共存の痕

 日本が国を開き、じきに迎える事となる激動の時代──その少し前。
 山奥にひっそりと建てられた教会にて、儚という呪いは発生した。

 月が中天に浮かぶ頃合いであった。積もりに積もった負の感情が肉を象っていく。儚は手足が出来上がるまでの間に、一番最初に目についた人間をまず呪おう。そう思考した。この時代に発生した呪霊にしては珍しく、人間に似た思い付きで行動指針を定めた。
 人間を呪うのは、きっと楽しいぞ。害悪としてその様に心を湧き立たせ、いざ。儚は視界を手に入れたのを自覚し、偶然目の前にいた人間に手を伸ばした。黒いカソックを着込む壮年の男は、儚の指が肩に触れた時、少しばかり驚いた様子で振り返った。

(あれ?)

 儚は、カクンと首を傾げる。

「……──君は、一体」

 男の声を無視して、儚はじろじろと男を眺める。ぐるぐる目玉を動かし、そうしてやっぱり首を傾げた。

(おかしいな。感情がないぞ)

 儚を形作るのは、人間が抱く情だ。
 人間が人間に向ける数多の情がある。綺麗で、美しく、優しくて、暖かいばかりではないもの。

 人間は誰しも、自分が他人からどう思われているのかを気にしている。会話や表情、態度で真偽を確かめ合い、たとえ嫌いな相手であっても己の利益に繋がると確信を得ていれば笑顔で接してみせる。腹を割って話せば誰とでも分かりあえると理想を嘯く。互いに心は通じ合っていると、互いを疑いながら必死に思い込む。
 憎しみの代わりに愛を囁き、怒りの代わりに同情し、心配の代わりに見下して。──人間の情はとかく偽りばかりだ。無垢であるはずの幼子でさえ、優しく接してもらえるからと打算的に笑う。他人の失態を望んでいる癖に、切磋琢磨し協力できる、恥知らずの生き物だ。
 みんな知っていた。人間に表裏があることを。“裏表のない正直者”と称される人間でさえ、腹の内では何を考えているか分からないことを。誰もが『嫌い』という本音をひた隠しにして、健やかに『好き』だと言いふらす。嘘つき共を恐れながら、無自覚に仲間入りをする。

 結果として、他人の本心など誰一人として知り得ないまま、今日まで世界は上手く回っている。人間という種はこの瞬間にも数を増やしている。世界はいつも通り美しい。────上辺だけは。

 人間が作り出す世界は美しいのだから、儚が美しく生まれるのは自然の摂理であった。人間の営みは尊いのだから、儚の存在自体も尊いものだ。人間が人間に向ける綺麗な感情は、一切合切の中身本音を伴っていないので、情から生まれた呪いである儚も空っぽであった。

 そんな空っぽ呪霊の儚は、根源たる人間の七情を感じ取ることができるのだけれど。

「……?」

 一番最初に目についた人間を呪ってやろうと息巻いていたのに、儚が“捩じれる”感情というものが男には存在していなかった。適当な疑念を肥大化させて、憎しみを煽り、理性を飛ばして数人殺させてやろうとか──思っていたのに。

 不思議そうな顔をする儚に、男はひとまず服を差し出した。
 異様に肢体が細く、貧弱で脆そうな、人間ではない何か。男はどう接するのが正解だろうかと迷いこそすれ、愛を向ける対象であることは疑いもしなかった。

「どうぞこれを羽織ってください、今日は特に冷えますから。そしてよければ君の事を、僕に教えてくれませんか?」

 儚は目を丸くしたまま、穏やかに微笑む男を見た。

(情が無い人間なんて、いないはず)

 じゃあどうして。
 疑問が尽きなかったので、儚は男と話してみることにした。呪うに呪えず消化不良を起こす羽目になったのは大変不満だが、初めて目にした人間に強い興味を持ったのだ。

「はじめまして。僕はイオアン真海しんかい泯太郎みんたろう、この教会で神父として教えを説く身です」
「い……か、たろ……?」
「あぁ、霊名ありきでは少し長いですね。聞き慣れない音でしょうし……。僕のことは真海でも泯太郎でも、好きに呼んでくださいな」

 呪いに易々と名前を教えるなんて、馬鹿な人間だなぁ。
 儚はそんなことを思いながら、「みんたろう」と舌足らずに呼んだ。発生したばかりであるので、話すのは慣れていない。真海はさも幸せそうに「はい」と返事をしたのだった。





