
楽に死なさん生き変われ
「……え?」
最初こそ、静姫は聞き間違いだと本気で思った。
しかし、先ほど柴が放った言葉を脳内で何度リプレイし、必死に繋ぎ合わせても……結局、同じ意味に集結していく。
彼は静姫に向かって「人を殺してもらう」と、確かにそう言ったのだ。
「……っな、何、を」
静姫は瞬間的に無理だ、と思った。それは勿論、条件の難易度を言っているのではない……実際に彼女が殺人を行うことは簡単なのだろう。
だが、静姫がどうしても六平家で過ごしたい、生きたい、呼吸をしたい……その代償に、彼女の母が全てを賭してでも守り抜いた柔い手のひらをドロドロで異臭のする汚い液体で穢してもらう。静姫に『人殺しをさせる』ということは、それを意味するのだ。
そして柴は彼女に選択させようとしている。六平家の滞在を諦めるか、手を汚すか……その二択を。
眉一つ動かすこともなく、スッと細めた目で静姫を見つめる柴。自分を静かに射殺すような視線に、彼女は彼が決して冗談を言っている訳じゃないと理解させられる。
「そんなっ!そんなことを、どうして!」
静姫は髪を振り乱しガシガシと頭を掻きむしる。理解ができない、理解したくないとジンジンと痛み出す脳がそう言っているようだった。
次第に呼吸が浅くなり、ハァッハァッ……!と肩を激しく上下させ息を荒くする彼女に柴は冷たい声を降らせる。
「何をしてでもあの二人と一緒におりたいんよな?シズちゃんは」
「……ッ!」
「ほいで、その無理を聞き入れてもらうために『交渉』をしたい……それで、何で自分にとって気持ちのええ条件出されると思うか?」
「そ、れは、でも……でもっ……!」
苦しそうにギリリと押し黙る静姫。柴はそんな彼女に対して片膝をつき、目線を合わせようと彼女の後頭部をわしりと掴み、ぐいぃっと無理やり前を向かせる。
「あとな?さっきまで俺に何の罪も犯してへんシズちゃんを殺せーって……人殺ししてほしいってな?そないにぬかしておきながら……いざ自分がそう言われると「やりたない」って駄々こなるんか?」
「っ……」
そこでやっと、静姫は気付いた。柴が今、先ほどまでの彼女と全く同じことを言っているということに。
「通らんやろ、それは」
全くもってその通りである。静姫は柴の言葉にぐうの音もでなかった。
彼女は彼女なりに考えた上で、柴に自分を殺してほしいとは言っていた。しかし、それは勝手に自分が死ぬ覚悟だけ決めて、あとは投げやりに柴に全て任せるだけのもの……実際に自分が逆の立場になるとは一切考えもしなかった。
柴はそんな静姫の無責任さを指摘するために、敢えてそう言ったのだ。静姫は自然にカタカタと体が震え出すのが分かった。
「シズちゃん」
静姫は瞳をふるふると揺らしながらそれ以上言わないでくれ、と無言のまま懇願している。そんな彼女のことなど知ったことではないと言うように、ゆっくりと上下する柴の喉を見ながら、もう腹を括るしかないのだろうかと静姫は不安に押しつぶされそうになる。
自身の手を重油のようにドス黒い血で染めなくてはならないのだろうか。そうでもしないと、自分は欲しいものを手にすることはできないのだろうか。結局自分が綺麗なものを望むのは烏滸がましいことだったのだろうか。
じゃあ、じゃあ。私は汚くなってしまう両手で……この先どうやってチヒロくんの手を握ったらいいのだろう……?
そう考えた先から、静姫は目の前の景色がどんどん黒ずんでいくような錯覚を覚える。そんな彼女に柴はこう続けた。
「せやから、柴さんもシズちゃんを殺しまへん」
「……ん?」
…………ん?
