百代の過客

2


 徹夜明けで朝日が凄く目に刺さったのを覚えている。実際朝というよりは昼に近かった。その上、ジンから異様ともいえる量の着信があって「うわ……」と内心思いつつ、ジンにかけ直そうとした時のことだ。

 基本的にかけてはいけない番号から電話がかかってきたのは。

 かけた瞬間から端末上で録音が始まり、ジンにその内容が送られる。ハッキング能力に秀でた自分はその端末上の設定を弄ればそれを無効にも出来るが、謀反と捉えられてはいけないとのことでそれをすることはなかった。

 いつも月末に行う安否確認の電話ではない。
 緊急を有するかのような電話に出るか迷ったのは数瞬で、次の瞬間には躊躇いなく通話に出ていた。

「──もしもし」
『……あのね』

 名乗りすら始まらず、泣き声のような揺らぎを伴った声音だった。
 思わず寝台の上から立ち上がり、私室に向かう。乱暴に椅子に座りながら電話ハンズフリーに切り替えて、私室にあるパソコンを起動させた。

「なに」

 緊迫感のある声に急かされたと思ったのか、その声が途端に泣き声に変わる。
 酷い焦燥感が自分の胸を掻き回し、脳を縮みあがらせた。側頭部がギリギリと痛み始める。ストレスを溜め込み始めた兆候だった。焦りが喉を干上がらせる。頭が唸りを上げる。
 何をしたらいい。どうすればこの人を助けられる。頭がその最適解を叩きだすために動き出す。寝起きだとか関係なかった。電話越しの、この人が、こんなにも。
 何故泣いているの。どうして泣きそうなの。
 貴方が傷つくだけで自分も辛い。私の大事な。

『お、お姉ちゃんね、人を轢いてしまったの』
「────は?」



 ブロンクスの実姉である宮野明美からの電話。
 衝撃の事実に姉と同じように気が動転したブロンクスは、一度慌てたままパソコンをまた再起動させてしまうというへまを犯したものの、その再起動の時間に頭も中身も再起動させた。
 とりあえずその被害者の生死確認から始まり、彼が病院を拒んでいるとの話を聞いたが、とりあえず色々説明し組織の管理下にある特殊な病院まで送れと連絡してひとまず切った。
 そのまま彼女はジンに電話を切り替える。数コールで出た不機嫌そうな声に、安堵する日が来るとは思わなかったものの、ジンが出たことで現実に引き戻されたような感覚を受ける。

『────おい、おせぇ。寝るのも、』
「姉さんが人を轢いたらしいの。証拠を消すから手伝って」
『────は?』

 姉に衝撃的なことを言われた自分を思い出すようなその声音に、安堵を覚える。
 こんな凶悪な声に、安心するとは。

『詳しく話せ』
「面倒だから録音データを聞いて欲しい」
『そっちは後で聞く。いいからてめぇが要約しろ』

 確かにまとまりのない電話を聞くよりそっちの方が良いかと思い直し、自分の頭の中身を整理するついでにジンに説明する。
 姉が人を轢いたこと。
 何故か、その男が病院を拒否したこと。
 何故か、目撃者も防犯カメラにも姉が人を轢いたところが映っていないこと。
 何故か、人物で名前を検索しても出てこないこと。

「とりあえずこれから何度か姉さんと連絡を取るからその許可を貰いたいのと、調べて欲しいことがあるの」
『今言った疑問点か』

 シュ、と何かを擦るような音が聞こえジンの深い息が聞こえた。
 確かに煙草も吸いたくなるような状況である。自分が喫煙者だったら吸っていただろう。

 ハンズフリーにしたスマートフォンをポケットに突っ込んで、家にあるコーヒーメーカーでコーヒーを作る傍ら、脇に置いたタブレットを操作する。出来上がったコーヒーは仕事部屋のとは違ってきっちりと苦い。眠気覚ましには丁度良くいつも飲んでいたが、そんなコーヒーが必要ないほどインパクトのある眠気覚ましを今日は食らってしまった。
 ただ苦いだけのコーヒーを啜りながら、スマホをポケットから取り出してタブレットの横に置いた。

「そう。調べてみたんだけど、防犯カメラは死角。昼で明るいはずなのに目撃者もいない。凄い不自然な状況じゃない?」

 運が良かった。その一言で済む話を疑ってしまうのは職業病か。
 だが自分よりも用心深い男は、完璧に意を汲んできた。

『……そいつの名前は』
「諸星大。調べてみたら、全然人物が出てこないの。ここまで出てこないのもおかしい話だから、多分あなたたちの領分」
『……NOCか産業スパイか?』
「わからない。でもここまで調べて出ないならもっと深く調べる必要があるか、本当にないかのどっちかだと思う」
『今お前、いつものセーフハウスだな?』

