第拾肆話


 躱した拳が、背後の橋を砕く。

 ──炎の呼吸・弐ノ型 昇り炎天

 下から振り上げた刃は、皮一枚を残して猗窩座の腕を斬る。切断できていれば再生の時間を僅かでも稼ぐことができた。斬られた事実など無かったかのように腕を振るう猗窩座の拳が、虚空を打つ。晋之丞は即座に回避に転じたが、飛ばされた攻撃が右肩を掠める。ただそれだけで右腕全体が痺れ、柄を握る手の感覚を失った。

 でたらめな強さだ。晋之丞は息を吐き出して、歯噛みをする。結局下弦の鬼も、どの程度の強さなのか知る機会に恵まれなかったが、百年もの間上弦の鬼を討伐できなかったのも仕方がないと、戦力差を痛感した。今まで斬ってきた鬼など、猗窩座の足下にも及ばない。
 戦う前から、自分一人で勝てる気はしていなかった。それでも絶対に頸を斬るという意志だけはあったのだ。こうして戦ってもそれが揺らぐことはないが、頭の中の冷静な部分が早々に敗北を予言している。

 不意に、猗窩座が拳を下ろす。出会い頭に見せた笑顔は消え失せ、無表情に晋之丞を見ながら、少しだけ首を傾けて口を開いた。

「いい加減死んだらどうだ?」

 淡々と、猗窩座は言う。

「よくもまあ柱を……それも炎柱を名乗れるものだ。その程度の実力で、逃げ回るしか能のない太刀筋で。恥ずかしいとは思わないのか? 俺はお前を見ていると虫唾が走る」

 晋之丞の目の前から猗窩座の姿が消える。殺気を感じ、振り向き様に陸ノ型を放った。鬼であるが故に攻撃を受けることを厭わない猗窩座は、血を飛び散らせながら息つく間もなく拳を振るう。

「弱い! 紛うことなき弱者! さっさと死ね!」

 ──破壊殺・乱式

 当然のことながら、猗窩座の攻撃を一発でもまともに受ければ人は死ぬ。鬼に対して持久戦を仕掛けることもまた死を意味している。
 けれど晋之丞は攻撃をいなし、躱して、生き延び続けていた。猗窩座が放った乱式を、複数の型を続けざまに繰り出すことで対処する。

「貴様如きが柱とは、鬼殺隊も堕ちたものだ! 杏寿郎はもっと強かったぞ! 技も洗練されていた! その様な淡い剣技など、炎の型ではない!!」

 ──破壊殺・脚式 流閃群光

 猗窩座が放つ蹴りを下に潜ることで晋之丞は躱す。そう動くと分かっていた猗窩座は更に技を放つ。

 ──破壊殺・砕式 万葉閃柳

 その頭蓋を砕いてやるつもりだった。晋之丞を見ていると湧き上がる不快感を拳に乗せて。
 だが実際に猗窩座が砕いたのは橋のみだ。飛び散る木屑に赤色が混ざっていたのは、攻撃が僅かに晋之丞の額を掠めたからだが、決定打には至らない。

 ──炎の呼吸・参ノ型 気炎万象

 間違いなく頸を狙っていた刃が、猗窩座の右肩から左脇腹までを切り裂く。猗窩座はその場から飛び退いて、距離を取る。再生を待つ間に晋之丞へ目を向けた。

 既視感を覚える赤く染まった刀を持ち、いつまで経っても戦うことを止めない。苛立ちや侮蔑が腹の底で渦巻いて、燃えるような熱を持つ。目の前の人間をどうしても殺したい。拳でも足でもいい、とにかく目の前で物言わぬ死体になってくれさえすれば。

 猗窩座をここまで苛立たせていたのは、晋之丞に対して一向に決定打を与えられていない事実があるからだった。傷は負えども致命傷には至らない。戦い始めてすぐ、いつでも殺せると断じたはずが、未だに殺せていない。
 炎柱を名乗る晋之丞に、猗窩座は期待した。杏寿郎の様な強者が再び目の前に現れたと思ったのだ。
 だが違う。猗窩座から見た晋之丞は、猗窩座自身が忌み嫌う弱者に他ならない。攻撃を躱す様は姑息だ。逃げに徹する様は弱者だと名乗りを上げているようで反吐が出る。

 猗窩座は“羅針”で闘気を感知する。そして鬼として、武人として、長い時間を鍛錬に費やしてきた。だからこそ分かる。

(コイツは俺を恐れている。勇猛さの欠片も無い。見せかけの威勢で立ち向かう癖に、命を懸けようとしていない!!)

