第拾玖話
最初に感じたのは心地の好い揺れだ。次に花の香り、晋之丞は植物に明るくないので何の花かは分からない。微睡みながら揺蕩っている、どうして意識が浮上したのだろう。このまま眠りについたのなら、穏やかで、安らかで、きっと幸せな夢を見られたのに。
晋之丞は仰向けに寝転がり、どうやら舟に乗っているようだった。目を閉じたまま何となく、この舟には自分しか乗っておらず、船頭もいないのだろうと感じた。川かどこか、とにかく水の流れに身を任せて流れている。
一体どこまで流れていくのだろうと思った矢先、舟がこつりと岸にぶつかる。行き止まりか、それ以上は流れていかなかった。起き上がる気力がなく、晋之丞はそのまま眠ってしまおうと考えた。
「こら。こんなところで寝るな」
聞き覚えのある芯の通った声に、晋之丞はゆるゆると目を開けた。美しい空を背景に、炎を写し取ったかのような瞳が晋之丞を見下ろしている。
「…………杏寿郎?」
「ああ。久しいな、晋之丞」
杏寿郎は舟が着いた岸に立ち、晋之丞の顔を覗き込んでいた。晋之丞は起き上がり、辺りを見渡す。杏寿郎が立つ岸には無数の彼岸花が咲き誇り、舟が流れてきたと思しき川には蓮の花が浮いていた。よくよく見れば川に流れらしい流れはなく、何故漕ぐ人間がいないのに舟が岸に辿り着けたのかを疑問に思う。
それにしても、この場所はこの世のものとは思えないほど美しかった。
「俺は、死んだのか?」
「まだ死んでない。死にかけてはいるが。痣も出ているから」
自身の何も無い右頬を指す杏寿郎につられるように、晋之丞は痣の浮かんだ左頬に触れる。指先で感じるものは何も無いが、杏寿郎が言うのなら痣があるのだろう。
痣が浮かぶことをあれだけ恐れていたのに、今は恐怖らしい感情が無い。死期が定められたという事実も理解しているが、実感が湧かなかった。けれど体中に傷を負いながら、長時間戦い続けた挙句に猗窩座の頸を斬るなどという偉業を成せた理由が痣と知れば、随分と腑に落ちた。
晋之丞が舟から降りる為に立ち上がろうとすると、杏寿郎は掌を翳して待ったをかける。
「この岸に上がったが最後、晋之丞は死んでしまう。まだこちらへ来ては駄目だ」
ああ、やっぱり。
舟に乗せられ、流れて来たのは三途の川というやつなのだろう。ずっと“死”に対して漠然とした恐怖を感じていた晋之丞だが、こんなにも穏やかなものなのかと面食らった。ひとまず舟に座り直すと、杏寿郎は安心したように頷く。
「ありがとう」
杏寿郎の言葉に、晋之丞は目を丸くする。礼を言われるようなことをした覚えがない。
「……それは、何に対しての礼だ?」
「ん? そうだな……。晋之丞が俺に憧れを抱いてくれたことか」
安らかな表情で、杏寿郎は笑った。その顔を見た晋之丞は、あの日煉獄家で見た棺の中に横たわる杏寿郎の姿を思い出す。目の前で、生きているみたいに話している杏寿郎は、確かに死んでいるのだと記憶が訴える。
「お前ほどの人間がそんな風に思ってくれていたなら、俺も立派な人間だったんだろう。俺は、晋之丞のような人間になりたかったから」
「え……。は、は? お前が? 杏寿郎が、なんで、俺なんか……」
自分に見習うべきところなんて一つもないはずだ。良いところなんかよりも、悪いところや嫌いなところの方がたくさん挙げられる。ましてや、特に、杏寿郎がそんなことを思うなんておかしい。
驚きのあまり言葉を詰まらせた晋之丞の考えていることが伝わりでもしたのだろうか。杏寿郎は真剣な顔で告げる。
「晋之丞、己を卑下するな。俺の友に対する侮辱は許さない」
反論しようと開きかけた口が、杏寿郎の気迫に圧されて言葉を紡ぐことなく閉ざされる。
「誰の心にも寄り添える、優しい人間だ。誰に教わるでもなくそう在れるのは尊いことだ」
「……違う。違う、杏寿郎。俺はそんな善い人間じゃない、俺ほど、他人をたくさん……見捨ててる人間もいない」
例えば、柱稽古。晋之丞は己の稽古を受けるかどうかの選択を隊士に丸投げし、炎柱邸の門は来客を拒むように固く閉ざした。何故かと言われれば、見知った人間が死ぬところを見たくないという身勝手な理由だ。少しでも顔見知りの数を減らしたかった。知らない人間が知らない場所で死ぬのであれば、気に病むことはないから。
「未来のことも、他人のことも分からない。だけど、もしかしたら、生き残れる奴が一人でも増えたかもしれないよな。俺は……俺は……自分の都合で、そいつらを見殺しにした」
死んでしまいたいほどに恥ずかしい。自分よりもずっとずっと立派な杏寿郎が目の前にいて、自分はこんなにも情けない、嘆かわしい。杏寿郎は己を軽蔑したに違いないと、晋之丞は俯いた。顔を見るのが怖くなった。猗窩座と戦っていた時、散々ぶつけられた言葉を否定しなかったのは、それが真実だからだ。晋之丞の事に関してのみ、猗窩座は何も間違ってはいなかった。
「晋之丞」
