夢に散る少年少女

 曰く、皆を救ってやるのが俺の務め。信者だけでは贔屓が過ぎてしまう。
 そう言って童磨は寺院を出て行った。春黎は好き好んで童磨と共にいる訳ではないが、それでもお喋りな童磨がいない間は暇を持て余して、信者たちが寝静まった夜更けの寺院を散策する。

 寺院はなかなかに豪奢な作りで、あらゆる場所に蓮の意匠が施されている。極楽の花と言われれば、確かに思い浮かぶのは蓮の花だ。宗教の名前も、……なんとか極楽教。常世とか、そんな感じだ。

「ん……?」

 廊下の先から漂う、微かな血の香り。口内でじゅわりと唾液が滲むのを感じながら、ゆっくりとした足取りで進む。飢えが導くままに喰らいつきたいところだが、一応ここは童磨の餌場だ。春黎は、自分が所謂居候の立場であると自覚していたので、勝手な事をするのはよくないと、自制心でもって飢えを我慢した。

 薄暗い廊下で、子どもがうずくまっていた。涙を浮かべて鼻を押さえている。考えるに、足下もまともに見えない状態で歩いていたら、足を縺れさせて顔から転んでしまったのだろう。
 春黎は子どもに駆け寄り、服の袖で顔を拭ってやる。子どもは驚いて叫ぼうとしたようだが、春黎が口元を覆っていたせいでくぐもった声しか出なかった。

「一体どうしたんだ? こんな夜中に……。血は止まったかな」
「う、わ、わ、えっと、えっと」
「ゆっくりでいい。ほら、深呼吸をしてごらん」
「う、うん」

 春黎が背中を擦ってやると、子どもは言われた通りに深呼吸をし、目を真ん丸にして春黎を見つめた。

「もし、かして……春黎さま……? ですか?」
「ああ、そうだよ。童磨から聞いたのか?」
「ううん、母ちゃんから……。教祖さまの隣に、ときどき、神さまのツカイがいるって。教祖さまといっしょに、極楽に連れてってくれるって」

 そういう認識が広まっていたのか……。春黎は子どもに微笑みを向けたまま、心の中で盛大な溜息をついた。道理で喰う前に救ってくださいだなんだと言われる訳だ。気紛れに信者の前へ姿を現すのもよくなかっただろうか。厭世極楽教──なんか違う──の教えもまともに知らないくらい、宗教自体には関わっていないというのに。
 そもそも、童磨に喰われることが、果たして救いになるのか? ここの信者たちは、まさか喰われるのを待ち侘びてはいないだろうが、少なくとも救いがあると信じて疑っていない。喰うことが救いに繋がるという、童磨の言い分はよくわからない。

「母ちゃんが、このまえ教祖さまに呼ばれてから、戻ってこなくて」
「母親の名前は何て言うんだ?」
「ナホだよ」
「ああ、おさげの」
「? 母ちゃんの髪はみじかいよ」

 そんなはずは。春黎は頭を捻る。確かに『なほ』という名前の、おさげの少女が浮かんだはずなのに。
 いや、母だ。子どもが産める歳だ。少女はおかしい。どうやら他の信者と勘違いしてしまったらしい。かぶりを振って、髪の短い女を思い浮かべる。

 ──三日前に喰った女だろうか。
 十八前後の女を寄こせと、再三言っている癖に、童磨が寄こしたのは二十半ばの女。恐らくあれが、この子どもの言う母なのだろう。正直に喰ったと言う訳にもいかない。さて、どう誤魔化したものか。

「ああ、彼女は……心が綺麗だったから、早々に神様に見初められたんだ。神様の下で勉学に励んで、そうだなぁ……数年もしたら、俺と同じ様な遣いとなって帰って来るよ」

 我ながら、よくこんな嘘が吐けるなと、春黎は呆れた。子どもは少し寂しそうな顔をしながらも、「そっか」と納得したようだった。

「夢の中でなら、会えるかな」
「きっと会えるさ。さあ、寝る子は育つんだ、早く寝た方がいい。母親に立派な姿を見せて、驚かせてやりたいだろう?」
「うん、うん! ありがとう、春黎さま!」

 春黎が髪をかき混ぜる様にして頭を撫でると、子どもは少し気恥ずかしそうにしながら喜んだ。手を引いて寝室まで連れて行き、朝になったら遊ぶ約束までしてやった。

 先程よりも軽い足取りで、春黎は寺院の散策を再開する。
 子どもは良い。未来がある。きっと幸せな未来が、それを守ろうと、良家に、知られずとも。

 ふらりと壁に寄り掛かる。何だ、どうしたことだ。脳みそをかき混ぜられたかのように、思考がまとまらない。暗闇の中で、何かを幻視する。散っている、降っている、あれは桜か。誰かが立っている、二人、だが顔が見えない。見えたところで、誰かも分からないのだろうが。

(なんだ……疲れているのか? 鬼には、睡眠も必要ないのに……)

 全て気のせいだ、こんなのは。春黎は幻視した光景を、腕で振り払った。視界には元の闇が広がっている。これが正しい光景だ。灯りの無い室内にいるのだから、桜など見えるはずがない。

 きっと腹が減っているからだろう。もう二人ほど喰べたい気分だ。明日、童磨に寄こせと言おう。外に出ているのなら、土産の一つでも持って帰ってくれればいいが。