第弐拾壱話
「先に断っておく。鞘が当たったら悪い」
止血を終えるまでの時間で、調子が戻らなかった右腕が使えないのなら左で戦えばいいと、腰の左側に佩いていた日輪刀を、右側へ差し替えた晋之丞は言った。
「左手で満足に戦えるのか?」
「俺は元々左利きだ、支障はない」
とても十分とは言えない休息を終え、晋之丞ら三人は無惨捜索の為に動き出す。
その道中、上弦の壱を撃破したこと、時透無一郎と不死川玄弥が亡くなったことを、鎹鴉が報告した。
若い二人だ、あまりにも早すぎる。上弦の弐との戦いで没した胡蝶にも言えることだ。上弦の鬼を相手にしていなかったとしても、数だけは多い雑魚鬼に殺されている隊士もいるだろう。
誰も彼もが、鬼さえいなければ犠牲になることはなかった。
──そして、無限城全体に琵琶の音が響き渡る。三人が足を止め、次々と変わっていく景色を警戒していた瞬間。
ひと際大きく、空気を揺さぶる音と共に、その生き物は三人の目の前に現れた。
長く、白んだ髪をたなびかせ、無感動に人間を見下す。発達した筋肉を鎧として歪に着込み、人間であることを否定するかのような鋭い爪、腕や足には大小不揃いな歯が並ぶ口が開いていた。
同じ“生物”であることすら認めたくない醜悪な姿、晋之丞は生理的嫌悪に顔を歪めた。
(アレがいるから)
失うはずもない命が散っていった。いくつもの命が消えていった。天寿を全うすることもなく、為す術もなく、或いは些細な幸せを感じるより先に、恐怖に彩られながら人生を終えていく。生まれた瞬間から自由を奪われる。
握り込んだ刀を、一番最初に軋ませたのは誰だったか。途方もない怒りが脳を焼く、滅すること以外の思考を奪うように。
「炭治郎、落ち着け」
息を荒らげる炭治郎に対し、再度落ち着けと言った冨岡は、間違いなくその言葉を炭治郎ではなく己に向けていた。わざわざ口に出して言い聞かせなければ、飛び出しそうになる体を、経験則に裏打ちされたか細い理性で抑え込むことができなかった。仇を前にし、今すぐにでも殺してやりたいと思っているのは全員同じこと。衝動のままに立ち向かえば犬死にしてしまうと、必死に警告している。
手にする刃に殺意を込めて、己を睨みつける三人に、無惨は言い放つ。
「しつこい」
晋之丞は最初、無惨が何を言ったのかが理解できなかった。時が止まったような感覚すらし、全身を象る細胞がひとつ残らず目の前の生物を嫌悪する。
「お前たちは本当にしつこい。飽き飽きする。心底うんざりした。口を開けば、親の仇子の仇、兄弟の仇と馬鹿の一つ覚え。──お前たちは生き残ったのだから、それで充分だろう」
充分? 充分とはなんだ。一体何が充ちている。大切な人が死んでいるのに。命が損なわれているのに。
「身内が殺されたから何だと言うのか。自分は幸運だったと思い、元の生活を続ければ済むこと」
「お前何を言ってるんだ?」
「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」
炭治郎の問い。あまりにも理解しがたい言葉を紡ぎ続ける無惨に、思わず口をついたそれ。それに対し無惨は、世界の常識を語るかのような口振りで言ってのける。
「何も、難しく考える必要はない」
「…………」
「雨が風が、山の噴火が、大地の揺れが。どれだけ人を殺そうとも、天変地異に復讐しようという者はいない」
無惨は自分の発言が何ひとつとして間違っているとは思ってない、己の考えこそが至上の正しさを有するのだと言外に語っている。
「死んだ人間が生き返ることはないのだ。いつまでもそんなことに拘っていないで、日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう。殆どの人間がそうしている。何故、お前たちはそうしない? 理由はひとつ。鬼狩りは異常者の集まりだからだ」
無惨は呆れ果てた目を向けた。異常者の相手は疲れた。いい加減終わりにしたいのは私の方だ。そう言って。
