第玖話
上弦の伍と対峙した時透は、強すぎるまでの怒りを起爆剤に、痣を発現させた。
心拍数は二百を超え、体温は三十九度を上回る。命に関わる状態でありながら、時透は普段とは比べ物にならない程の力を発揮し、鬼の頸を斬った。
心拍数を二百以上に。体温を三十九度以上に。
時透は言う。この二つの条件を満たせば、誰しも痣を発現させられると。
身体能力並びに回復力の向上。条件は厳しいものの、鬼を倒すにあたり、その恩恵は素晴らしいものだ。柱になれるほどの実力者が痣を発現したのならば、それは鬼殺隊にとってこれ以上ない戦力となる。
であれば何故、今まで痣のことが伏せられていたのか。
「もうすでに痣が発現してしまった方は選ぶことができません……。痣が発現した方は、どなたも例外なく──……」
晋之丞はあまねの言葉を思い出す度に、どうしようもない悪寒に襲われる。
柱合会議では、悲鳴嶼の提案により"柱稽古"なるものを行う運びとなった。
禰豆子が太陽を克服してからというもの、鬼の出現はピタリと止んでいる。故に、総力戦へ向けての戦力増強の手段として、柱が順番に甲以下の隊士全員に稽古をつけることにしたのだ。
柱はその稽古の中で、痣の発現を目指す。しのぶは「痣の発現が柱の急務となる」と言った。
痣の発現は最優先事項。他の柱達──冨岡は何を考えているか分からなかったが、揃って痣を出すことを目指している。
(痣……痣が発現した者は……)
炎柱に就任した際に与えられた屋敷に戻ってすぐ、晋之丞は鍛錬を始めた。木刀を軋む程握り締め、力の限り打ち込み台に叩きつける。
それは体温を上昇させ、心拍数を上げ、痣を発現させる為の鍛錬ではなかった。
(二十五で、絶命する……)
そこにあったのは、ただ途方もない恐怖と焦燥だ。何もしていないと気が触れてしまいそうだった。だから物言わぬ打ち込み台を相手にそれをぶつけた。
呼吸が乱れる。全身を駆け巡る血が、いつもより早い。だが感じる体温に違和感はない。三十九度に至ってはいない。
安堵と怖気は同時に人間の中で存在できるのだと、晋之丞は初めて知った気がした。
寿命が定められる痣を発現するのが恐ろしい。生きられなくなるのが怖い。
けれど、痣を出せずに上弦や無惨と対峙したのなら、そこで呆気なく死ぬかもしれない。
痣を発現する過程で死ぬかもしれない。自分の体は耐えられないかもしれない。
痣の恩恵を受けられた時には、生きて無惨を倒し、鬼のいなくなった世界を見られるかもしれない。
「あ゙あ゙あ゙ああっ!!」
咆哮し、壊れて床に倒れた打ち込み台に木刀を振り下ろす。その衝撃で木刀は折れ、残骸の一つに成り下がった。
晋之丞は膝から崩れ落ち、拳で自身の足を殴りつける。手の震えが止められない。膝が笑ってしまって立ち上がることすら出来ない。情けない。みっともない。弱い。いつまで経っても臆病者で、強くなれない。
「…………」
ただそこに生まれたというだけで、そうしなければならなかったから。
晋之丞は鬼狩りになった。
元々そういう質なのだろう。晋之丞は本当は臆病で、出来ることなら鬼であろうが人間であろうが争いたくはない。
死にたくない、というよりも、生きていたいという欲求が大きかった。
物心がついた頃。気づけば晋之丞は木刀を握っていて、父が手取り足取り、丁寧に剣技を教えてくれていた。その時の父は優しく、何か一つ出来るようになると、分厚い手で頭を撫でてくれるのが嬉しくて、幼い晋之丞は鍛錬を頑張っていた。
何の為に剣技を学んでいるのか、その頃はよく分かっていなかった。けれど両親が応援してくれているのは分かった。だから頑張れた。
変わり始めたのは、兄が自分とは違う生活を送っていることに気づいた時かもしれない。
兄の明之丞は体が弱かった。よく熱を出して寝込んだり、晋之丞が父に稽古をつけてもらっているのを、自分の部屋から羨ましそうに見ていた。だが明之丞は晋之丞の頑張りを認め、いつも「僕の分まで」と言って、父のように晋之丞の頭を撫でた。強いなあ、すごいなあ、元気だなあ。そう言って。
明之丞は木刀を握らない代わりに、筆を握っていた。本を鞄に詰め込んで、せっせと学校へ通い、勉学に励んでいた。
晋之丞が知り得ない知識を持ち帰り、話して聞かせる。最初の頃はそれが聞いていて楽しかったものだが、晋之丞は思ったのだ。どうして自分は学校へ通わなくてもいいのだろう、と。
母にそれを問うた時、母は悲しそうな顔をしながら、明之丞を哀れんだ。
燎家に生まれたのだから、人の命を脅かす鬼を斬る鬼狩りとして、鍛錬したいだろうにと。明之丞も母と概ね同じことを思っているようで、「晋之丞はいいなあ」と羨ましがった。
(……分からない)
どうやら自分は“鬼”なる存在と戦わねばならないらしい。晋之丞は気づきを得た。
兄の手は傷一つない。自分の手は傷だらけ、豆だらけ。新しく出来た血豆が潰れて真っ赤に染まっていた。
(本当に俺の方が恵まれてるの?)
