切り札は地獄への片道切符


「きみが柴の言っていた……妖術を用いて六平家の結界を潜り抜けたという子だね」
「はいっ!四十万静姫、十歳です。私のセーリングポイントは御社……御家?である六平家に滞在できない場合に貴方の前髪をぶち抜いて生え際を五センチ後退させ胃袋に数多の風穴を開けるくらいの気概があることです。よろしくお願いします」
「随分なご挨拶だ」

 薊との話し合い当日、静姫は柴の自宅で薊と柴に向かい合うようにして席に座っていた。まるで圧迫面接のような絵面だが、何故か圧迫している側は彼女の方だ……なんて太々しいのだろう。もしも本当に面接だったならば不採用は免れない。
 ちなみに話し合いの場所について、静姫は「嫌だ嫌だ六平家で話すぅあぁああーーーッ!」っと駄々を捏ねてはいたが、そのギャン泣きが演技であることは柴には既にバレている。というか前日から猫被りを自ら明かしていたので今更である。
 何より今回の話し合いでは六平家の二人には聞かせられないことを再び話すのだから柴の自宅でなければいけない。演技はそんなブラックな話をするわけではない、と二人に思わせるためにやっているだけだ。

「とりあえず、昨日の話を一旦まとめるで?おおまかに」
「はい」

 柴は肘をつきながら向かい合った静姫を指差し、昨日の彼女との『交渉』について薊に説明し始めた。



「私を、殺してはくれませんか」
 
 柴が自分に手を下すのを目をただただ閉じ待つ静姫……彼はそんな彼女の方へ、ゆらりと手を伸ばした。

「あほぅっ!」
「あだぁっ!?」

 しかし、柴は静姫の首に手をかけることはせず、代わりにその小さな頭にビシッとチョップを落とす。
 地味になかなかの威力があるその一撃に、静姫は思わず頭を抑えて体を折り曲げてしまう。
 まるで頭部の一点だけにとんでもない重力がかかったかの如き勢い……彼女は痛みのあまりに涙を浮かべながら頭をさすり、恨めしげな表情で柴を睨み上げた。

「……なんのつもりですか、これ」
「強いて言うんやったら腹いせや」
「はい?どうせ死ぬ人間なら八つ当たりサンドバッグにしてから殺そうと?」
「んな訳あるかいな。八つ当たりやなくて普通に仕返しぃ」

 仕返し……その言葉は静姫に心当たりは存分にあった。
 人殺しを、しかも目の前の自分を殺せと頼むだなんてことは失礼だろう。絶対嫌に決まっているからだ。

 だが一つ言わせてもらうとするならば、静姫は別に元々は絶対に死ななければならないと思っていたわけではない。最初の自分への殺害を頼んだ時に柴は断るだろうと踏んではいたのだ……まあ、その時に彼が躊躇なく静姫の命を断ちにきていたら、大人しく受け入れる気ではあったが。
 そして、柴がそれを一度断った後に、それでも静姫を六平家に身を置かせる選択を彼が取らなかった場合……彼女は黙って柴の元から逃げ出すつもりだった。
 最初から何も言わずに逃げ出していれば逃走は簡単だったはずなのに、何故わざわざ柴にそのような頼みをしたのか……それは、静姫の覚悟が柴に伝わって欲しかったからだ。

 静姫が逃げ出した後、柴は口封じの為に彼女を殺しにくるだろう……「ああ、あの時の「殺せ」という要望はこのことを意味していたのだな」と捉えてくれるだろう、と静姫は考えた……考えた上で、殺されても文句は言えないような行動を取るつもりだったのだ。
 簡単に見つかる気はさらさらないが……もしも見つかった時、自分の受ける処遇についての覚悟は出来ている。彼女が逃げ出した動機である「綺麗なものを探す旅に出る」ということは知らせなくてもいいだろう。その内容自体は柴にとって然程重要ではない。
 ただ、捕まれば殺されるに違いない場所から逃げ出すほどの何かがあって、そのためにならば殺されることも受け入れるということが重要だと思っていたのだ。
 仄めかせる程度で十分だ、柴なら気づいてくれるだろう。それ故に静姫は最初から柴に自分の考えの全てを話そうとはしなかったのだ。