 たとえ恐怖で足がすくんでいたとしても、それを律する心があるのであれば、猗窩座とて多少は認めていただろう。
 だがどうだ。目の前の人間は生き残ることを最優先に、余力を残して戦っている。その態度は侮辱に他ならないだろう。逃げる、卑怯者、上っ面だけの、肩書きに胡座をかいた弱者。

「口数が多いな、お前は。舌を噛み切って死んだらどうだ?」

 晋之丞は険しい顔で猗窩座に言い放つ。

「二つ、言っておく。俺は絶対に死なない、お前を殺して明日を迎える」
「……この期に及んで、」
「それと」

 猗窩座の言葉を遮り、晋之丞は青筋を浮かべながら唸った。

「お前如きが杏寿郎を語ってんじゃねぇ」

 ──炎の呼吸・伍ノ型 炎虎
 ──破壊殺・鬼芯八重芯

 技がぶつかり合う。死の気配が今にも晋之丞を飲み込もうとしている。猗窩座から受ける殺意には、常に肝を冷やしていた。

 猗窩座にわざわざ言われずとも、己の弱さを晋之丞は分かっていた。杏寿郎と比べたら炎の呼吸だって相当に見劣りするだろうと、猗窩座に同感すらしていた。

(俺も俺が嫌いだ。お前の言う弱者で居続ける自分が!)

 昔から、晋之丞は杏寿郎の背を追いかけていた。
 その身に宿した才能を努力で昇華し、顔も名前も知らない誰かの為に命さえも懸けられる心が眩しかった。誰よりも強く、誰よりも優しい人間であった杏寿郎に、憧れを抱いていた。

 自分もそんな人間になりたい。杏寿郎のように誇らしく在りたい。
 願望は常に心の奥底で燻っていた。

 だが現実はどうだろう。自分はいつも逃げ腰で、駄目な自分から目を背けて、倒すべき鬼とも真っ向から対峙できない。せっかく父が教えてくれた炎の呼吸も、極めることができていない。戦うことが苦手なら、せめて人には優しくあろうと、そう思うのに。口を開けば文句や他人を突き放すようなことばかり。何を言っても否定から入る、嫌な奴だ。

 余計なことを考えることなく、生まれを誇れる立派な息子だったなら。
 父にも母にも、兄上にも申し訳ない。兄上だって好きで体が弱い訳じゃないだろう。俺とは違って、息をするように自然と他人を思いやれる兄上だ。体が丈夫だったなら、多くの人の命を、心ごと救っていたに違いない。──杏寿郎の友として、相応しい人格者だ。

 だけど。

 でも。

 杏寿郎が朋友だと、言葉を遺したのは。

 抱え続けた本心を、晋之丞は杏寿郎の前で一度も口にしなかった。
 憧れも、羨望も、感謝ですら。伝える間も、機会もないままに、杏寿郎は死んでしまった。いくら叫ぼうとも声の届かない黄泉の国へ旅立ってしまった。

 現世に留まる晋之丞に出来るのは、同じく現世にしがみついている猗窩座の頸を斬ることだ。
 復讐でも敵討ちでも、この行為に付ける名前はどちらでも構わない。晋之丞に言わせれば、字面と響きが違うだけでどちらも本質は同じこと。大切な誰かを奪う存在を、許し、生かすことなど出来ないだけだ。

 どうせ死んだ人間の言葉なんて聴けない。

 だったら、心の中に在るその人に「ありがとう」と言わせてみせる。

 不安になるほど眩しい在り方を、後に続きたくはない見習うべき生き様を、手放しで賞賛できない確かな正しさを。──心から尊いものと言えるように。

 技も心も至らないのだとしても、追いつきたいと、隣に並びたいと願っていた己を友と認めてくれたのだから。
 己の手で仇敵を斬り、せめてもの餞とする。

 生きているだけで自分が嫌になるけれど、生きていなければ何も変えられないから。今日まで生きてきた自分が少しでも恥ずかしくないように、少しでも変われるように。

手向けの炎を

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