茨の外に光無く

 ────幸せな時間だった。

「あのね、しのぶ」

 姉が頬を染めて、嬉しそうに、けれど少し恥じらいながら切り出した。

「彼と婚姻を結ぶことにしたの」

 私は姉の隣に座る彼を見て、やっとかと呆れを覚えつつ、本当に喜ばしく思った。

「カナエのことは必ず幸せにする。カナエの幸せも守る。……どうかな、しのぶ」

 彼はどうやら、私が姉との仲を認めないのではないかと、不安に思っているようだった。
 全く持って杞憂なのに、それを素直に口にすることができない。緩みそうになる頬を律して、私は彼を見た。

「姉さんのことを幸せにするのなんて当然でしょ。でも、その……」

 彼を幼い頃から知っている。姉と似て、誰にでも優しく、私にも実の妹と変わらない接し方をしてくれた。アオイやすみたちに対してもそれは変わらず、愛情を持って、叱るべき時には正しさを持って。きっと鳴屋敷では、他の隊士たちに対してもそうなのだろう。

 姉さんを、幸せにしてくれるという信用も、信頼も。確かに彼にはあった。

「……義兄にいさんって、呼んであげなくも……」

 照れ臭かった。兄がいたら、こんな感じなのかも。そんな感覚を覚えたこともあるけれど、やはり友人という認識もあって。姉と婚姻を結ぶというのなら、本当に、兄になるわけだけど。

「し、しのぶ……」
「えっ!?」

 彼が突然泣き出した。姉は「あらあら」と、朗らかに笑うばかりだ。袖で目元を拭う彼は、「しのぶ!」と再度私の名を呼んだ。思わず背筋を伸ばしてしまう。

「ありがとう」

 その一言に、どれだけの想いが込められていたのだろう。

 ──実の妹を守る為に、縁を切ったという彼が。姉との繋がりに名を得ようとしている。
 どれだけの覚悟があったのだろう。どれだけ迷い、悩んだのだろう。

 彼の内に秘めた葛藤は、私には分からない。対価を求めず、人知れず守ろうとする彼だから。

「必ず守るよ」

 その言葉には確固たる決意が込められていた。

 ある日、彼と姉が、互いに愛を囁き合っているのを見た。縁側で隣り合って座り、身を寄せ合って。
 私が近くを通りがかったのは偶然だったが、当人たちよりも、見てしまったこっちが恥ずかしくなってくるくらいだった。

 蝶屋敷の子たちも、彼の妹も、もちろん私だって、心から祝福した。
 みんな、みんな、幸せに思っていた。


 ──幸せ、だったのに。

 鬼が全て壊した、全て奪っていった、全て台無しにした。

「しのぶ、鬼殺隊を辞めなさい」

 姉の、こんなに弱った声を聞くのは初めてだった。
 悔しくて堪らない、鬼が憎くて仕方がない。どうして、どうして。どうして姉さんが。

「あの人も、いってしまった。止められなかった」

 私よりも先に、彼はここに来ていた。姉が比較的安全な場所にいたのはその為。
 きっと私と同じ感情で、衝動で、鬼を追ったのだろう。もう陽が昇る、彼ならばもしかして頸を斬って、戻って来てくれるんじゃないかと。

 鎹鴉が飛んできた。見間違えるはずもない、彼の鎹鴉だ。その様子は、ひとつの答えを指し示しているようだった。

「あなたは頑張っているけれど、本当に頑張っているけれど。多分、しのぶは……」

 姉が言う、普通の女の子の幸せは、姉が得るはずだったものだ。きっと彼も、一緒に思い描いていた。鬼さえいなければ、叶っていたはずの未来。


 姉は逝ってしまった。義兄は帰って来なかった。幸せになるはずだったのに。


◇◆◇



「うーん、五回目。これも駄目だね、効かないや」

 爛れた皮膚と縦に開いた傷は、瞬く間に治っていく。並の鬼ならばこの時点で──初撃の時点で、もう決着はついているはずだった。

「どんどん効かなくなってくるね。あと何回、毒を調合できるのかな」

 薄っぺらい笑みを浮かべながら、姉と義兄の仇は言う。本当によく喋る、癪に障る鬼だ。

「ああ、息がもう続かない? 汗が凄いな、大丈夫?」

 余計なお世話。お前が何の抵抗もしなければいいだけのこと。
 本当に腹立たしいけれど、これが上弦の強さ。悉く毒が効かない。耐性がつくまでの早さが異常だ。この調子では上弦の弐を殺すことができない。この鬼だけは、必ず殺さなければならないのに。

「肺胞が壊死してるからね、つらいよね。さっき俺の血鬼術、吸っちゃったからな」

 姉と、恐らく義兄も。この鬼の使う初見殺しと言える血鬼術にやられてしまったのだろう。
 長期戦はできない、連撃で大量の毒を打ち込む。

 ──蟲の呼吸・蜻蛉……

「ん? 何だ、お前はここに飛ばされていたのか」

 息が、止まった。

「おお、ちゃんと鬼狩りを殺しているな。偉いね、褒めてやろうか」
「お前に褒められても嬉しくない」

 鬼を追い、そのまま帰って来なかった。鎹鴉は行方を見失っていた。鬼に喰われたのだと、誰もが、そう思っていた。喰われたから、帰って来ないのだと。

「しかし、鬼狩りというのは……」
「こっ、胡蝶さ」

 私に手を伸ばした鬼殺隊士の頭は、いとも簡単に握りつぶされてしまった。手に付いた脳漿や血を舐めるその姿は、どこからどう見ても鬼でしかない。髪が、顔が、声が。彼と酷似していなければよかったのに。

「やめて」
「ああ……良い! 良いな!! 俺が求めていた人間その物だ!!」

 肉を喰らうその姿。私を食事としてしか認識しないその眼。

「貴方がそんなことをしないでよ!!!」

 どうして鬼になってるの、晄夏義兄さん。