 だというのに。柴は卑劣な脅しを使って静姫から彼女の真剣な想いを洗いざらい吐かせた。
 あの脅しに屈服させられた時の屈辱。彼女は絶対に忘れることはできないだろう……許せないし許さない。いつか頭皮に脱毛ムース塗ったくってやる。

 ……まあ、そんな個人的な恨み言は置いておくとして。静姫の思い描くシナリオとは少しばかり乖離があるものの、柴は彼女が六平家に害を成すつもりはなくとも、その可能性が生じてしまう行動を取るつもりだということを知ってしまった。
 知ってしまったからには、柴は静姫を殺す義務がある。そして彼は六平家の損益になる存在は躊躇なく殺せる人間なのだろう……そう見込んでの提案だったのだ。
 しかし、柴は彼女を殺さなかった。それは、つまり……

「……職務放棄ってことですか?」
「そういうことになるな」
「えぇ……?」
「シズちゃんに引かれる筋合いないんやけど」

 ……そういうわけであって。

 えっどうしようコレ。こうなるとは思っていなかった。柴さん、私の姿見た時に割とちゃんと殺す気だったじゃん。それなのに、損害を与えかねない存在になることが確定する私のことは見逃すって。
 えっ何?逃げていいの?マジで?正直言って私には見つからない自信しかないけど。いいの?後悔しない?……うん、まあ。そういうことなら、うん。

「……それでは」
「しれっと持ち去ろうとすな。百六万八千三百七十二円を」
「あっ!?ちょっと!」

 静姫はそそくさと机の上に置かれたままになっている金の入ったレジ袋を手に取ろうとした……その寸前で柴はそれをひょいと持ち上げる。しかも、彼女の手に届かぬ高さにまで。
 これは静姫にとってなかなかに困った事態となった。金がなければ生きていけない……衣食住の何もかもを調達出来ないのだ。このままでは彼女は『紅茶が凍っちゃった!』とプリントされたシャツをずっと着たまま生活しなければならない。由々しき事態である。

「持ち去るって言い方何なんですか!?返してください!それは私の母が全てをかけて私に残した金です!私のものです!」
「はいはい落ち着き落ち着き」
「ぬぁっ!」

 静姫は即座に柴の身体にしがみついてよじ登ろうとしたが、簡単に襟首を掴まれて軽く引き剥がされてしまう。
 そして彼はそのまま彼女を運び椅子に座らせ、更には片手で静姫の腕を一纏めにし、レジ袋を持った方の手で足を押さえて彼女の動きを封じた。
 静姫は暴れるつもりだったのだが、そんなことは彼の想定内だったらしい。もう彼女に残された抵抗手段は柴に対して唸り声を上げることだけだった。がるるるるるッ!

「シャッーーーーー!!」
「おーん猫さん怖いなー」
「絶対思ってないぃッ!」

 割と力の限りの全力威嚇にだって全く表情を変えることのない柴。この状態の静姫は、最早何の脅威でもないのだろう。それもそのはず、静姫の真価が発揮されるのは誰からの接触もない状態であることが条件だ。
 つまり、今の威嚇しかできない静姫は柴に完全に底を曝け出しているということ。あの日、己と血の繋がった男に対して思っていたことと同じ状況下にいることを十分に分からせられている静姫は屈辱のあまりに思わず涙目になる。

「見損ないましたよ!こんな幼子から金を巻き上げるなんて!無職ですか生活難ですかいい歳して十分な貯蓄がないんですか!?」
「お、おい……多くの大人を敵に回す発言はやめんか。みんなみんな苦労して生きとんねん」
「私はその苦労している人間の最もたる存在ですが!?」
「そういやそやったな……」

 それなら、と静姫は現代日本の社会情勢の厳しさをふんだんに盛り込んだ暴言を柴に浴びせかける。
 小さな声で「べ、別に今はそこまで苦しいわけやないし……」と呟く、現在は定職についていない柴……そんな彼が気まずそうに目を逸らすのを見た静姫は少しだけ胸がスッとした。ちょっとだけ効いたっぽいなコレ。
 ささやかな反撃のつもりだったのだが、思ったより地味に柴が胸を痛めているのを見た静姫は途端に冷静になり「もしかして柴さんはその金に関することで何か話があるのではないか?」という考えに至る。どうにも人間というのは金が絡むと視野が狭くなってしまって仕方ないものだ。

