。もうこれで食っていけるだろう。なんだ『獄卒』って。引き出しが子供のそれとは思えない……柴は十歳女児の本気を見た、と思った。
「ところで」
「はい」
柴は一つ確認せねばならぬ、と考え「ふー熱が入っちゃって喉が」と言いながら、悠長に緑茶のおかわりを注ぐ静姫に声をかけた。
「実際にあった出来事っていうんはどこまでや?」
「私が一回目に包丁を振り上げたところまでです」
ついでに、額が割れていたらしい男はその後どうなったのかを聞けば静姫は「額を針で縫合して止血しました」と答えた。病院に行く金なんてあるわけのない四十万家の最大限の措置がそれしかなかったのだろうが、なかなかの荒療治である。おそらく、その経験が彼女の悪夢の中で「母の腹を縫合する」というものに転じてしまったのだろう。
加えて、その男はどうやらその日の出来事を覚えてはいなかったようだが……それ以来、酒や薬の影響で暴れる事はあっても、彼女の母に手を上げることはめっきりなくなったらしい。それを男がはっきりと理解していたのかは定かではないが、人間の生存本能というべきかなんというか…… 四十万紗凪に手を出そうものなら、瞬時に得体の知れない何かが必ず報復しにくるということが無意識下で刷り込まれたのだろう。
そして、それは静姫も同じことで……男を殴った日以降、彼女は彼を恐れるどころか見下しはじめる。実際に静姫はいつだって男に手を下せる状況下にいたとはっきり自覚して生活するようになっていった。
あの家でのカーストが一番上だったのは男という事は変わらなかったが、それも表面上だけの話……薄い氷を踏み砕くようにそのバランスをいつだって壊せる静姫こそがあの家で最も強い権力を有していたと言っても過言ではなかったのだろう。
「刺してはないんやな?」
「ないですね」
「ほうか……」
「ほうですね」
ひとまず柴は安心した。静姫は先ほど「自分の信じる穢れたことはしたことがない」と言ったのだ。
その信じることの定義は人それぞれではあるものの、人殺しは確実に一線を越えたものだ。母を守るために角材で殴るのと、包丁で人を刺すのとではわけが違う。
もしも静姫がそれを越えてなお、己の手を綺麗だと言っているのなら、彼女は確実に心が壊れてしまっていると判断せざるを得ない。
しかし、ながらそれでも「ひとまず」だ。静姫が現在でも人を殺めることなく、生きてこれたのは己の自制心が働いたおかげか。それとも……。
「止めようと思って刺さなかったわけではないですよ。お母さんに無理やり止められたんです」
「……」
柴の考えを汲み取ったのか、次の問いを聞く前に静姫はそう答えた。
そう続けられた彼女の言葉に対して、柴は特に驚くこともなく「やはりそうか」という感想を脳に浮かべ、口元を抑えて唸る。
彼女は一度、己の殺意に対して実に正直に、実直に、素直に従い……人を殺めようとした。母に止められることがなければ静姫の手は今頃、彼女の見た悪夢どおりに血に濡れていたことだろう。
しかも、それは恨みのような、人を人でいられなくさせる激情から来るものではない。「殺していたほうが良いだろう」という人間の理性を有したまま、誰かの命を奪おうとしたのだ……正直なところ、ここが一番の問題とさえ思える。
確かに相手は生きている価値もないようなどうしようもない男かもしれない。もしも、その男が死にかけており、惨めにも命乞いをするような場面に居合わせた場合、善人であればその者を助けるかもしれないが、柴は何かしらの利がない限りは決して助けないだろう。正直そんな自分の心は汚れているとは思うが、別にそれでも構わない。
だが、静姫はどうだろうか……彼女は柴と違ってまだ世界を広く知らない。
少なくとも今までの静姫の世界は、彼女の暮らしてきた小さな町で完結していたはずだ。
だというのに、その小さな世界は静姫に対して十分過ぎるまでの人の善性と悪性の両方を同時に与え、喰らわせ…… 四十万静姫という存在の血肉と心を育んでしまった。
そして、善人である母に対して、悪人である父親であったはずの人間による殺人未遂が決め手だったのだろう……そこで静姫は柴のような悪人に対する見切りの早さを身に付けてしまった。
それは、まだ子供の未熟さを残したままの彼女では手に余るものだ。しかし、知ってしまったからにはもう捨てることはできない。
故に、静姫は己の心を「穢れている」と言ったのだ。その価値観を危険だと知りながら、もう自分だけではどうすることもできないということまで理解していたから。そう……『自分だけ』では無理なのだ。
「でも、私にはお母さんがいたから」
