第拾陸話


 暖かな陽射しが心地好く、その日はいつもよりもゆったりとした時間が流れていた。
 広い庭の、家屋の陰となっている場所に晋之丞はしゃがみ込み、まろく、小さな指で地面の砂を避けていく。すると乾いた砂の下から、少し色濃い湿った土が現れる。さりさりと、指の腹や爪を用いて、線を描いていく。

「上手いな!」

 突然頭上から降ってきた声に驚き、晋之丞は思わず尻餅をついた。ぱくぱくと口を動かす晋之丞に、声の主である杏寿郎は「大丈夫か?」と手を差し伸べる。お前のせいで転んだのだという文句はすぐに浮かんだが、晋之丞は全身に冷や汗が滲むほど焦っていたので、それどころではなかった。

(見られた……見られた……。どうしよう……)

 杏寿郎が差し伸べた手を取る余裕もなく、晋之丞はどうやって誤魔化すかを必死に考える。ああでもない、こうでもないと慌ただしく視線を彷徨わせていると、何を思ったのか杏寿郎は晋之丞の隣に腰を下ろした。そして地面を指す。

ツグミか? まるで土の中を飛んでいるみたいだ! 晋之丞は絵が上手いんだな!」

 屈託のない笑みを浮かべ、真っ直ぐな称賛向けてくる杏寿郎に背筋が冷えた。茶色の空に羽ばたく番の鶫を、土を削る勢いで足の裏を使ってかき消す。

「! どうしてそんな勿体ないことを……」
「俺、俺は! ……絵なんか描いてない」
「そんなはずはない! 俺はちゃんと見ていた!」
「描いてない! だからっ、父上にも母上にも、兄上にも、言うな!」

 杏寿郎のことだ。善意で家族に告げる可能性があった。千寿郎に伝わり、槇寿郎や瑠火に伝わり、その果てに晋之丞の家族にも伝わるかもしれない。そうなれば終わりだ。煉獄家で行う鍛錬の合間に、こっそりと心身を休められる時間さえも奪われてしまう。
 鬼殺に関すること以外の何かに興味を持つことを、父は良しとしない。だから母も兄も良い顔をしない。

「……家族に知られたくないのか? こんなに素晴らしいものが描けるのに」

 眉を下げ、心配そうに問う杏寿郎。家族仲が悪いと思われたかもしれない。晋之丞の家族は不仲ではない、はずだ。

「絵、なんか、より……。……鍛錬の方が、大事だ」

 そうか、と杏寿郎は静かに頷いた。
 どうしたら誰にも言わないでいてくれるだろう。心の中に留めるのではなく、記憶から消してくれないか。本当に見られたくないのなら、もっと周囲に気を配るべきだった。杏寿郎が近づいてくる足音も、気を付けていれば聞こえただろうに。すぐ目の前で、声をかけられるまで気づけなかった。晋之丞が自己嫌悪に浸っていると、杏寿郎が高らかに言う。

「よし。ならば、鬼がいない未来を俺たちで作ろう!」
「…………はあ……?」

 力強く拳を握る杏寿郎に、晋之丞は思わず呆けた顔をする。ならば、って。何が“ならば”なんだ。

「鬼がいなくなれば、鍛錬する必要もない! 平和になった世界でなら、晋之丞も好きなことが出来るだろう?」

 それはそうだ。杏寿郎の言っていることはもっともであると晋之丞も思う。

「そんなのが出来るなら、」
「出来る!」
「もっとずっと前に平和になってるだろ……」
「出来る! 俺たちなら! 俺とお前なら!」

 晋之丞に笑いかける杏寿郎は、明るい未来を信じて疑っていないようだった。何の根拠もないはずの決意が、どうしてこんなにも眩しいのか。本当にそんな未来が待っているのだと、楽しみに待ち侘びる心が芽吹く。

「そうして平和になったら────」

 ──ヒュウ、と肺の奥まで空気を取り込む。辺りに散った瓦礫と、明瞭な視覚と聴覚が現状を認識する。
 晋之丞は気絶していたのだと、すぐに理解した。猗窩座との戦闘で負う傷は避けられない。意識が途切れたまま、三途の川を渡っていてもおかしくはなかったと肝を冷やした。寸でのところで、どうやら晋之丞は現世にしがみついたらしい。