 まあ、その話の内容が静姫が旅に出ることに関しての口止め料等というような気配を感じ取ったら即座に金的を喰らわせては、今度こそすかさず逃げようという警戒だけは怠らないようにはするが。彼女は結構対象の急所を狙うことに関して思いっきりが良すぎる節がある。精神的にも肉体的にも社会的にも。

「ちょっと聞きたいねんけど、何でシズちゃんは俺にこの金見せたん?」
「少なくとも柴さんに譲渡するためではないことだけは確かですが?」
「そらそうやけど、ほら……ちゃうやんか」
「……何が違うというんですか。今の状況、完全にカツアゲですけど」
「いや、もう分かってねやろ?シズちゃん、そゆとこ勘付ける子やん」
「……」

 それは確かに。
 柴の最初の問いとはっきりと話題にしたがらない歯切れの悪さから彼の疑問の核に、彼女はある程度「こういうことなのだろうな」とあたりをつけてしまっている。
 はぁ、とため息を吐いて柴の代わりに彼が何を言いたいのかを静姫は代弁した。

「何もこんなお金見せなくても……『四十万静姫のたった一人の家族、四十万紗凪は人身売買の被害者になった』とだけ言えばよかったのではないのか。そういうことですよね?」
「……」

 柴が無言のまま拘束を緩めたのを見て「どうやら正解っぽいな」と静姫は確信した……彼女が話の途中で逃げる事のないように金だけはしっかり静姫の手に届かぬようにしているところが、さすが抜け目のない。どうしても取り返せそうになかったならそのまま金は置いて逃げるが、どうせなら返していただきたいものだ。

 正直言って日本の治安は最悪だ。戦後から十年と経たない現在、戦争の爪痕は其処彼処に残ったまま。帯刀が黙認されている社会情勢の闇はどっぷり深い。金も権力も力もない子持ちの女一人売られるなんてこと、さして珍しくも何ともないのだ。
 むしろ対価が支払われている方が珍しいほど。大抵は人攫いに遭う、売り先は分からない……そんなところだ。
 しかも、母は静姫の身代わり。気の弱そうな母親が自分の全てを差し出してまでヤクザ者を出し抜いた、というのは少し信じがたい話だ。極貧家庭の親が食い扶持を少しでも減らすため、子供を売りに出し百万を受け取った……という方がまだ自然に聞こえる。そんな非道なことがあるか、母の名誉を汚すなどできない……という思いのもとで正直に話した、ということだろうかとも考えられるが。

 しかし、この五日間で誰にも見せていなかった百万ちょっとの金を出す必要性が分からない。正直に話はしても余計なものを出して、疑われるような懸念材料を増やすのは合理的ではないだろう。元々、逃げ出すつもりだったのなら尚のことだ。
 ……そんな気分の悪い話の一から十までを、わざわざ口に出すのはとてもじゃないが憚れるものだ。先程の歯切れの悪さはそういう事なのだろう。静姫は変な気を使うもんだ、と呆れたようにため息をついた。

「そりゃ決まってますよ。六平家に置いてもらえた際の生活費に充ててもらおうと思ったんです」
「……生活費、なぁ」

 柴はどこか腑に落ちない様子でそう繰り返した……そんな表情をされても困る。それは静姫にとって嘘偽りのないものだからだ。

「元々の話、母は私にそのお金を使って生活をしてほしいと思ったに違いありません。家のお金の管理は私と母がしていましたし、お互いの身に何か起こればその金を使うように、と二人で決めていました」
「男の方はどないやってん?」
「隠し場所は知らなかったでしょうね。いつもは私が気配消しながら、そして母は父がいない隙を狙って隠していました」