 ジンが電話越しでもわかる程に鋭く問うた。それに頷く。

「うん。出てもない」
『わかった。迎えに行ってやる。着替えて待ってろ』

 そういって、ぷつりと切れた電話。その通話終了画面をじっと見る。それはすぐさま移り変わり、自分の当たり障りのない、人からは個性がないと言われるシンプルなホーム画面へと戻った。



「誰だか知らないけど、姉さんに手を出したらただじゃおかないから」

 ぼそりと呟いた独り言を聞く人間は誰もいない。
 チュンチュンと鳴く鳥の声を聴きながら、騒々しい日の始まりになってしまったなと思った。

 そしてそれが諸星大──つまりはのちのライとのかかわりの始まりだった。





 ブロンクスとジンは直属の上司部下という関係ではないが、ジンに従うウォッカとはまた違った関係性ではあった。
 ブロンクスが組織に入った後、ここまで引き上げたのはジンだからだ。
 ブロンクスが管理する情報は多岐にわたり、情報操作だけではなく情報の管理も行うため流出すれば組織も打撃を負いかねないところまで来ている。
 それによって不審な動きをすれば情に優先されることなく躊躇いなく処理できるジンが、彼女の目付けという立場に収まっている状況だった。

 実際ジンに関してはこれ以上ないほど適任だ。
 彼は生粋の猟犬であり、組織に仇をなす人間に躊躇することが無い。
 対象とどれだけ親しかろうが、どれだけ年数を重ねていようが、どれだけ情があろうが、仕事となれば簡単に切り捨てられる。

 用心深いジンは、基本的に人を信用しない。
 ジンとどれほど長い年数年月を共にしたとして、信用されるとは限らない。
 だからこそジンにどれだけ信用されるかは、仕事ぶり、つまりは組織に対する忠誠心と彼の天性の勘によって『こいつは信用出来るな、警戒しなくても大丈夫だな』と認識されなければならない。

「ただね、私はこの場合に該当しないんだけど」

 むしゃむしゃと一つ四桁もする高級ケーキを品の欠片もなく食べ進めるブロンクスを呆れながら、彼はその先を促す。
 もったいぶって食べろとは言わないが、もう少し惜しんで食べて欲しいものだなと思いつつ、次のケーキを置いた。

「私の場合は信用されているわけではなく、純粋に裏切る可能性が低い、そしてこいつは弱いから大丈夫だなと思われてるってわけ。おわかり? ライ」

 ここまで説明されて、彼──ライは一度頷いた。
 膿んだようなどこか気怠げな瞳でありながら、鋭さも感じさせる眼差し。
 組んでいた長い足を下ろすと、踵が硬質な音を立てる。

「理解はしたさ。納得は出来ないが」
「ええ、どこが」

 もしゃもしゃと食べながらだらしなく資料を捲っていたその手を止め、視線を寄越す。それにライは長い髪を揺らして首を傾げた。肩口から零れ落ちるその髪が艶やかに光を散らすのに、ブロンクスは目を眇める。

「そうだな。例えばジンが君のことを何とも思っていないくだりだな」
「ええ? それこそ事実でしょうよ。何とも思ってなくない?」
「信用されてないと君は言うが、比較的君は信用されているだろう。ジンがあそこまで自分の仕事を君に任せるのはそれだけ情が移っているからでは?」
「嫌がらせでしょ」

 けろっと言い放った彼女に、ライは思わず口を噤んだ。

 ジンの行動の理由を説明できるくせに、自分に向けられている感情の一片たりとも読み取れていない姿勢は逆に感心に値する。一体どんなやり取りをしてきたらこのような感情の交錯具合になるのだろうか。

 冷酷かつ残忍、誰であっても疑うあの男のブロンクスへの執着は、他者から見れば一目瞭然だが、当の本人である彼女は全く気付いていない。
 その理由が共に過ごした月日による麻痺したものか、ただ単純にわかっていないのかはライにはわかるところではなかったが、ジンの普段の行いが悪いからだろうなとライは当たりを付けた。だが恐らくそれを口に出せば目の前のブロンクスから「お前もだ、この当たり屋クソ詐欺師野郎」と設定を盛りに盛った悪口を頂くことになるし、当のジンは無言で銃を引き抜くだろう。それは面倒なので、黙っていることにした。
 だが納得できていなかったことが顔に出ていたのかライの不承不承とした顔に、ブロンクスは首を傾げる。納得してくれると思ったらしい。

