第弐拾伍話
──恐らく、誰よりも先に太陽と目を合わせたのは、この場において唯一寵愛を受けることの出来ない無惨だった。
衝撃波が放たれ、炭治郎以外の全員が吹き飛ばされる。
朝が来た。生と死を象る決着は目前に迫っている。無惨を逃がしてはならないと、炭治郎は失った左腕にも構わず刀を握る。炭治郎の左腕を補うように、冨岡が炭治郎の日輪刀を掴んだ。黒刀は燃えるように赫く染まり、無惨は多量の血を口から溢れさせる。
陽光が、鬼の身を焼く。防御を試みる無惨は全身を膨れ上がらせた。
ただひたすらに己のみを守る為、無惨が纏った肉の鎧。その姿は見上げるほど大きな赤ん坊。鋭い牙と爪が鬼である象徴だ。刀を握り続ける炭治郎は冨岡を突き飛ばし、肉の中に飲み込まれてしまった。
耳障りな叫びを上げ、赤子は醜く地を這い、どうにか太陽から逃げようとする。当然、それを許す鬼殺隊ではない。
輝利哉が屋敷から指示を出し、赤子を本棚の下敷きにして動きを止める。その次は車で思い切り突進、行く手を阻む存在に苛立ち、岩ほどの拳を振り下ろす赤子の進行を、路面電車を用いて阻む。
「退がるな!! 何があっても!! 柱はもう戦えない!!」
隠を含む隊士が一丸となり、赤子を陽の下へ晒し続ける。
「退がるなァア押し続けろ!! 皆一緒だ、怖くない!!」
忌々しげに、赤子は握り拳を電車と隠たちに振り下ろそうとする。だが寸での所で、満身創痍の不死川が赤子の片手を斬り落とした。
そして電車に乗り上げる赤子を止めたのは悲鳴嶼だ。鎖を首に引っ掛け、力一杯引く。片足の悲鳴嶼を何人もの隠が支え、赤子は仰向けに倒れ込む。
「いい加減にしろよ……」
──炎の呼吸・玖ノ型 煉獄
晋之丞は仰向けの状態から寝返りを打とうとする赤子を、渾身の型で突き飛ばす。満足な着地すらできなかったが、それでも攻撃の手を緩める訳にはいかない。
「とっとと灼け死ね!! 無惨!!」
明確な殺意を口に、晋之丞は壱ノ型で赤子の体を斬りつける。もう動けないはずの体を無理矢理動かして、柱は刀を振るい続けた。
──水の呼吸・拾ノ型 生生流転
──風の呼吸・伍ノ型 木枯らし颪
──蛇の呼吸・肆ノ型 頸蛇双生
──炎の呼吸・参ノ型 気炎万象
肉の鎧は分厚く、その巨体故に力も強い。赤子は体を捻り、土の中へ潜ろうとしていた。何度も何度も阻もうと試みるも、赤子を引いていた悲鳴嶼の持つ鎖の方が耐えられなくなる。
ここまで追い詰めたのに。──そう全員の頭に諦めが過った瞬間、赤子は吐血し、その勢いで体を起こした。
平等過ぎるほど、太陽は赤子を照らす。体が焼ける痛みに赤子は断末魔を轟かせる。一際大きな声がつんざくと、今度こそ。
陽の慈愛に焼かれ、涅色の灰に姿を変えて、やがて何一つ遺すことなく。──無惨は散った。
沈黙。
誰もが目の前の光景を信じ込めずにいた。この瞬間に至るまで、多くの命が失われた。永劫さえ錯覚させた夜は明け、ついに鬼殺隊は千年の時を経て、鬼舞辻無惨の討伐を達成させたのだ。
歓声が辺りを包む中、晋之丞は体を引き摺るようにして歩き、伊黒の下へ向かう。
「……生きてるな。よかった」
「……燎」
「甘露寺も、無事だ。手当てをすれば……俺たちは、生き残れる」
「燎、俺は」
「黙れ、ぼんくら」
あまりに勢いの欠けた罵倒に、伊黒は間の抜けた顔をする。戦いの中で視力を失った伊黒に、今の晋之丞がどんな表情をしているかは分からなかったが、声色通りの穏やかな顔をしているのだろうと、脳裏に思い描いた。
「お前が、どう思ってるかなんてのは、俺には関係ない。ただ、本当は……本当に、誰にも……死んでほしくないんだ。……俺の手と、目の届く範囲に、友達がいたら……生きてくれと、そう、願って、動くだろ」
もしも。
もしもあの時、無限列車に自分も乗っていたのなら。