 もちろんそれだけではない。わざと男が自由に出来る金と残りの金を四対六で分けていた。男に全く金がない状態では家中ひっくり返されて隠し場所がバレてしまう可能性があったからだ。
 ちなみに静姫の持っていた百万ちょっとはちゃんとその二つの入金場所からそれぞれ集めたもの。きちんと四十万家の全財産を回収してきたのだ。
 そして、静姫は十歳でありながら家の金の管理の殆どを任されていた。おそらくは母親が出稼ぎに行く上で家を空けることが多かったため、必然的に常に家にいる彼女がその役を担ったのだろう。
 それは金だけに限らない。静姫は四十万家にある日用品の全てを把握していた。人が人らしく生活するにあたって必要なものが圧倒的に足りないことをはっきりと自覚しながら。おそらく、彼女がわずか五日間で六平家の日用品等を全て把握しきっていたのは、そういうことが最早が癖になっていたのが原因だろう。

「人は生きるだけでお金が必要です。そしてチヒロくんはともかく私は六平家の扶養に入れません。何故なら国重さんは私の親でもなければ後見人でもないから……私は同居人になりたい。だからお金を払うんです。認めていただけるのであれば柴さんを経由して、ね」

 柴としては、そんなことは「子供が考えるべきことではない」と素直に思った。大人は子供を守るべき義務がある……大人に守ってもらえるという当然の権利だ。
 家計の管理までもを任されていた静姫がそれを今まで享受できる環境でなかったのは十分に理解できるが……それでも、これからならば。もしも、六平家の滞在の許可を得られたならば。
 静姫は国重からその権利を手にすることができる。お金のことなど複雑な事情に思考を回す必要などないのだ。

「私はあの二人と対等の存在になりたいんです」
 
 しかし、それは彼女の望むことではなかった。
 保護ではいけない。六平家は養護施設ではないし、そんな状態では対等とは呼べない。
 静姫が国重の養子になればどうだろうか。それでもいけない。静姫はあの二人を家族と思うことはできない……彼女の家族は四十万紗凪、ただ一人だから。
 居候でもいけない。保護を受けるでもなく家族でもない存在の静姫が金も出さず、ただただ彼らの生活に割り込むことは彼女自身が許せることではなかった。
 濁流のように押し寄せる希死念慮に襲われていた静姫に、生への渇望を植え付けたあの二人……。
 静姫はそんな彼らと同じ目線で生きたいのだ。肩を並べてしっかり足をつけて立ち上がりたいのだ。自虐ばかりし続ける、生きている価値もないゴミようにしか思えない自分自身を、あの二人と同じくらいの素晴らしい人間にしてあげたいのだ。
 そうすればきっと、彼女は初めて苦しみから解き離れて『生きていて良かった』と心から思えるはず……静姫は強烈に『死にたい』と思うと同時に、同じ熱量で『生きたい』と願っているのだから。

「だから私は同居人としてお金を支払う能力を有することをこうして提示したんです。でも、柴さんが私に滞在を許してくれないのは素性の知れない小娘を六平家のもとに身をおかせることができないからなんですよね?」
「そうやね。何度も言うけども」
「でしょう?だから私も何度でも言います。私を同居人として六平家に滞在させてくれないのであれば……これから旅に出る私を見逃すか、殺してください」

 静姫はそう言って、柴に手のひらを差し出した。殺す気がないのであれば今すぐにその金を返せ、ということなのだろう。

「……」

 これが最後だ。これを最後の質問として終わらせよう。
 ……きっと静姫は彼女の胸の内を明かすのは柴でなくたってよかった。六平家の人間以外の、彼らの事情をよく知る冷静で冷酷な判断をできる存在であれば誰だって。
 しかし、柴がそんな静姫を見つけ出してしまった。それならば彼は彼女の胸の内を受け入れ……その生き方の答えを導き出す義務があるのだ。
 六平家と出会ってから、静姫はこの十年間で経験したすべての事柄と向き合い、自分の生き方をどうすべきか死に物狂いで見つめ続け、その上で……いくつかの選択肢を自ら捻り出した。
 何せ、散々質問をし続けては、彼女はそれに全て答えてきたのだ。ここまで真摯に数々の想いを曝け出したそんな静姫に対して、頭の堅い常識や無粋な規則を押し通すのは彼女に失礼というものだろう。