「いや、あの男もままならないものだなと思っただけだ」

 本人が気づいていないのが良いのか悪いのかはわからないが、とにかく藪をつついて蛇を出すようなことはしたくはない。
 ここは黙っておくのが賢明だろうなとライは思って、胸元から煙草を取り出した。それを見た彼女が天井に着いた換気扇のスイッチを遠隔のリモコンで起動させた。
 火のついていない煙草を加えたまま一度天井を見上げた。掃除はされているのだろうが、他の天井よりは黒ずんでいる。

「にしても、相変わらず嫌なにおいだなここは」
「換気扇ずっと回してるけどね、染みついてるかも」

 スコッチも吸う、ジンも吸う、ライも吸う。
 このよく来るメンバーのうち半数以上が基本的に喫煙者、というよりも組織のメンバー自体が喫煙者の方が多い。
 ここでついでと言わんばかりにくつろがれると、匂いが徐々にしみついていくのだ。
 喫煙者だからといって、その煙草の匂いが全て好きなわけではない。ジンのゴロワーズに関しては喫煙者でも好き嫌いがわかれることで有名だ。
 この場所にいつもいるジンは滞在時間が長い上に、その度にパカパカ煙草を吸うので一番染みついているだろう。

「前にいたのはスコッチか?」
「半日前だけどね。バーボンもいたよ。二人とも忙しそうだったし、最近は三人で一緒に動かないんだね」
「いつも一緒なわけではないさ」

 ゆるりと紫煙を吐きながらそう告げた男に、ブロンクスは興味なさげに返事を返した。
 彼女はいつもそうだよなぁとライは思う。
 自分で話題を振ってきてなんだが、興味が無くなると仕事に戻る。
 自由気ままで割と自分勝手に動くときがあった。突拍子のないことをすることもあるので、目が離せないときがある。目付であるジンも気に掛けるはずだろう。
 ただずっと前にそれを指摘したときに「あんたに言われたくない」とばっさり言われてしまってから、ライはそれを言わないことにしている。
 確かに他の同僚からも「自分勝手に動きすぎ」「ここは日本だ。もう少し協調性を大事にしろ」「サポートするこっちの身にもなれ」「徹夜明けで働かせるな」など散々言われているので。

「ふむ。甘いな」
「コーヒー甘くされるんだよね。糖分を取れよっていう遠回しの主張だと思う。今ケーキ食べてるから口の中ずっと甘くて困ってる」

 コーヒーメーカーで作ったコーヒーを飲んで驚いたように口から離してグラスを見る。
 一見するとただのコーヒーだが、中にミルクが入っているのか酷く口に残る。もうこれはトラップの域だ。
 苦いコーヒーを楽しみに待っていれば、出てくるのはココアに近しい何かだ。

「つまりは君のせいか」
「人の部屋で問答無用で煙草吸うやつに言われたくない」
「それは失礼」

 く、と肩を竦めてライが謝れば、ふん、とブロンクスは鼻を鳴らした。
 随分と素直な反応を見せる彼女は、この組織の中に何年もいる癖に顔芸の一つも出来やしない。感情を素直に出し、思ったこともぽろぽろ零す。
 幹部らしかぬ彼女の傍は、変に肩ひじを張らなくていいので楽だった。

 実際バーボンもスコッチすら休憩にここを立ち寄るほどだ。
 組織の内情を知り尽くしている彼女は任務の話をしても引かれることもない。何ならよくわからないアドバイスまで貰えるほどだ。
 変に気を張り詰めないで、それでいて自分たちの会話についてこれる人間なのだから、それは気に入られるはずだ。

「信じられない。こんな男が姉さんと交際しているなんて」

 それにライは薄く笑った。
 そうやっている表情などライの交際相手、そして彼女の姉でもある宮野明美にそっくりだ。
 特にきゅうう、と眦を吊り上げるその姿。髪色は姉に、眼の色は双子に似た彼女は、コーヒーを少々乱雑に飲み干した。

「いい? 当たり屋野郎。姉さんに怪我一つでもさせたら、お前の命は無いと思って。本当に出来るんだから」
「核兵器のボタンを持っている子供のようだな君は」

 この姉と付き合う男が気に食わない彼女は、子供じみたことを言っているものの実際それが出来るだけの力がある。
これが組織のほぼ中枢に位置し、誰よりも危険な情報を一人で統括しているというのだから恐ろしい話だ。
 彼女のシステム構築能力が無ければ組織の情報は覗き込まれていたし、彼女の違法な電子マネー管理によって組織の全体のうちの数%の金は定期的に彼女一人によって流し込まれている。
 数%と言っても異常な金額のそれは、世界的企業の社長の年収と同じぐらいはあるだろう。黒の組織の潤沢な資金繰りや、異常な金の荒い使い方はそういうこまごましたお金を積み重ねて巨大にすることで成り立っている。
 無論黒の組織の『あの方』の莫大な資金が元手になっているが、利益が無ければ減ってゆく一方だ。その利益の一部分を、恒常的に一人で生産し続けられる彼女の手腕は組織からも評価されている。

