猫をかぶるには未熟なり


「シズ」
「んー?」

 静姫が六平家に来てから五日が経った昼下がりのこと。彼女はチヒロと共にダイニングで緑茶を飲んでいた。
 今の静姫の身を包んでいるのは五日前に着ていたボロボロのものではなくチヒロのお下がりだ……敢えて詳らかに説明するならば、絶対に彼が袖を通さないと決めた服が数着あったのでそれを彼女に譲ったというのが正しいだろうか。
 ちなみに、静姫が着ているシャツには「紅茶が凍っちゃった」という文字がデカデカとプリントされている。他にも「チョークを超食う」だの「プリンがたっぷりん」だの駄洒落ワードがプリントされているシャツが数着……おそらくセット商品だったのだろう。どうしてチヒロがこの服を着ないのか、そしてこの絶望的にセンスのないシャツを、一体誰が買ってきたのかというのはお察しの通りだ。

「敢えて聞くけど、家に帰る気はないの?」
 
 チヒロは何食わぬ顔で、この五日間を六平家で過ごしている静姫にわざわざ『敢えて』という言葉を付け加えてそう問いかけた。
 服装のセンスだけに目を瞑れば、彼女の今と最初に現れた時の風貌とでは雲泥の差がある。それに、静姫は従順かつ素直な性格のようだ。チヒロからある程度の常識を教われば二度と初日のような愚行を働くことはなかったし、それだけでなく家事の手伝いまでしてくれる。特に風呂の準備と裁縫はお手のもの。風呂の方はいたくお湯が気にいってしまったようでチヒロに熱心に準備の仕方を聞いていたし、裁縫の方は単純にもとからセンスがあったようで、すぐに覚えてしまった。国重の穴が空いた靴下の修繕は地味に面倒なのでチヒロとしても結構助かっていたりする。
 五日間……そう、たったの五日間である。この短い期間で自然に愛称で呼ばれていたり、チヒロのお下がりのシャツを着ていたり、家事までもせっせとこなしていたりと完全に六平家の日常に溶け込んでいる静姫。まるで、ずっと前から共に暮らしているような溶け込み方だ。
 そしてこの家に住む自分以外の二人がその話題に全く触れないため、チヒロは「俺が言わなきゃ永遠に話題に挙がらないな、これは」と確信し、静姫にその事について改めて言及したのだ。

「あるよ」
「いや……全くそうには見えないけど」
 
 だというのに、彼の問いに静姫は頬杖をつきながら平然と言ってのけた。残念ながら、この五日間の彼女を見ているチヒロとして全く説得力がないとしか思えない。何せこの目の前の少女は我が家の冷蔵庫の中身まで知り尽くしているし、野菜ジュースのストックが切れかけていることを国重に伝えたのだって静姫だ。うん、全く、微塵も、どこからどう見ても説得力がない。
 
「だって、五日前にこの家を我が家にするって決めちゃったし」
「そんな澄みきった真っ直ぐな目でなんて横暴な」

 そういうことかよ。

「家事とか割と助かっていることを全部棚に上げて言わせてもらうけど、そんなこと勝手に決められても困る」
「国重さんは『モーマンタイ!』って言ってたもん」
「父さん……」
「両手でツノ生やして牛のジェスチャーしながら」
「やりそう……」

 静姫は「こうだよこう。モォ〜〜〜マンッタイ!」と当時の国重の様子をチヒロに教えてくるが、そんなことしなくても当時の光景が凄く目に浮かんで見えるので、いやでも分かってしまう。己の父が素性の知れぬ少女を我が家に置くことを、二つ返事で了承したということが。
 要するに、彼女には前の家に帰る気は一切ない、ということらしい……しかも、この様子だと永住する気でいる可能性が高い。
 チヒロは深く、深ーくため息を吐きながら額を押さえた。

「大丈夫?頭でも痛い?」
「おかげさまでね……」
「えっ本当に?きついよね、待ってて。頭痛薬ならまだストックが」
「いらないいらない。何でもかんでも把握しすぎ」

 心配そうな顔でがさごそと薬棚を漁る素直な静姫は、チヒロの体調不良の原因を何一つ理解していないようだ。
 ああ、やめてくれ……「本当に大丈夫?」なんて聞きながら不安そうに眉を八の字にしないでくれ。軽い嫌味を言ってしまったこちらの心の方が痛みだすから。
 とにかく大丈夫だから気にしないでくれ、ということを伝えてチヒロは緑茶を飲み干した。

