斯くもこの世の願いとは

 その日は空に分厚い雲が垂れ落ち、僅かな月光すら見る事が出来なかった。朝になれば太陽が顔を出すのか、それとも雨が降るのか。後者ならば荷物が増えるので少し厄介。そんなことを考えながらも、月が出ない夜というのは横浜に住む人々にとって、あまり関係がなかった。
 電気の光が太陽と代わって道を照らす。きらびやかで、鮮やかで、眩しい夜だ。日が落ちれば床に就く生活など、この都会では過去の遺物として掃き捨てられているのかもしれなかった。

 とはいえ、電灯で鬼は殺せない。彼らが天敵とするのは陽の光である。
 二年ほどの歳月を経て、柱にまで上り詰めた晄夏は、鬼が出るという情報を元に横浜にやって来ていた。万が一にも知り合いと顔を合わせない様、目深に帽子を被る。

(こうも人が多いと……)

 腰に佩いた刀は羽織で隠しながら街を歩く。今のところ鬼の気配はしないが、いつ現れてもおかしくない。もし、この分厚い雲が朝まで残っているのだったら、尚の事早く鬼を狩らねばならなかった。日中、基本的に鬼は動かないが、陽光が届かないのなら、睡眠を必要としない鬼は問題なく活動し、人を喰らう。
 路地に入って改めて鎹鴉に話を聞いた方がいいだろうと、人目を避けるように道を外れる。

(横浜は広いし、人の出入りも激しい。その分噂の拡散も早いから、少しでも知性のある鬼なら下手なことはしないだろうが……)

 腕を挙げると、逞しい胸筋が自慢の鎹鴉がその腕に降り立つ。

「新しい情報はあるか?」

 晄夏が問うと、鎹鴉は片羽を西へ向けた。なるほど、と頷いて壁を足場に屋根の上へ跳び上がる。いくら人の多い横浜と言えども、普段から屋根を歩く人間はいない。闇に紛れて駆け抜け、次第にまばらになっていく街灯を眼下に、表情を険しくする。
 記憶が正しければ、知り合いが住んでいるはずの家に近づいている。こんなにもこの道は暗かっただろうか? 街灯が減ったか、故障でもしているのか。良くないことには違いない。

 その時、微かに。晄夏の耳が人の声を捉えた。
 刀を抜き、声がした方向へ向かう。袋小路、恐怖で身体を縮こませる少女と下卑た笑い声をあげる鬼。

 ──雷の呼吸・肆ノ型 遠雷

 路地に降りると同時に放たれた斬撃が、鬼の頸と胴を断つ。断末魔は塵と化し、その存在が一片たりとも残ることはなかった。ただ、人間の記憶を除いて。

「……陽が沈んだ後に出歩くなと、誰からも教わらなかったのか?」

 へたり込む少女にかける晄夏の声は硬く、顔をそちらへ向ける事もない。刀を収めると、溜息を吐いて少女に向き直った。

「怪我が無いようで良かった。家は何処に? 夜も遅い、近くまで送りますよ」
「お……」
「夜は鬼が出る。だから出歩かないこと。いいですね?」

 微笑みを浮かべ、晄夏は少女の手を取って立ち上がらせる。少女は晄夏にしがみついた。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん! どうして他人みたいなこと言うの!!」
「……人違いでは?」
「私が間違えるはずないじゃない!! 晄夏お兄ちゃんでしょ!? 遠ざけるんじゃなくて、一緒にいてよ! 傍で守ってよ!」

 少女の訴えに晄夏は顔を顰めた。肩を押し、身体を離すとくるりと背を向ける。「君、名前は?」その問いに少女は酷く困惑した。そんなの言うまでもないでしょう、泣きそうな顔をしながら思う。視線が晄夏の背に突き刺さる。

「名前は?」
「内空閑……ゆかり……」
「そうか。俺は新鎧晄夏。偶然同名の人間を知っているようだけど、君と俺は兄妹じゃない。分かったら、さあ、早く帰るんだ」

 少女は晄夏の羽織を握りしめ、頑なにその場から動こうとしなかった。余り困らせるな、迷惑だ。厳しい口調でそんなことを言っても、少女は動かない。涙を絶えず流し、晄夏に「お兄ちゃん」と呼び掛ける。


 ──分厚い雲に切れ目ができた。月光が射し込み、路地を照らす。
 晄夏は強く拳を握り、奥歯を噛み締め、佇んでいた。振り向くことは許されない。その手を握るなんてもってのほか。そうと決めたのは他でもない、自分自身だ。

 この少女はただの他人だ。そうあるべきだ。ただの他人として、幸せを願っているから、そうあってはくれないか。

 どうして伝わらないのだろう、どうして願った通りに、どうして。