確かに外を走り回れるけれど。大声だって出せるし、ご飯もたくさん食べられるし、夜中に自分の咳で目が覚めることもない。だけど明之丞にはたくさんの機会があるじゃないか。勉学によって広がる可能性があるじゃないか。
いいな、と晋之丞は兄を羨んだ。
“普通”の子は大抵学校へ通うらしいのだと知り、俺も学校へ行ってみたいですと、そう、任務帰りの父を出迎えて夢を語った。
晋之丞の言葉に、父は怒り狂った。
人が変わったようだった。人ではない何かが、父の皮を被っているのではないかとすら思った。怒鳴り声は理性のない獣のようだったし、吊り上がった目は人を傷つける刃物のように思えた。
自分が口にしたことはそんなに罪深いことだったのだろうか。理想を抱いてはいけないのだろうか。夢を見ることさえ叶わないのだろうか。
父は夢を語った晋之丞を殴りつけ、髪を掴んで引き摺り、玄関から外へと放り出した。晋之丞が混乱していれば、父は木刀を投げつける。晋之丞の小さな身体には合わない、大人用の長くて重い木刀だ。ごつりと額にぶつかり、眩暈がした。
「今から千回素振りしろ。その後は家の周りを百周。腹筋と腕立て伏せを五百回ずつ。出来なければ家にはいれない」
それだけを言うと、父は玄関の戸を閉めた。その時の鍵が閉まる音を、晋之丞は今でも鮮明に思い出せる。
どうして、どうして。
戸を叩き、嘆く晋之丞を家の中へ迎え入れてくれる家族はいなかった。父と母が言い争う声が外まで聞こえたが、やがて静かになった。誰も出て来なかった。母も兄も、顔を見せなかった。
その日を境とし、父の稽古は苛烈さを増した。日に日に、晋之丞が成長するほどに。虐待紛いの稽古を、晋之丞は血反吐を吐いても止められなかった。父が恐ろしかったのもあるが、ただそこに生まれただけで、そうしなければならなかったから。
無辜の人々の為に、鬼を斬らなければならない。人の命を救う行為は尊いと思うけれど、自分がしたいことの何もかもを犠牲にしてまでしなければならないのかと、晋之丞は疑問に思っていた。
けれど口に出せるはずもない。辛い稽古に耐える為に、目元に力を込める。弱音を吐かない為に、口元を引き結ぶ。
そうして鍛錬を重ねた晋之丞は、鬼狩りになる為に最終選別へ向かい、そこで初めて“鬼”を見た。
恐ろしい化物だ。人を喰い、簡単に命を奪う。
戦いたくない。見ていたくない。遭いたくない。そう思う。泣きだしそうだったから眉に力を込めた。唇が震えて仕方がないから、口を引き結んで耐えるしかなかった。
生き物を斬る感覚が気持ち悪くて仕方がなかった。命が潰える様を見るのが心底嫌だった。
けれど、それ以上に。
晋之丞は死にたくなかった。
生きていたかった。
顔も名前も知らない人々の為になど戦えない。晋之丞はただ恐ろしくて、怖くて、死にたくなくて、生きたかった。ひたすらに自分の為に鬼を斬り続けているのだ。身に付けた力を我欲で振るうことが、浅ましいとわかっていても。
──勇ましくなれない。杏寿郎の様には。