 生きているのなら、頸を斬りに向かわなければ。
 幸い、猗窩座はすぐ上の階層で戦っているようだった。晋之丞が死んだと思っているのか、追撃の様子はない。炭治郎と戦うことを優先しているだけかもしれないが。どうにも弱者だ強者だと、取り憑かれたようにこだわっていたから。

(随分と……懐かしい夢を見た。走馬灯ってやつか……)

 深く、深く、全身に酸素が行き渡るように呼吸を繰り返す。体の痛みは無視できるほどにまで落ち着いている。右腕もまだ振れる、手に力も入る。

(俺は死にかけただけだが、お前もあの夢を見て死んだのか、杏寿郎)

 燎家に炭治郎がやって来た時、背中で受け止めた杏寿郎の遺言。己に対する謝罪が何に対してなのか、晋之丞は今まで分からずにいた。幼い頃に交わした約束は、いつの間に風化してしまっていたのだろう。いつから思い出せなくなってしまっていたのだろう。
 ──それは陽の光を浴びる朝露のように輝いて、星の瞬きのように煌めいて、何より尊いものであったはずなのに。

(あの野郎……!)

 腹の底で憤怒が煮え滾る。身を焼くほどの熱が全身を包み込む。晋之丞が降った衝撃で元々脆くなっていたと言えども、亀裂が走る程に床を力強く踏みしめた。

(全部!! 台無しにしやがって!!!)

 頭上から聞こえる声を頼りに猗窩座の位置を特定し、斬りかかろうとしたその時だ。よく通る猗窩座の声が、するりと晋之丞の脳に滑り込んだ。

「杏寿郎はあの夜死んで良かった」

 続けて何事か喋る猗窩座の言葉は聞こえてこなかった。否、聞こえてはいたが、それ以上あの鬼が発する言葉を理解することを、晋之丞の全てが拒否していた。

 ──炎の呼吸・伍ノ型 炎虎

 闘気を感知した猗窩座が身を翻す。下の階層から跳び上がった晋之丞が炭治郎の傍に着地すると同時に、猗窩座の体から血が噴き出した。無数の切り傷に加え、両耳がぺとりと地面に落ちる。

「オイ、感謝しろ。随分と耳が悪いようだから斬ってやった。今度こそ治ったんだろうな」
「貴様……!」
「次はその頭と口の悪さだ。死んでも良い人間が、この世にたった一人でも存在するはずがないだろうが!!」

 不意を突かれたこと、向けられた罵倒、そのどちらも猗窩座の癪に障ったが、何よりも。晋之丞が生きているという事実に、猗窩座は脳の血管が切れそうなほど憤った。

「つくづく生き汚い奴だ……。お前のような奴は死んでいい、お前のような弱者は!」

 一対一で戦っていた時には無かった痣が浮かび上がっているが、それがどうした。猗窩座は拳を握る。今度こそ殺す、多少力が増したとしても、たかが知れている。

「俺は弱者お前を見ていると虫唾が走る、反吐が出る! 弱者が淘汰されるのは自然の摂理に他ならない!」

 純粋なまでの殺気、空気が震えるような咆哮に、晋之丞は刀を握り直す。猗窩座の持論などどうでもいい。何か言葉を返すまでもない。そう思い口を閉ざしていると、晋之丞の近くにいた炭治郎が口を開いた。

「お前の言ってることは全部間違ってる。お前が今そこに居ることがその証明だよ」

 諭すような口調だった。他人に同情し、鬼さえも憐れむ暖かな声色。

「生まれた時は誰もが弱い赤子だ。誰かに助けてもらわなきゃ生きられない。お前もそうだよ、猗窩座。記憶にはないのかもしれないけど、赤ん坊の時お前は、誰かに守られ、助けられ今、生きているんだ」

 刀を握る手に力を込め、炭治郎は眉を吊り上げる。

「強い者は弱い者を助け守る。そして弱い者は強くなり、また自分より弱い者を助け守る。これが自然の摂理だ!」

 嫌悪に顔を顰めていた猗窩座は、炭治郎の言葉を聞く内に、表情を和らげていた。だが相変わらず拳には万力の如き力が込められている。
 諭されているのではない。炭治郎の言葉を受け入れてもいない。猗窩座のそれは単に嵐の前の静けさで、募る厭悪が頭を冷やしているに違いなかった。

「晋之丞さんを蔑んだこと、訂正しろ! 猗窩座! 俺はお前の考え方を許さない! これ以上お前の好きにはさせない!!」

槿花の現を夢む

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