「……」

 チヒロは自分の手に持っている空の湯呑みを見つめながら……聞くべきか、それとも触れないままにすべきか迷っている『とあること』を頭の中で反芻していた。 

「シズ、あのさ」
「……?」

 チヒロが神妙そうな顔で口を開けば、その雰囲気を感じ取った静姫は不安そうな顔で彼を見つめ返した。チヒロはばつが悪そうに、口を開いたり閉じたりを数回繰り返したが……。

「いや、やっぱり何でもない」
「……そう、なの?なんかあった?」
「何もないよ。大丈夫」
「うん……?」

 何もなくはないだろう、そんなチヒロに小首を傾げながら不思議そうに見つめている静姫の視線には気づかないふりをするチヒロ。彼は「これは子供の自分が聞くことじゃない」とその喉に張り付いていた『とあること』を無理やり飲み込んだのだ。
 聞いてはいけない……静姫の親について、なんて。初対面時の彼女の様子からして、少なくとも彼女を健やかに育てていける能力は持ち合わせていない人物だったはずだ。静姫の心の傷に無遠慮に触れてまで、それを聞き出す必要はないだろう。
 それと同時に、チヒロは分かっている。身寄りのなさそうな静姫とこのまま一緒に過ごしていくことは出来ない、ということを。
 静姫は少しずれているところがあるにしても、意外としっかりしているしこの家で生活すること自体は出来るだろう。しかし、彼女は六平家と全く関係のない他人なのだ。静姫の今までの生活がどのようなものだったのかは分からないが、決して良いものではなかったのは分かる。けれど、ここは児童養護施設ではない……心苦しいが、ここは彼女がいるべき場所ではないのだ。
 それは分かっているのだが……チヒロの感情としては静姫にはこの家にいてほしい、という気持ちがある。それは別に彼女がいると家事が楽だからだとか、そんな利害的なことが理由ではない。どうしたものか、と悩んでしまうがその問題は自分で解決できるようなことでもない……その事実に歯痒さを覚えてしまう。
 そのことで特にネックなのは柴という国重の友人だろう。六平家にいるべきではない静姫の存在が彼にバレてしまった場合、彼女は六平家から強制退去させられてしまう可能性が高い。
 とりあえず、柴が六平家を訪ねに来る際には静姫を隠しておけば当面は大丈夫そうだが、なにぶん彼は勘が鋭い。何とかならないか、国重と話し合って見てもいいかもしれない。悪足掻き、なんてことは分かっているが何もしないで彼女がこの六平家から去るようなことがあればチヒロは夢見が悪くて仕方ない日々を送る事にな……
 
「おーい、チヒロー。柴が来たぞー」
「柴が来たで〜」
 
 Oh,shit……もしも柴に脳内を覗き見る能力があれば「欧米か!」と突っ込まれそうな思考がチヒロの脳内をよぎった。チヒロは思わず天を仰いだ。いくら何でもフラグ回収が早すぎる。

「シズ……!ちょっ、と……?」
 
 いや、狼狽えている暇はない。静姫にはひとまず何処かに身を隠しておいてもらわなければ、と視線を彼女の方に戻すと……不思議なことにそこには誰もいなかった。たった二秒前くらいには静姫はのほほんと緑茶を飲んでいたはずで、席を立つような音も廊下を歩くような音もなかったというのに。
 チヒロは頭から「はてな?」を飛ばせまくるしか出来なかったのだが、とりあえず彼女が身を隠していてくれるのならばこちらとしても都合が良い。きっと知らない人が来たから警戒して奥の部屋に隠れたのだろう。ありがたいことだ。
 しかし、目下の問題は……。

「聞いてくれよ柴ぁ〜。最近な?可愛い子がうちに来たんだよ。チヒロにもよく懐いていてなぁ」
「なんや、猫でも来たん?」
「まぁそんな感じだなぁ」
「へぇ〜。おっチヒロくんやん!こんちわ!」
「……こんにちは、柴さん」

 静姫が六平家にいるという事態に対して国重が呑気すぎるということだった。
 よりにもよって家長である彼が真っ先に静姫の存在をバラしている……今は猫だと勘違いしているようだが、チヒロはもう既に彼女を隠しきることが無理ゲーとしか思えなくなってきた。
 とりあえず、今の柴は客人だ。チヒロは平静を保ちつつ「お茶淹れますね」と国重と柴の分の湯呑みを取り出し、急須に残っていた緑茶を注ぐ。

