第弐拾肆話


 鎹鴉が日の出まで一時間三分と告げたのは、晋之丞が刀を赫くした頃だ。無限城から市街地に出て、実に四十分経過しているが、さらに倍以上の時間、まだ戦い続けなければならない。

「伊黒!! 燎!! 体を注視しろ! 見え方が変わらないか、他の者でもいい!! 体が透けて見えないか!!」

 悲鳴嶼の言葉を聞き、晋之丞は無惨の体に目を凝らす。相も変わらず悍ましい肉体だ。

(透けて見える? 悲鳴嶼さんは何を……)

 そうして何度かまばたきをした瞬間、無惨の腹の中に脳みそが見えた。全身を覆う筋肉の下、骨に抱かれ、本来ありえないはずの場所に臓器があった。腹の中にある脳はひとつどころではない。無惨が動く度に位置が変わり、いくつもの心臓が脈打ち、生を主張している。

(何、だ……この)

 晋之丞の思考はそこで途切れた。
 透けて見えた際に察知した筋肉の収縮、考えるよりも先に晋之丞は無惨に背を向け、近くにいたカナヲを突き飛ばした。背に受けた衝撃と共に意識は刈り取られる。

 走馬灯も、夢も、黄泉からの呼びかけも。今度こそ、晋之丞は何者の声も聴くことはなかった。

「炎柱様! お、お願いです、息してください!」

 物陰に潜んでいた隠の一人が、懸命に晋之丞に声をかけ続ける。脈を確認しようにも自身の手が震えてしまい分からず、鼻と口の傍に手をかざし、あまりにも弱々しい呼吸に背筋が凍る思いだった。できる限りの治療も、延命になっているかすら分からない。このまま体温を失ってしまう気がしてならない。

 背中にできた大きな傷、これ以上戦えばその傷がある部分から上半身が裂けてしまうだろうと思った。

 晋之丞の耳は、周囲の音──すぐ近くにいる隠の声でさえ、遠くにあるものとして拾っていた。それはまるで水の中に潜っているようで、現実味がない。
 自力で解けないほどの力で、手が柄を握っている。立ち上がる為に足腰に込められた力は一体どこから湧き出ているのか。

 心臓は動いているのか。生きている気もするし、既に死んでいる気もする。そんなことすら分からなかった。ただ自覚できたのは、呼吸を続けていることのみ。

「…………」

 晋之丞は確かに気を失っていたが、晋之丞自身は今この瞬間を、自分が無惨の攻撃を受けた時と地続きだと思っていた。隠に目もくれずに起き上がると、幽鬼の如き足取りで悲鳴嶼の手当てをする愈史郎の背後に立つ。

「…………止血剤と、血清、を。頼む」
「あ……あぁ」

 愈史郎が晋之丞の腕に注射してすぐ、晋之丞は無惨の下へ走り出した。前に体重をかけ、倒れ込む寸前で足を交互に出し続けている。何かに背中を押されている気がした。ただ傷が痛んでいるだけかもしれないが。

 晋之丞が向かった先、炭治郎と伊黒の二人だけが無惨をその場に留めていた。踏み散らかされた隊士たちの屍を越え、刀を振るう。

 ──炎の呼吸・弐ノ型 昇り炎天

 無惨の懐に潜り込み、腕と背中に生えた管をいっぺんに斬り落とす。

 怒りに顔を歪めた無惨がギチリと奥歯を鳴らした。赫刀で斬りつけられたのだとしても、さらに遅くなった再生速度。肺に溜め込んだ空気を吐き出すと、常のようには酸素が戻って来なかった。短く、大きく、繰り返される呼吸。──息切れまでし始めた事実に、無惨は愕然とする。

 屋根の上で、鎹鴉が夜明けまでの時間を叫んだ。残り三十五分。東の空は晋之丞の髪と同じ色に染まり始めている。

 その時、無惨の左腕が醜く膨張した。

「無惨が分裂する! 細かく飛び散って逃げる!!」

 血に刻まれた先祖の記憶を死の淵に見ていた炭治郎は、無惨の逃走をいち早く察知した。

「斬りゃいいのか!?」
「古傷の場所、十二か所を……」

 そんな芸当ができるのか、炭治郎にはその不安があった。だが今にも弾け飛ばんとしていた無惨の体は、徐々に元の形へ収まった。
 続けての吐血。無惨は天を仰いだままその動きを止めた。無防備な状態を逃す理由もなく、三人は同時に斬りかかる。