しかし、静姫の心が穢れていても自分ではどうしようも無くなっても……彼女がその身の清らかさをギリギリのところで保ち続けることができたのは、ひとえに母のおかげだと言えるだろう。
そんな状況になったとしても、その心の清廉さを失うことなく静姫に愛を注ぎ続けてきた母がいたから、彼女は地獄に身を堕とすことなく今もまだ生き続けることができたのだ。
「お母さんがね、凶器を振り上げた私に思いっきりしがみついてきたんです。「お願い、殺さないで」って……何かに怯えて、必死に懇願するように」
「へえ……」
「正直、めちゃくちゃ腹立たしかったです。あんな肉食動物に狩られる寸前の小動物みたいに震えちゃって。そんなにあの男を失うのが怖いのか、そんなに好きなのか……私と二人で街を出て生きていくことよりもあいつの命の方が大事なのかって、理解に苦しみました。一時期は「手を汚さないで」という言葉が最悪な呪いとさえ思っていました」
静姫はそこまで言った後に「でも、そうじゃなかった」と眉をさげて微笑み、自分の手を見つめ始める。
それはささくれ立ち、あかぎれだってよく目立っていて……それでも、尊く慈しむべき綺麗な手だった。
「夢の中で、私が獄卒に嬲られていると……暫くして、誰かが手を握ってくれるんです」
「!」
静姫は隠していた悪夢の続きを、唐突に語り始めた……まさか、彼女の地獄に続きがあったとは。
「母じゃないですよ、その夢の中の人は。いや、誰かもわからない……でも、どこか安心する。そう思わせるような誰かって感じです」
いいや、ひょっとすると「続き」という表現は間違っているのかもしれない。
「何もかもを穢してしまう汚くなった私の手を一切の躊躇もなく、そして優しく包むような。そんな手の体温の優しさが私の冷え切った手にじんわり伝わっていくと……私を切り刻む獄卒達は霧散していき、私は縁側から光差す畳の上に座り込んでいる。それに私は心底ホッとして嬉しくて泣いちゃうんです。そうして、目を覚ますと……」
それは地獄の続きではなく「終わり」なのだ。
そして、その温もりの正体とはきっと……。
「その隣には……私の手を握りながら眠っているチヒロくんがいるんです」
静姫は頬をぽりぽりと掻きながら「恥ずかしかったから枕なんて言っちゃたんですけどね」と申し訳なさそうに言った。
そこで柴は「ははぁ、どおりで……」と腑に落ちた。というのも、彼女が枕が変わると寝れない!っと駄々を捏ねた時に、チヒロがやや不服そうな顔をしていたのだ。そして、気づくか気づかないくらいにほんの少しだが……その後の静姫への対応が雑なもので、彼女の人質交渉をすぐさま断ってもいた。いや、それに関しては至極当然と言う他ないのだが……。
おそらく、枕に手柄を取られたことに少しいじけてしまったのだろう。静姫の安眠を守り続けていたのは他ならないチヒロだったのだから。
「……その時、私はすごく安心しちゃうんです。ああ、私の手が汚れていなくて良かったって。だって、本当に汚れていたら……これから美しい刀を作り上げる彼の手までも汚してしまうところだった」
静姫は目を閉じながら、自分の手の甲をそっと自身の額に添え「本当に、良かった……」と小さく呟いた。
それはまるで天に祈りを捧げるようにも、感謝しているようにも見えた。
「それでやっと分かったんです。お母さんが本当に怖かったのは、私の清らかさを失うことだった。お母さんはあの男から私を守っていたのではなく……他ならない私から私を守っていたんです」
静姫の母は自分の身が穢れていることをよく知っていた。だから、彼女に同じようになってほしくなかった。
静姫にとって大切で大好きな美しいものを、一切の躊躇いも曇りもなく触れることのできる綺麗な手を、彼女の母はここまで守り通してきたのだ。
「……でかした、としか言えへんわ」
「そうでしょうとも」
静姫は目に涙を浮かべながら、至極誇らしげに同調する。四十万紗凪という人間はまさに、彼女にとって天使のような存在だったのだ。
「……でも、もういない」
「ぬぅん……」
「ぬぅん、て」
しかし、それもここまでのこと。静姫の価値観のストッパーを担ってきた四十万紗凪は彼女の元から離れることになってしまった。
そう、事の重大さは静姫に冬をもたらしただけでは終わらなかったのだ。
まだ人を殺していないだけ。それでも、一度でも人を殺すということを選択肢に入れてしまった……毎晩、悪夢を見るほどにあの家に囚われたままの静姫から静姫を守るものがいなくなってしまったのだ。
「だから、私は六平家にいなきゃいけないんです」
