第弐拾陸話


 蝶屋敷から退院し、実家で養成していた晋之丞が煉獄家へ線香を上げに行くと言った時、明之丞は咄嗟に自分も着いて行くと名乗りを上げた。

 戦いの夜から一ヶ月が経とうとしている。晋之丞の右腕は満足に持ち上げることが出来なくなり、日によっては軽度の麻痺症状も見られる。今は前髪で隠しているものの、額には大きな傷跡が遺ってしまった。晋之丞は「その程度で済んだのは僥倖だ」と、日常生活にも一切の支障はないと断言していたが、傍から見ている明之丞は、どうしてもそうは思えない。
 介助をしてやらなければと兄心を燃やしたのだ。晋之丞は心底呆れ果てた顔をしていたので、明之丞は少し傷ついた。

 行先が煉獄家でなければ、そのような顔を向けられた時点で見送りを選んだかもしれない。
 杏寿郎の葬式以降、近寄りもしなかった場所へ今になって赴くのは、本当に戦いが終わったからという理由だけなのだろうか。明之丞は、晋之丞が杏寿郎に対し、やや攻撃的な態度を取っていた印象が強くあった為、少し不安に思ったのだ。

「兄上、体調は良いんだな?」
「うん。問題ないとも」
「ならこれを頼む」

 晋之丞から手渡された荷物を受け取り、明之丞は首を傾げる。風呂敷に包まれた長方形の板のような物。明之丞は中身を尋ねたが、晋之丞は答えることなくさっさと歩きだしてしまった。

 来たる春の気配を感じさせる陽気が降り注ぐ。気持ちいい天気だ、と述べる明之丞に、晋之丞は淡泊な返事をした。だが空を見上げて目を細めるその横顔は安らかだ。晋之丞が蝶屋敷で眠りこけている時に初めて見た痣も、最初こそ驚いたものだが最早見慣れてしまった。顔に刺青を入れているようにも見えるので、通行人は少しぎょっとしている。

 煉獄家の門を叩くと、千寿郎が満面の笑みで二人を出迎えた。千寿郎に続いてのっそりと顔を出した槇寿郎も、「いらっしゃい」と穏やかに招き入れる。
 仏間へ行き、晋之丞は仏壇の真正面に姿勢よく座した。

「…………」

 ──そして、何も言えなくなってしまった。

 あの夜を越え、今日という日まで凪いでいたはずの心がかき立てられる。明之丞が心配そうに自身の名を呼ぶ声も、耳には届かない。

 言いたいことはきっと山ほどある。彼岸へ渡りかけた時に話したことなど、抱く感情の全てとは到底言えない。氷山の一角、爪の先。そうだと自覚しているにも関わらず、晋之丞は言葉が出てこない。膝の上で手が白くなるほど強く拳を握り、額に脂汗を滲ませる。奥歯を噛み締めていると、唇が震えた。

「…………約束、を」

 重々しく、晋之丞は口を開く。喉がすっかり乾き切ってしまっていたので、なけなしの唾液を飲み込むと、風呂敷を解いて荷物を取り出した。

「杏寿郎。俺は、約束を果たしたぞ」

 槇寿郎は目を見張った。
 晋之丞が風呂敷から取り出したのは、一枚の絵だ。額に収められたそれには、焔色の髪をした人物が三人と、艶やかな黒髪を持った女性が一人。──幸福な時間。あまりにも儚く、やさしい瞬間を閉じ込めたかのようだった。槇寿郎と瑠火、杏寿郎、千寿郎の四人が、とろけるような笑みで絵の中にいる。それは在りし日の光景か、あったかもしれない未来か。どちらにせよ、紛れもなく、ずっとそうあって欲しいと切実に願った姿だった。

「お前は俺に言ったな。“平和になった世界でなら、好きなことができる”、“鬼がいない未来を俺たちで作ろう”、“平和になったら、俺の家族の絵を描いて、俺に見せてくれ”」