「どうぞ」
「あんがと。チヒロくん、新入りが来たんやろ?どう可愛い?」
「まあ、少し手がかかりますけど。それなりに」
「名前とかなんていうん?」
「シズって呼んでます」
「へぇ、シズちゃんかぁ。ええ名前やね」

 食卓に座る二人にお茶を差し出しながら柴と軽く話している間にも、チヒロの頭では思考がフル回転していた。
 しめた……まだ柴には静姫が猫だと思われているらしい。ひとまず先に「そのシズはな、頭撫でてやるとすごく嬉しそうにするんだよ」「ええ〜めっちゃ可愛いやん。ええなぁ俺も撫でたいわぁ」と話を続ける国重を柴から引き離そう。

「そのシズちゃんってどこにおるん?」
「柴さんを警戒してどこかに行っちゃったみたいです。ちょっと探してきますね。父さんも手伝っ……」

 よし、静姫を探すフリをして国重を連れ出し、その隙に柴にの彼女の存在を柴に隠して置きたいということを伝えておこう。柴には悪いが『猫のシズ』は見つかりませんでした、という嘘でもついてこの件についての話は終わりにしてしまえば……と、いうことまでチヒロが考えたその瞬間。

「にゃあ」

 詰みが来た。
 よりにもよってその静姫が、座っている柴の後ろに音もなく現れ、耳元でそう囁いたのだ……おい、じゃあ何で隠れてたんだ。
 それからの柴の行動は早かった。急に自分の背後に現れた、明らかに猫ではない少女の存在を感じ取った彼はサッと表情を失くしたかと思えば、静姫の襟首を掴んでは流れるように床に引き倒す。
 いきなり前から床に伏せる事になった静姫は「うべっ!?」と驚いた声を出していたが、柴はそれにも構わず彼女の腕を後ろに回させて固定させるように馬乗りになった。「おい、何してんだ柴!」という国重の慌てる声に応えることなく、柴はそのまま口を開く。

「誰やきみ」
「ちょっと悪戯のつもりで驚かそうとしたら想定外の危機が自分の身に降りかかる事態になってしまったということだけ理解している四十万静姫、十歳です!」
「おもてたより冷静やなきみ」

 抵抗することなく床と一体化するようにべったりと倒れ込んだまま、謎の自己紹介を叫ぶ静姫は中々にシュールな光景であった。一瞬にしてシリアスな空気が萎えたのをチヒロは確かに感じ取る。
 
「チヒロくん!今これ私どうなってるチヒロくん!?私の腕取れてたりしないよねチヒロくん!」
「えと……大の男に押さえ付けられて上に乗っかられてる」
「イキャァアアアいやぁああああああロリコンに犯されるぅうーーーっ!!」
「何ちゅう恐ろしいこと言うんやっ!?」

 変なところで冷静な静姫はこの場で一番的確に現状を説明してくれるであろうチヒロに彼女の言う『想定外の危機』を聞き出したが……静姫はどういう捉え方をしたのか、大人である柴にとっては実に効果的な叫びを放つ。それは主に彼の社会的地位に大打撃を与えかねない魔法の呪文であった。
 まさか十歳の少女にそんなことを言われるとは思っていなかった柴はザァッと青ざめ思わず静姫の拘束を緩める。それを好機とみなした彼女は柴の股下から亜音速で抜け出しチヒロに突進した。

「はい動かないでください!私は今チヒロくんを人質にとりました!チヒロくんの命が惜しければここは大人しく引き下がってください!」
「は?」
「何やと!?」
「チッチヒロォー!」
「いや、なんで人質?」
「大人というのは子供が人質に取られたら大抵言うことは全部聞いてくれるから!」
「卑怯やぞきみ!シズちゃんやったか!?大人しくチヒロくんを解放せえ!」
「アアア近づかないでください変態!」

 どうやら、五日前のようなチヒロが二度目が来ないことを願った謎の小競り合いの再来らしい。チヒロを挟んで柴と静姫の両者、一歩も引かぬ睨み合いが始まった。
 ジリジリしてる、めっちゃジリジリしてる……何故か国重もカバディのポーズをとっている。
 家長があの調子ではこのカオスな膠着状態は解けないのだろう……やはりここは俺が取り成すしかないのか、とチヒロはため息を吐いた。

「……とりあえず、一旦みんな落ち着いて話し合わない?」