静姫自身の穢れた心を捨てることができないのなら、その危険な価値観から彼女を守る者がいないのなら……心の奥深くにしまい込んでおくしかない。
一時的なものだっていい。その場しのぎだっていい。
そんな考えを思い起こさせないよう、忘れてしまえるように静姫が大好きな六平家の親子と共に過ごし…… 四十万紗凪の心のように美しく綺麗な刀に心を奪われ続けなければならない。
それからだって、遅くはないはずなのだ。彼女が自分の中の善悪の見切りの付け方と向き合うのは……その中に収められる程に大きな手のひらを持つ大人にへと成長するまで。
もちろん、それは簡単なことじゃない。静姫の以前の生家は悪夢となって、何度も何度も彼女に牙を剥くのだろう。時が経つごとに薄れていくかもしれないし、逆により色濃くなっていくのかもしれない。とても、とても恐ろしい地獄の煮湯を飲まされ続ける毎日になるかもしれない。
それでも……静姫は覚悟を決めることができた。
「私の毎日には、人生には……どうしてもチヒロくんが必要なんです。もう、私は彼じゃないと駄目なんです」
四十万紗凪のように静姫と共に耐え忍ぶ存在ではない……地獄から静姫を引き上げてくれる六平千鉱が現れてくれたのだから。
「だから、お願いです。私をチヒロくんから引き剥がさないでください。お願いです……私はチヒロくんがいないともう安心して眠ることができないんです……」
……静姫はそこで初めて心の底から懇願した。
母を売られた時でさえ、すぐに諦めてしまった彼女がテーブルにしっかり手をつけて柴に向かって深々と頭を下げたのだ。
きっと、それが……それだけは彼女にとって絶対譲りたくないことだったから。
「するってぇと、なんや……ずっと、チヒロくんにその役割を担わせる気ぃか?」
「……はい」
「感心出来ひんな、それは」
「……はい」
それは静姫の我儘であり、エゴであり、自分本位の生き様である。そして彼女がそれを貫き通すというならば、彼女の人生に必ずチヒロを巻き込むことになる。
静姫が「そんなつもりはない」と言ってくれるようなただの愚かな子供であればまだ良かった……だが、彼女はそんなタイプではないということは柴は十二分に理解している。
いや……正しくは『理解させられた』というべきか。
自分自身の価値観、男の本能の意識改革、母親の恐怖と真意……それら全てが正解だったとしても不正解だったとしても、ここまでつらつらと他人である柴に見解を述べてきた静姫……きっと、この話を誰かにしようと決めたのは今日ではないはずだ。
その根拠は六平家に柴がきた最初の静姫の行動だ。戦争経験者の柴さえも欺けるほどに極限にまで気配を消していた彼女は「悪戯」と称していたが……きっと本来の目的はそんなものではない。
六平家の事情を察し、自分が簡単に滞在できないということを理解した静姫が……六平家に訪問した柴が彼らの事情に詳しく、そして彼女自身の事情も理解してくれる人間かどうかを隠れながら見極めていたのだ。
そして、静姫は柴がそれに値する人間と瞬時に判断し、わざと彼の背後を取り耳元で言葉を囁いた……自分の気配を消す能力の高さを、柴に見せつけるために。
静姫がその昔、その能力を活用しながら暴力を持ってして、モンスターだった男を人間どころかゴミとなるまでに捩じ伏せた話を、すんなりと納得させるために。
実際に柴はその静姫の能力に強烈なまでの衝撃を覚え、子供である彼女を瞬時に組み敷いた。
それは静姫の能力の高さを認めてしまうことを意味する……あれは確かに、柴の本能から彼女を『脅威』と見做しての行動だった。
全てが、静姫の計算通りだったのだ。
『助かりました。柴さんがみたいな人が来てくれなかったら、これからどうしようかとも心配してたところだったんです』
静姫はただの愚かな子供では決してない。
この五日間ずっとずっと静姫は待っていたのだ。
柴のような「交渉」ができる相手を。
彼女が確かに六平家の滞在許可を得るため。つまり、チヒロの温かな手で安らぎを得る方法を正式に手に入れるために……そのためだけに。
「……前振りはここまでです」
純粋さを孕む愛を求めるが故に、ここまで計算高く狡猾になれるこの女を……このままチヒロの傍に居させていいわけがない、と柴はある種の危機感を覚える。
もちろん、彼女は彼を取って喰う気は毛頭ない。
ただ、一緒にいて安らぎを得たいだけなのだ。彼の手を握って眠りたいだけなのだ。
それでも、きっと六平千鉱の人生は四十万静姫という女に大きく狂わされてしまうに違いない。
いや、もしかすると……もうすでに彼は狂わされているのかもしれなかった。
「ねえ、柴さん……」
私は何をすれば、チヒロくんと一緒に生きていけますか?