 神父……真海を呪うことが出来なかった理由は、存外すぐに判明した。
 真海は人間らしい感情を、既に持っていなかったのだ。

 正確に言えば情を超えている。
 恐らく、かつてはそうではなかったのだろう。だが今の真海は、キリスト教に準じ、人間離れした“愛”を人々に抱いている。──どころか、呪霊さえも愛してみせる。
 超越者、と表現しても良いのかもしれなかった。真海の抱く愛というのは、それだけ人間離れしているのだ。

 真海と出会ったことで儚が知れたのは、情は中味を伴わず空虚で酷く脆い物であるが、愛はどこまでも大きく固く柔らかくしなやかで剛健で──到底他者が干渉できるはずもないということ。

 儚は生まれが生まれであるだけに、真海という人間の存在を到底認めることはできず、傍に侍ることで虎視眈々と呪うタイミングを狙っていた。──丸一年見張っても不可能だったので、白旗を挙げざるを得なかったけども。

「俺が呪えない人間なんて初めて……違う。呪えない人間が初めて見た奴だなんて、こんなに運が悪いことがあるんだね」
「僕に呪いのことは分からないけれど……君がその手を汚さずに済んだのであれば、喜ばしいことです」

 いっそここまで敵わないとなると、儚としても一周回って清々しい気さえする。真海は心の底から、愛で以て儚を慈しみ、「君はどこまでも美しいから、誰かを呪うよりも誰かの為に祈ってあげてください」と言葉を授けた。
 祈りが一体何の価値を生み出すのだ、何の意味があるのか。疑問に思った事を儚が問うと、真海は必ず答えを与える。

「大切なのは人々を想う気持ちです。もしかしたら君には難しい……のかも、しれませんね」
「ようやく分かった?」
「ふふ、僕の話は終わりではありませんよ」

 柔らかに微笑む真海に、儚はムッと口を噤む。

「君が誰かの為に祈れば、大抵の人は嬉しく思うでしょう。君ほど美しい人が自分の為に祈ってくれるとなれば……」
「はは、浅いなぁ人間は。フリでも満足するなんて」
「最初は祈るフリで構いません。けれど必ず、人々が幸福である様を思い浮かべなさい。そうしている内に、君も心から人々を想える様になる。呪うのではなく、ね」
「…………何も分かってなかったね。俺の勘違いだったみたいだ」
「そんなことはありませんよ。僕がそうなれると、信じているだけですから」

 ──人間は、この吐き気がする程誠実な言葉を、心のどこかで疑うのだろう。
 儚は人間ではないが故に、中身の詰まった質量を伴う言葉だと分かってしまう。上っ面の戯言ならば何も響かないけれど、真海の言葉だけは儚の中に貯まっていく。

「……どうしてオマエの元に俺が生まれたのだろうね?」
「これも主のお導きでしょう」

 呪いを与えるなんて、愚行としか言い様がないけれど。





「善人の悪行が罰せられる様に、悪人の善行は称えられるべきです。善き行いをした事実を認めるのに、色眼鏡は不要でしょう? ……そして、君が如何に邪悪な存在として生まれ落ちようと、悪逆を為す義務はありません」
「だから人間に、優しくしてやれって言うのかい?」
「えぇ。君が悪魔なのだとしても、未だ無垢な身を非道に堕とす様を見たいなどと、僕は思わない。どうか、善き存在となりなさい」

 教会へやってくる人々にそうする様、真海は儚に「善き者であれかし」と説く。儚は己がどういう存在であるのかを、真海に話していた。善も悪も無い、ただ人間を呪う為に生まれてきたのだと。しかしそれを聞いても真海はずっと真摯に、儚が道を誤ることなきようにと導き続けた。


 真海の在り方は愛の存在証明だ。
 人間でなかったのならと、儚は思う。呪霊である儚とは違い、容易く命の終わりを迎えてしまうのだから。

「こんな時でも、オマエの“愛”は揺らぐことがないのか」

 真海が息絶えるその瞬間まで、儚は傍に寄り添った。

「素晴らしいね。けれど、あまりにも愚かしい。泯太郎、オマエがどれだけ愛したところで、誰も同等のものを返せはしないんだよ」

 儚は己を風光明媚であるとすら自覚し、こと“美”という概念に関しては、人間には当てはまらぬものであると確信していた。
 にも関わらず、儚が初めて“美しい”という感慨を抱いたのは、真海泯太郎という人間だ。呪いとして人間は嫌い、憎む対象であるはずなのに。

「……貴方の様な人間にまた会いたいものです。ぼくのささやかな願い、なのですけれど」

 亡骸を抱き、かくも美しき人の呪いは、父を真似て涙を流した。

 始まりの聖地は墓地となり、愛を求める呪いが生まれたのだった。