 刹那、三人を襲ったのは凄まじい衝撃波であった。
 地が波状に裂け、飛びかからんとしていた体躯を吹き飛ばされる。

 壁に叩きつけられた晋之丞は、いっそ近すぎて見えなくなっていた“死”を覚えた。指の一本すら動かすことができず、そんな状態なので閉じることさえ出来ない瞼は視界の邪魔をしていないはずだった。けれど暗幕で覆ったかの如き闇が晋之丞を飲み込もうとしている。
 微かに聞こえる、何かが擦れるような音。それが自身の喉が発する、酸素を求める音だと気づけたのは、晋之丞が未だ此岸に立つ側の人間だからか。

(俺、お、おれ、れは)

 死を恐れるが故の震えか、衝撃波を受けたことによる痙攣か。晋之丞一人ではその判断がつかない。

(生き、い、い……)

 戦いを厭う自分がまるで耳元で囁くようだった。このまま諦めてしまえば、もう楽になれるのだと。死んでしまえば戦う必要はない。何を気負うこともなくなる。
 ──否。違う。これは自分の声ではない。

 晋之丞は自らの手で刃を握り込んだ。皮膚は容易く破け、炎刀は初めて人の血で汚れる。
 だが陽光を溜め込み、さらには赫刀にまで至っていた日輪刀は、晋之丞の体をいたずらに傷つけることはなく、体内に残留していた無惨の攻撃を焼き尽くした。

 諦めることなど選択肢に無い。命を背負うことを止めようとも思わない。戦い続けるのは、戦わなくてもいい未来を掴み取る為だ。
 杏寿郎が認めた“燎晋之丞”という自分が、そんなふざけたことを囁くものか。

「……消えろ、死に損ない」

 攻撃の際に流し込まれる無惨の血、その中にあった微かな意識が晋之丞を彼岸へ送り出そうとでもしたのだろう。無駄なことだと唸った晋之丞は、自らの足で立ち上がる。

 晋之丞が倒れた後も、駆けつけた隊士により無惨は追い詰められていた。先に戦線復帰していた炭治郎が、日輪刀を無惨の体深くまで突き立てて、壁に押し付ける。
 無惨は炭治郎を殺す為、武器である腕と管の全てを向ける。その内、左側に生えているものを甘露寺が素手で捕らえた。

「もういい加減にしてよぉ!! 馬鹿ァ!!」

 大粒の涙を流しながら叫ぶ甘露寺の行動は、捨て身のそれだ。力任せに無惨の腕を引きちぎった後のことを考えていない。

「甘露寺!!」

 晋之丞は甘露寺を襲うはずだった無惨の攻撃を間一髪で防ぎ、襟首を引っ掴んで後ろへ下がらせる。無惨の右腕は不死川が切断し、二の腕を壁に固定した。

「無事か! 無事だな!? もうやめろよあんな真似!!」

 言うが早いか、晋之丞はすぐ傍に落ちていた瓦礫を拾って無惨の元へ向かう。無惨の顔面は縦に割れ、人ひとりを──目の前にいる炭治郎を飲み込もうと、信じられないほどの大口を開けていた。

「往生しやがれ、ド畜生!!」

 無惨の口へ瓦礫を放り込み、額に渾身の突きを放つ。炭治郎を庇う為に間に入ろうとしていた伊黒が、瓦礫ごと無惨の喉奥を穿った。

「夜明けだ!! このまま踏ん張れェェェ!!」

 不死川が言う。一秒、二秒と経過していく時間があまりにも遅い。無惨と戦い始めた頃から──鬼と戦う時は、いつも夜が長かった。だがどうあっても朝は必ずやって来る。

 引き延ばされる時間の中、山間から真っ直ぐと。
 ただひたすらに荘厳で、美しい太陽が、人々に微笑みを見せた。

刻限を仰ぐ

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