「無惨。お前は」
「思い上がるな」
底冷えする炭治郎の声を遮り、晋之丞は無惨を睨みつける。猗窩座に感じたものなど比ではない、体の内の内から熱が湧き上がった。にも関わらず、心は冷え切っている。今晋之丞を支配するのが怒りなのか悲しみなのか憎悪なのか、本人ですら正確に把握することができなかった。
「お前如きが大災を冠すると? ただひたすらに癇癪を喚き散らすだけの癖して、神仏にでも至ったつもりか。千年も生きてきて、どうやったらそこまで脳足らずの恥知らずでいられるんだ、理解しかねる」
無惨は焦点を晋之丞へと合わせ、僅かに目を細める。
「お前の言う大災は天が賜すものだ。恐ろしく理不尽なものだが、そこには確かな恩恵がある。地の揺れは家屋を頑丈にし、雷は生活に豊かさと明るさを与えた。雨は恵みに相違ない、あらゆる生物は水がなければ死に行くものだ。噴火は新たな土壌を生み出している。その昔、この国が外つ国の侵略を受けそうになった時、彼らの船を流したのは嵐だと言うぞ、神風だ。──で? 鬼舞辻無惨。お前は一体何を齎せた?」
問いかけながら、決して答えなど求めていない晋之丞は続けざまに言う。
「言うことに欠いて、自らを災いとは甚だ図々しい。聞いているこっちが恥ずかしくなる。たとえ織田信長が天下統一を為し得たとて、そんな浅ましく厚顔無恥なことは言えなかっただろうよ」
フン、と無惨を小馬鹿にするように鼻を鳴らし、晋之丞はあくまでも上から目線に「教えてやろうか」と言った。
「お前が何を与えたか。どうせ分かっちゃいないだろう。お前が与えたのは停滞だよ。廃刀令が布かれて久しいこの時代に刀を握らせ、灯りが助けてくれる夜から安寧を奪い、未来に生きるはずの命を踏みつけにする。そんな奴がこの期に及んで、太陽と共に明日を生きようとしている? 生きられなかった人を差し置いて? ……ふざけるのも大概にしろ!」
生きるはずだった。生きているはずだった。平穏を傲慢にも享受し、朝日に臨み、月を詠い、天寿を迎えるその日までを揺蕩っていく。掌にいくつもの血豆を作ることもない、体中に傷跡を残すこともない、使命に縛られることもない。──そんな生が、きっと。
感情が導くままに叫び出したい衝動を抑え込んで、晋之丞は奥歯が欠けそうなほど歯を喰いしばる。
「……今まで斬ってきた鬼たちが心底悔やまれる。まさか千年も恥を晒し続ける生物に、傅くことを強要されるとは。根の国から駆け下りてきたに違いないな。無惨、お前はこの世の何より醜いぞ。鬼になったとて、人の寿命で死んでいれば救われたものを。既にこの世にお前の居場所はない、早々に地獄へ逝くといい」
それが唯一残された救いだと、晋之丞は無惨に対し言い放った。終始興味なさげな無表情を貫いていた無惨だが、しかし最終的には癪に障ったのか眉根を寄せ、大量の牙が生えた腕を振るう。
変形した無惨の腕は刃物のような鋭さを有しながら伸縮し、鞭のようにしなって三人を襲う。その攻撃速度、威力共に上弦の比ではなかった。無惨に斬り込むために間合いを詰めた炭治郎が右目を傷つけられる。
「離れろ竈門!! 出来る限り!!」
地面に伏した炭治郎を冨岡が抱え、晋之丞と二人がかりで攻撃を凌ぐ。
「時間稼ぎ……夜明けまでか? 光届かぬこの城の中、柱四人でそれは可能なのか?」
柱が“四人”という具体的な数字に、三人は息を飲む。
「縞の羽織りの柱と女の柱はすでに、私の部下が殺したようだぞ?」
それが嘘であれ真実であれ、少なからず動揺を誘うための発言なのだと分かっている。分かってはいたが、一瞬晋之丞の太刀筋はブレた。甲高い金属音と共に刀が弾き飛ばされる。
(──ああ、駄目だ。死ぬ)
この場には遮蔽物が何も無く、刀を失うことは攻撃を防ぐ手段を失うこと。晋之丞が今度こそ、生きることを諦めた瞬間だった。
「やめなさいよーー!!」
天井を突き破り、死んだと聞かされたはずの甘露寺が現れた。