「……たとえば、俺がシズちゃんを六平家の同居人と認めたとして」
「!」

 ここにきて、柴はその可能性を口にした。静姫は驚きのあまりに目を見開く。淡い期待を抱くだけで終わるだろうと、絶対にそれはあり得ないのだろうと諦めていた、そのことを。

「これからずっと……あの二人とずっと生き続けるとして」

 彼女のこれからのことを。
 四十万静姫が六平家の一員になるということを……他ならぬ柴が提示した。

「この金では足りひんやろ」
「……」

 百万、たったの百万だ。人間がこの先の何十年を生きるためにはまるで足りない……そんなことくらい、最初から静姫は分かっている。

「この有り金を全部はたききったその後に、シズちゃんはどない方法で金を稼ぐつもりやってん?」
「……おそらくは、それがリミットなんでしょうね」

 そして、彼女が続けるその言葉を柴も分かっていた。
 そうでありながら、彼は敢えて問うた……謂わば、これは確認である。

「母が守り続けてくれた私のこの身体が綺麗でいられる期間は、その百六万八千三百七十二円を使いきった時に終わる……」

 静姫が内側から外側まで穢らわしい存在になる。
 その期限が決まっているということの。

「つまりシズちゃんは結界をコソッと抜け出しては、金を稼いでくるつもりやった……ということやな」
「……結界を抜けること自体は私には難しいことじゃないと思うので。二人が寝静まった深夜に出来る仕事とか、あるんじゃないでしょうか」
「限られとるで」
「だから、なんだというんです?」

 静姫は首を傾けながら、自虐的な薄い笑みを浮かべてそう続けた。

「私は売女の娘です」
「……」
「いくらでも、やりようはあるでしょう。百万なんてすぐに使い切る……十代前半の娼婦は一定層に需要があるんじゃないですか?」

 手だけは汚したくない……殺しや、強盗以外で伝手のない少女が金を稼ぐ方法などそれしかないのだろう。
 静姫は最初から覚悟していた……きっと、それは六平家に来るずっとずっと前から。
 どうなったって構わないから。
 金だって女の尊厳だって何だって差し出すから。
 自分はいくら穢れたっていいから、それでいいから。
 
「私は限りなく永遠に、綺麗なものの傍で息をしていたい。綺麗なものの傍でしか……息ができない」

 そして出来るのであれば、それは自分の母か……六平国重と六平千鉱でありますように、と。

「よう、分かった」
「……え?」

 柴は静姫の手にかさり、と金の入ったレジ袋を戻した。それは今この瞬間にでも、彼女に逃亡されてもおかしくない行為である。

「柴、さん……?」
「シズちゃん」
 
 それでも、静姫はその手にただ置かれた金を握ることが出来なかった。
 ずっと否定されていたその可能性を、彼に提示されてしまったから。
 ここで逃げたら、もう二度と叶わないであろうその願いを聞き入れてくれるかも知れないという……淡い期待があったから。

「キミには……」

 とっくに諦めていた、それを。

「六平家滞在の許可を下す」

 その言葉を聞いた瞬間。
 静姫の頬はぶわりと、まるで朝焼けのように紅く、ひたすらに紅く染まりきった。
 絶対に手に入らないと思っていた渇望していたものを与えられた……まるで、どうしようもないほどの力で思いっきり殴られたかのような衝撃。
 耳鳴りが止まなかった。意識がずっとずっと遠のいていくように目の前が眩んでいくようで……。

「その代わりに」
「ぁ、えっ……?」

 あわや、気を失ってしまうのではないかという、その一歩前。
 柴は静姫の肩を掴み、彼女の顔を上から覗き込んだ……まるで、夢から一気に現実へと引き戻すように。

「キミにはやってもらうことがある」

 その言葉に静姫は目を見開いた。
 そして、先ほどの感極まったものから一瞬にして緊張した面持ちに変わり、ごくりと音を鳴らして生唾を飲み込む。
 最初からそういう話だったはずだ……彼女が、持ちかけた話だったはずだ。

「シズちゃん、キミには……」

 ……静姫は一体何をすれば、六平家に置いてもらえるのかという『交渉』を。

「……人を、殺してもらう」