「今を歩めるのは生きてる奴だけ。未来を創れるのも、生きてる奴だけだ。……そこに死んだ奴はいない。振り返らない限り、過去なんてのは、見えないんだよ。お前、後ろ向きに歩いてねぇだろ」
茶化す様にそう言い、晋之丞は小さく喉の奥で笑う。
「……伊黒。お前の未来を決めんのは、甘露寺だ。お前自身が、権利を放棄するなら、な」
甘露寺と共に隠たちが二人の救護へとやって来る。朝日を浴びながら、晋之丞は戦いの終焉に安堵し、目を閉じた。
──晋之丞が再度目を開けた時、一番最初に視界に飛び込んできたのは蝶屋敷で働く少女だった。
ベッドの近くに置かれていた花瓶の花を入れ替えようとしていた少女は、晋之丞と目が合うと「キャアァ!」と悲鳴を上げた。その声は晋之丞の丁度いい目覚ましになった。
聞けば、あの夜の戦いから未だ一週間しか経っていないのだと言う。少女──きよの悲鳴を聞いてすっ飛んできたアオイは、信じられないものを見る目で晋之丞を見た。他の柱たちはまだ眠っているらしい。
きよは悲鳴を上げてしまったことを謝りながら、晋之丞に手鏡を差し出した。見ると、左頬から首筋、うなじの辺りまで、くっきりと痣が浮かんでいる。痣が出るような呼吸は意識していないと晋之丞が首を傾げると、アオイは長時間痣を出し続けていたことで定着してしまったのでは、と仮説を立てた。その為、回復が早かったのだろうとも。
「もう一週間は絶対安静でお願いします。ご家族にも連絡しますね」
「ありがとう。……ああ、そうだ。御遣いを頼まれてくれないか?」
「構いませんよ」
晋之丞は紙と筆をくれ、と言いながら右手を挙げようとした。だがその瞬間、背中に激痛が走る。
「燎さんは背中の傷が特に酷かったんです! お医者様は、右腕がほとんど上がらないかもしれないと……」
「……まあ、問題ない。俺は左利きだからな……」
アオイときよは、不思議そうな顔をした。咄嗟に動かそうとしたのは右手だったのに、そう疑問を抱き、それを口にすることはなかった。
目覚めた翌日には晋之丞は歩けるようになっていた。全身気怠いのは一週間も寝たきりだったせいだろう。だが機能回復が行えるほどの元気があるかと言われれば、それは否だった。出来るのは、せいぜい他の病室に寝ている隊士たちの様子を見ることくらいだ。
その日の午後、バタバタと慌ただしく両親と兄が晋之丞の病室までやって来た。晋之丞が左手を挙げて迎えると、母は涙を浮かべて息を呑み、父に至ってはその場に崩れ落ちた。
「ああああっ! よかった、よかった……! 晋之丞! 晋之丞……よかった……!!」
父は人目も憚らず一頻り泣きじゃくると、晋之丞の左手を握って、縋るように謝る。
「ごめんっ、弱い父親で! お前はこんなにも立派に育ってくれた! 辛く当たってすまない、すまない! 晋之丞が生きていてくれて、本当によかった……!」
晋之丞は父が泣いたところなど、今まで見たことがなかった。だがその姿を見て、知ろうともしていなかったのだろうと思う。
「……父上の稽古は無駄じゃなかった。俺は、最後の最後まで戦えた。父上のおかげだ」
父は、最早晋之丞の名すら言えないほどに泣きじゃくった。母が差し出したハンカチも、すぐに水浸しになるだろう。
兄・明之丞はベッドの傍に置かれていた椅子に腰かけ、真っ直ぐ晋之丞の顔を見る。
「お帰りなさい、晋之丞。何だか少し……雰囲気が変わったかな」
「ああ、ただいま。……鬼を倒した程度で、人が変わってたまるかよ」
人喰い鬼がいない世界になったことを知っている人間は少ない。大多数は平安の時代にそんな化け物が生まれていたことすら知らず、この瞬間にも、昨日と変わらない今日を生きている。
歴史にも遺らず、決して万人に称えられもしない功績は、明日を紡いでいったその先で、やがて消えていくのだろう。
晋之丞はそれを、寂しいとは思わなかった。世界とはそう在るべきなのだと知っていた。