「どしたん、シズちゃん」
「どっ……えっ、ど、どしたんでしょう……?」
「何や困惑しとんな。話聞こか?」
「……よく分かんないですけど多分、それはこっちの台詞のような気がしぇ……します。はさ、はな、話をお聞かせ願いたいのですが。詳しく、是非とも」
噛み噛みになりながら話す静姫の狼狽ぶりに柴はそれはそれは愉快そうにカラカラと笑っている。突然のシリアスブレイク……おい、待て。本日三度目だぞ、いい加減にしろ、この流れ変わったなのやつ。
*
「とりあえずぅ、カマかけてみましたはぁ〜〜〜んぁあんっ!」
「張り倒していいですか?」
再び向かい合って座り直し、どういうことなのかと聞けば柴は開口一番こう宣いやがってきたのだ。
無駄にビブラート効かせやがってクソが。その喉切り裂くぞ。
「ふざけていい時と悪い時の違いくらいは分かりますね?」
「いんや実はお話ふざけてないねん」
「内容ではなく口調に対しての抗議ですが」
「ふざけていい時かなって」
「奥歯折っていいですか?」
「なんや悪い時だったようで」
腹立つ、シンプルに腹立つ。静姫には割となかなかの殺意が芽生えていた。彼女は今ならさっきの話に乗れちゃう可能性さえある。
いや、しかし待て。カマをかけたとは具体的にどういうことなのだろうか……何かに引っかかった覚えはないが、この目の前の狐男の様子を見るにまんまと引っかかってしまったのだけは分かる。それを聞いてからこの男の処遇を考えてみても遅くはないだろう、殺意をしまえしまえ、渾身の力で……と静姫は持ち前の精神力であげそうになった手を必死にその場に留めておく。
「シズちゃん、キミには言わなあかんことが沢山ある。とりあえず、まず一つが……」
「謝罪の言葉ですか?」
「……すんませんでした。それから別にもう一つある」
柴はテーブルに両手をつきながら深々と頭を下げる。その様子に静姫はふんっと鼻を鳴らしつつも彼を許すことにした。
何せ柴は静姫の道理に反した駄々捏ねの末に、彼女に六平家滞在のチャンスを与えてくれるのだ。不服ながらも普通に恩義がある。幼気な少女の心を何度か甚振られたが、それは今ここで水に流すべきなのであろう。
「これだけは先に言っとくけどな、シズちゃん」
「……」
先ほどとは打って変わり、柴の表情は神妙なものへと変わった。静姫はそれに釣られるように顔を強張らせる。
きっとここから先は一言一句、聞き逃してはならない話なのだろうと察したからだ。そして、そこから続いた柴の言葉は……
「キミは絶対あの二人と対等になれへん」
「なっ」
……と、いう彼女の理想の実現を否定するもの。
静姫はこの五日間そのことに関して熟考に熟考を重ねて答えを出したのだ。
それを簡単に否定されたことで、カッと彼女の頭に血が上る。どういうことだ!というようにダンッと机を叩き静姫は身を乗り出した。
しかし、柴はそんな彼女を制するように手を伸ばして「このままやとな」と言う……話は最後まで聞け、ということなのだろう。
静姫も眼前まで迫った彼の手のひらを見てハッと我に返った。冷静さを欠いたことにバツが悪くなったのだろう……気まずそうな顔をしてゆっくり腰を下ろす。
「あんなシズちゃん。キミは決して頭悪いわけやない。せやけど、色々考えすぎて簡単な答えを複雑にしてしまう気があるようや」
「……捻くれた考えしかできない人間に育ちましたからね」
「ああ、出たわ。それやそれ」
「……?」
柴は片手で額を抑え、そしてもう片手はひらひらと振りながら呆れたようにそう言った。
眉間に皺を寄せて苦々しい表情の彼が放った「それ」の意味することが何か分からず、静姫は自然と小首を傾げる。
「シズちゃん。キミにはまず……そのねじねじになった思考を真っ直ぐになるよう叩き直す必要がある」
「はぁ?」
柴の言った「叩き直す」の言葉に静姫は不愉快そうに眉を顰める。それはつまり、自分の卑屈な性格を素直で可愛げのあるものに矯正するということだろうか。
馬鹿にしやがって。それが出来たら苦労はしない……いや、むしろ苦労したからこうなったと言うべきか。
「この性格は私の個性なんですけど、それを否定するってことですか?ああーそっか、大人って大人の考える理想の子供らしさの枠に子供を嵌め込むのがお好きなのか。パズルのピースがピッタリハマるのはさぞ快感でしょうね」
「お前の性格の話してへんねん、ガキ」
「……はっ?」
つらつらと嫌味ったらしく述べた静姫の言葉を、柴はズバッと一蹴した……今までと違い、冷たく雑な物言いに静姫は不意をつかれて目を丸くする。
そして彼は「ええか」と言いながら机を軽く叩く。拳から発されたゴン、という音は決して大きなものではなかったが有無を言わせぬ何かがあった。
「まず前提としてはっきりと言わせてもらう。俺はお前がどんな目に遭おうがどうでもええ。かわいそなお辛い過去にも母親の清廉な御心にも全く興味がない。お前みたいな卑屈なガキより六平の二人の方が断然大事や、比べようもないほどにな」
「……っ」
先程まで静姫に気を遣って話をしていた様子とは一変し、冷たい言葉を次々と投げかける柴……その容赦のない本音の数々に彼女は息を飲む。