自分がどうしようもない人間だときちんと自覚していても、杏寿郎にそれを指摘された時には心が折れてしまうと晋之丞は思う。人として、どこまでも正しかった杏寿郎に憧れたからこそ。杏寿郎が友と言ってくれたのは嬉しかったけれど、相応しくないことくらい分かっている。だがそれを他人に言われるのなら、まだともかく、本人に言われた時には、心に負った傷は治らないだろう。
「晋之丞」
不安になるほど優しく、頑ななほど暖かく、杏寿郎は晋之丞の名を呼ぶ。その声に引かれ、晋之丞はおずおずと顔を上げた。
杏寿郎は、その顔を見ている晋之丞が泣き出したくなるくらい、悲しげな表情をしていた。
「想いを尊重したかったんだろう。仇である鬼を殺して、家族や大切な人の元へ行きたいと願う隊士は多い……。晋之丞の教えは“生きる為”のものだ。覚悟を、揺らがせたくなかったんだろう。何よりも命を尊ぶお前だから、その重さを知っている」
どうしてお前ほどの人間が俺をそんな風に言ってくれるんだ。
「俺は……」
「頑固だな、お前も! 聞くが、晋之丞が思っているように、晋之丞のことを“そういう人間”だと言う奴が、一人でもいたのか?」
何故助けてくれなかった、自分ばかり生き残って、お前が死ねばよかったのに、──そんなことを言う人間は。
「…………」
「……やはりな。お前が言うところの墓を、誰かが生きるはずだった人生を、背負わずにはいられないと俺は知っている。だが、誰もお前が潰れることなど望んではいない。まして重荷になることなど。自罰で想いを歪めるな」
後に託せる相手がいること。己が生きている間にどうしても成せなかったこと。伝えられなくなってしまった想い。
それを任せられる相手がいるだけで、その人は救われる。どうか繋げて欲しいと託したものを、全て受け取ってくれると晋之丞を見出した。そこにあるのは無類の信頼。──そう言って、杏寿郎は困ったように笑う。
「晋之丞は責任感が強いから。……おっと、否定は無しだぞ。俺の言葉を持ち帰ってくれ、お願いだ」
晋之丞が口を開くより先に、杏寿郎はそれを止める。頼みではなく願いと言われてしまえば、聞かない訳にはいかなくなった。
「俺は晋之丞の、俺とは違う考え方に起因した強さを尊敬する」
「……お前は、どういう考え方で生きてた? 俺は……笑って死ぬ奴が、どうしても理解できないよ。怖くないのか?」
そう問えば、杏寿郎は「怖くはない」と即答した。
「死ぬ為に生きていた訳でもないが、ああ……晋之丞がいたからか」
「……俺……」
「うむ。……お前には俺の墓まで背負わすまいと、手助けすらしようと目指していたのだが、俺の代わりに……と、そう思ってしまっていた」
「代わりなんて誰にも務まらないって、分かってるだろ」
きっかけの多くは、鬼への憎しみなのかもしれない。
けれど鬼殺隊士は皆、己ではない誰かの為に命を懸けている。そうしなければと常に自分に言い聞かせている訳でもないだろう。だが、鬼が理不尽に奪い尽くす何もかもを、ほんの少しでもいいから救い上げるために叫んだ魂が、体を突き動かす。
もう“誰も”傷つかないようにと戦う背中は勇ましい。“誰か”を守る為に伸ばされた腕は尊い。“誰の”為にでも覚悟を決める魂は眩い。
「格好いいよ、愛しく思う、素晴らしいけど、けど、どうして誰かの為に自分を勘定から捨てるんだ。誰かの枠組みに自分も入れてくれよ。そうして燃やした命を奪われたと思う奴だって、その誰かの中にはいるだろ。それくらいのこと、少し考えれば分かるだろ」
死は恐ろしい。当たり前のことを当たり前ではないのだと知らしめて、その全てを閉ざしてしまう。覚悟を決めた程度で受け入れられるはずがない。出来て堪るものか。そうでなければ生きることの価値が薄くなってしまいそうだ。
「俺はどうしてもお前に生きていて欲しかった。どんな形でも。だから嫌いだ、杏寿郎、生き損なったお前が」
勝手に死にやがって、その言葉を改めて言葉にすることはできなかった。死んだと、口にするのが辛かった。
「すまない。だが俺は間違った選択をしたと思わない」
「…………知ってるよ、分かってる。……分かってる、だから悔しいんだ」
杏寿郎に謝って欲しい訳じゃない。いくら謝ったとしても命が帰ってくることはない。それは鬼を、猗窩座を、無惨を倒しても同じこと。
選択が間違っていたと言える人間はいないだろう。もしかしたら一人くらいは、いた方がよかったのかもしれない。
「生きるべきだと思うのが遅すぎた。早くに気づいていたなら、何か変わったやもしれん」
「……俺も、誰も。お前にそれを気づかせてやれなかった。悲しい、寂しいことにな……誰が悪い訳でも、ないけど」
「そうか……そう、だな」
晋之丞は空を見上げる。どこまでも青く、どこまでも高く、どこまでも透き通っている。
「……なあ、杏寿郎。俺はお前が生きている間に、隣に立てるようになりたかったよ。お前が背を預けられるくらい頼もしく、強くなりたかった」
もしもそれが叶っていたのなら、約束した未来を共に迎えられたのではと、夢想せずにはいられない。
晋之丞の言葉に、杏寿郎は一瞬キョトンと目を丸くすると、すぐに快活な笑みを浮かべた。
「何を言うかと思えば。俺たちは最初から隣に並んで戦っていただろう?」