「でも姉さんに惚れるのはわかるわ。あなたに見る目があるのはわかってる。でも姉さん……こんな当たり屋野郎に……惜しまれるわ……」

 ぎりぎりと歯ぎしりをしながらこちらを見てくるブロンクスに、ライは肩を竦めた。
 彼女は常にこうだ。自分の姉と双子が全ての彼女は、こと姉の話になるとライに噛みついてくる。

 姉さんはね、可愛いのよ、から始まる彼女の姉談議は常に終わることを知らない。
 見た目は文句が言えないほど美人なのに、所作は小動物じみているでしょう。そんなところも可愛いわよね。すぐに慌てて手を動かすところ、凄く可愛いわよね。そうでしょう? すぐばれちゃう嘘つくところも好き。追い詰めていくとね、無意味に手を動かしながら目をぐるぐる動かすの。一生懸命唸りながら新しい嘘をついて、墓穴を掘っていくところもすき。

 コーヒーを啜りながら笑顔でそういうブロンクスは、心底自分の家族が好きなのが分かる。だからこそ彼女の双子と姉が彼女を縛る枷になっているのも、理解できる。

「姉さんは可愛いから。どうにかして守ってね。大事なんだから」
「俺からしたら君も十分大事だが」

 それにきょとん、とした顔でブロンクスは目を瞬かせる。瞬間、きゅ、と片眉が上がった。

「いつもそんな調子で女口説いているの?」

 赤井が肩を竦める。顔をしかめた彼女は、疲れたようにソファーの背もたれに背中を預けた。

「あっきれた」

 きちんと綺麗に皿の上に添えたフォークの横から彼女は資料を取り上げた。そのまま膝の上に乗っけて捲る。

「姉さん以外に女引っ掛けたら怒るよ」
「ハニトラは?」
「セーフ。どうせジンからいくつか嫌がらせで回されてるでしょ」

 ふむ、と赤井は頷きながらコップに口をつける。

「実際問題、姉さんはあなたと交際している以上これ以上ないほど巻き込まれるでしょうね。私と、」

 言いにくそうに言葉を詰まらせる。
 もごもごと言葉を探していたが、明確に避けることは出来なかったのか諦めた。

「私と、あの子の姉でもあるんだから。貴方を含めて三人のネームドに一般人なのに関わってる。あなたには効かないかもしれないけれど」
「効かない?」
「薄情だもの。姉さんが人質になれば、私とあの子は手出しが出来ないけれどあなたはそうじゃないかもしれないでしょう。私には、あなたが姉さんをどう思っているかわからない。でも同じように、大事にしてくれることも、大切に扱ってくれていることもわかる」

 姉と同じ髪色。黒に近しい色だが、それはよく見れば赤茶に近いのだろう。
 彼女の双子であるもう一人のネームドは、これよりも色が薄いという。
 前に落ちてきた髪の毛を片手で後ろに払いのけ、彼女はケーキの最後のひとかけらを口に入れる。
 そのまま美味しいというように顔を綻ばせ、ライを見た。

「だからこのまま姉さんを大事にし続けてね。姉さんを恋人として傷つけるのならば、まだ二人の問題だから。でも、組織の男として、ライとして傷つけたのならばその時はお前が生きてることを絶対に後悔させるわ」

 妹と同じ瞳が、鮮烈な輝きをもってライを射抜いた。
 その顔はまるで事実を告げるような、至って無表情だった。
 恐ろしいことをいう。

 彼女はつまり、恋人として姉を傷つけることは交際していくうえで致し方ないと言えるが、組織の幹部の一人として姉を傷つけたのならば組織の幹部として対処するとはっきりライに告げたということだ。

「ちなみに恋人として傷つけると言っても、人として良くないことをしてるんだったらあなたの銀行口座止めるから。なんか喧嘩とかならいいのよ。小競り合いとか。本当に小さいことだからね! スーパーでリンゴジュース買いそびれた、またなの!?みたいなやつ! いい!? 姉さんにねぇ、手を上げて見なさいッ、お前のその、」
「わかったわかった。いたって普通の健全な交際をしてゆくことを誓うよ」
「本当でしょうね……言ったわよ……普通の! 健全な! お付き合い!」

 先程の組織の幹部、ブロンクスとしての表情とは懸け離れたそれにライは苦笑しながら両手を上げる。
 どうにも過保護だが、姉の方も「二人が心配なの。あの子たちは無事? 元気にしてる?」と困り顔で聞いてくるのだからどこまでいっても姉妹だ。

2022.2.1