「それやのに、だらだらべらべらくっちゃべるお前の話を聞いて譲歩してやってんのは四十万静姫があの二人にとって大切な存在になってるからや。俺はお前がどうなってもええし知らんとこで死んだって構わん。だけんど、それやとあの二人が悲しい思いするから目をかけよ思うてるだけや。自惚れんな」
「……」
その言葉は正直、静姫にとって苦しいものだった。心のどこかで、嫌味な言い方をしても許してくれるだろうと、柴に甘えていなかったと言えば嘘になる。
しかし、ショックを受けていると同時に頭の隅でどこか冷えた考えもあった。これはむしろ有難いことなのだ、と。
柴はたった今、静姫に対して本当の意味で腹を割って話をしている。
それは静姫が柴と初めて相対した時に一目で見抜いていた彼だった。尊ぶべきものには優しく、それ以外には相応に厳しく容赦もしない……『そんなに良い人じゃない柴』と、ここでやっとの初めましてである。
「幸福は希死念慮には勝てん。それで構わん。けど、んなもんは関係もなければさして重要でもない。お前が幸福だろうと不幸だろうその希死念慮は押し潰せ、埋め殺せ、捻じ伏せろ。どんなに苦しかろうと、辛かろうと、終わりたかろうと、お前だけは絶対楽に死なせてやらん」
そして静姫は確信した。これが本当の『交渉』なのだと……これから提示される全てに対し、彼女に拒否権はなかった。
「お前はお前のためではなく、あの二人のために生きろ。あの二人が大切に思うお前を……他ならぬお前が卑下することも決して許さん」
「……あの、二人の、ために」
自分のためではなく、あの二人のために生きる……それは自分を卑下してばかりの静姫では考えもしないことだった。己が誰が為に生きたとて、はたして相手に何の旨みがあるのだろう、と。自分が限りなく無価値な存在と思って生きていたからだ。
しかし、それは自分を思ってくれる六平国重と六平千鉱……そして己の母を侮辱することに等しい愚考だと静姫は初めて気付いたのだ。
「ええな?」
柴が、それを静姫に教えてくれたのだ。彼女の身勝手さを何度でも、何度でも……叩き直すように。
「……はい。私は……私は、生きます」
静姫のその声は震えてはいたが……柴の目を見つめるその視線は真っ直ぐ、そして力強い決意の色をしていた。そんな静姫を見て柴は「よし」としっかり頷く。
「次や、シズちゃん」
「あっ戻った」
「遮んな」
柴は話を続けた。若干の雑さは残るものの、声の柔らかさと呼び名は戻っている。柴はそんなに良い人ではないが、決して悪人などではないのだというのがこういうところで分かってしまう。静姫はシンプルに信頼のおける人間だ、と感じた。
「こんままやと、キミはあの二人と対等の存在になれん、と言ったのは覚えてるな?」
「はい。お金じゃだめってことですよね。あの二人が私の衣食住を保証してくれたとして、幼子であり養護されるべき立場である四十万静姫がそれの対価として金銭の支払いを選択することは適切ではない。故に別のものを差し出せということですね」
「理解と話が速すぎる」
静姫はキリリッとした表情で柴に淀むことなくテキパキはっきり順序よく話す。交渉モードへの切り替えが凄まじい。やっぱ絶対に十歳じゃねーだろサバ読んでるだろ。
「じゃ、どうすれば対等になれるか。シズちゃん、あの二人が自分の中でどんな存在か言ってみい」
「まるで一切の濁りのない清流の小川。はたまた冬の空に輝く満天の星空。そして人々に安らぎを与えるかのように優しく揺らめく命の炎。それから、」
「もっと簡潔に」
「美しすぎ尊い」
「対して自分は」
「……う、えと」
「わーったわ、今は卑下して構わん」
「可燃ゴミです」
「そんな自分をあの二人と対等の存在にするには」
「己を下げる言動は慎み価値を高めることに励む」
「満点や」
柴と静姫は真顔のまま両腕でガッツポーズを取る。それはかの有名なコロンビアだった。無駄すぎるシンクロ。
「正直育ちの関係上、売春に関してきっぱり絶対に否定することは出来ないのが心苦しいけれど……あの二人が私にとってプライスレスなら私もプライスレスになるべき。故に女であるということに値札をつけ自分を切り売りするかのような娼婦は絶対に避ける」
「そんなシズちゃんにぴったりの職業をご紹介致しますッ!」
「助かる僕らのハローワークッ!」
静姫が前向きになり始めたことで、会話のテンポがどんどん加速していき、その勢いのまま二人はガタリッ!と立ち上がる。どうやら彼らは気付かないうちに謎のテンションになっているようだ。
さっきまで「殺してください」だの「自惚れんな」だの散々言い合っていたくせに、そこには妙な仲の良さがあった……もしかしたら本質的には馬が合う二人なのかもしれない。
「して、その職業とはッ!?」
「ずばり……!」
「ずばずばっ!」
「妖・術・師!」
「何それ知らん」
「あんれっ!?」
「あと私達、少々落ち着いた方が良いかと」
「実は俺も薄々そう思っててんあんがとな」
二人は同時に「シッダン、シッダン……」と言いながらゆっくり椅子に腰をかける。他はこの際いいとして、「ずばずばっ!」って何だよ「ずばずばっ!」て。
そんな彼らのやり取りが数時間後、チヒロに「漫才か」という印象を与えることは……まだ、誰も知らない。