 晋之丞は絵を脇に置き、顔を上げて仏壇を睨む。本人の前で言ってやれたら、どれだけいいことか。その横面を殴り飛ばせたなら。

「鬼はいなくなった。お前が言った通り、平和な世界になった。もう戦わなくていい、目の前で誰かが死ぬところを見る必要もない、生き物を傷つけることもなくなった! ようやく、ようやくだ。お前の言う責務とやらも無くなったんだ!!」

 ぽつ、ぽつ、と雨の降り始めのように、晋之丞の膝に沁みが出来る。

「なんで……今、…………生きてないんだ、杏寿郎……ッ!!」

 喉の奥から悲しみが噴き出した。晋之丞は突っ伏し、拳を畳に叩きつける。

「……う、うぅぅ……。っあ゙ぁ、ぁぁぁ……!」

 千寿郎が晋之丞の背に寄り添い、はらはらと涙を流した。
 明之丞は、自分はひどい思い違いをしていたのだと罪悪感に苛まれた。鬼殺隊のことを知らなかったように、自分は弟のことも杏寿郎のことも、何も知らなかったのだ。晋之丞が友を思って涙を流す姿はあまりにも悲痛で、明之丞は内心何度も誤り、胸を痛めた。

 晋之丞は泣くことができなかった。ずっと。
 泣いたところで辛い稽古は無くならない。悲しんだところで失った命は帰ってこない。苦しんだところで戦いは終わらない。痛くとも辛くとも、口に出さずに飲み込んでいなければ耐えられなかった。

 杏寿郎の訃報を聞いた時には、悲しいだの辛いだのという感情よりも先に、ただただその事実が信じられなかった。死ぬはずがないというのは思い上がりなのだろうか。生きていて欲しい。その願いからも目を逸らした。何もかもが遅すぎたから。
 長いこと現実を受け入れられなかった晋之丞に、その死を知らしめたのは杏寿郎自身だ。そして世界も同様に、これから先の未来に煉獄杏寿郎という男はいないのだと、やさしく言い聞かせるように、時を流した。

 必死になって仇まで討ち、平和な世界まで勝ち得たのに、杏寿郎はこの場にいない。
 杏寿郎と晋之丞、どちらも欠けてはいけない約束をしておいて、反故にする。

 こんなにも胸が痛い。こんなにも生きることが苦しい。遺された人間がそうなのに、どうして死んでやがるんだクソ野郎。そんな罵倒は、果たして口に出せていたのだろうか。

 ──戦いが終わったひと月前のあの日ではなく、今日という日を以て、置き去りにされていた晋之丞はようやく追いつくことができた。
 それは心でもあるし、晋之丞自身が知覚する現実でもある。燎晋之丞が歩む人生は、ここから始まるのだと言ってもいい。遺された時間は、ほんの僅かなものだけれど。


 この世に生まれ落ちることは、地獄の門を叩くのと同義なのかもしれない。生き続けることは茨の道で、何かを為そうとすれば頭を押さえつけられる。簡単なことなど何ひとつなく、同じ物を持つ人間もいない。だから食い違い、衝突し、傷つけあう。
 死ぬことは、それらの軛から解き放たれる為の唯一の救済なのだろう。死は誰よりも平等に何もかもを愛し、どんな存在も受け入れる。苦痛を追いやり、安らぎを惜しみなく与え、慈悲で相手を包み込む。

 死の淵に至った晋之丞は、そんな死生観を抱くようになった。
 けれど、だからと言って。晋之丞は変わらない。今までと同じように、死に抗い、生にしがみついてみせる。

 生きとし生ける全てのものはひたむきで、だからこそとても愛おしい。
 生き抜くことは尊いことで、きっとそこに時間の長さは関係ない。

 いずれ消えゆくさだめの炎、命を冠するそれに、人生という名の薪を焚べるのだ。

終わりへの導き

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