瞞し

 吉野順平という人間を思う。
 己を虐げた者への復讐を願い、己を尊ぶ母への愛情を抱く。ごく普通の少年だ。

 果たして、順平は人を殺めるだろうか。虫や動物の命を奪うのとは訳が違う。人を殺す前と殺した後とでは、人間は変わる。殺人を経験したか否かという一点以外の、どこがどう違っているのか。それを具体的に説明する事は、残念ながら人間ではない儚にはできないけれども、その決定的な変貌ぶりだけは目に焼き付いているのだ。
 現状、真人から力を与えられ、『復讐は罪ではない』と肯定され続ける順平は、順調に一線を越えようとしている。越えようという強固な意志すら持たぬまま、気軽に足を踏み出すかもしれない。

 呪いである儚には、生まれつき人間を害そうという本能が備わっている。当然、理性でコントロール可能であるそれ。対象は人間にのみ向いており、同族である呪いに向く事はない。……攻撃的な性格と術式を持たないというのも、関係しているだろうか。

 けれども人間は、自分より弱い生物も殺し、強ければ知恵を凝らしてやはり殺す。殺すことは生きることだ、そうして人間社会は廻っている。
 弱肉強食が成立しているとして、その牙が同族に向くのは何故なのだろう。儚は不思議に思っている。動物とて同族を殺すことはあるだろうが、人間のそれとは些か趣が異なる。動物にはきっと理由があり、人間は理由がなくとも殺せる。生存本能に関わらない殺しを、人間は行える生き物だ。

(……だから、神は存在しているとも言える、か)

 明朝、玄関だけが開け放された無人の教会で、儚は十字架を見上げる。開いた両眼、薄暗いそこへ聖なる光が射し込む。深淵に救いを与えんと。

「儚」

 静寂は破られ、儚の奥底を照らそうとしていた光は遮られた。背後から顎を掬い、顔を覗き込む人物のおかげで。儚は瞼を下ろし、仰け反った体勢のまま「傑」とやや掠れた声で名を呼ぶ。

「……まぁ、そんな訳はないか」
「? 何?」
「いいや、ハハ。我ながら全く……」

 一人、自己完結をした夏油は「末恐ろしい」などと、儚に向けるにはあまりにも似つかわしくない言葉を口にし、手を離した。儚は不思議に思いながら、手近な長椅子に腰を下ろした夏油の隣に座る。

「珍しいですね。きみがこんな場所へ来るなんて」
「…………。君が執着し過ぎなんだよ。住処を離れても飽きもせず、よくもまあ」

 夏油は馬鹿にしたように吐き捨てる。
 腹を立てるでも、反論するでもない儚は、返事の代わりに口許に弧を描いた。

「ぼくに何か、用向きがあって来たのでしょう?」
「一応、忠告をと思ってね。今日は真人の隠れ家には行かない方がいい。彼の撒いた種で呪術師が釣れる頃だ。君、まだ死にたくないだろう?」

 手助けしたいならそれもいい。……夏油の言葉は、「そんな事できる訳ないだろうけど」という意を多分に含んでいる。儚は驚いた様な表情を浮かべると、手を顎に添えて思案する。

「それはもしや、映画館の?」
「あぁ」
「そうですか……。ご忠告どうもありがとう、いつも通り大人しく過ごす事にしますよ」

 祓われる事が分かっていながら呪術師の前に現れる儚ではない。呪いとしても初めから、戦いをあまり好まない質だ。
 自身の言葉を素直に受け入れる儚に、夏油は片眉を上げる。儚が別段反発する様な性格ではないと知っているが、それにしてもやけに殊勝である気がした。

「君、今なにを考えてるんだい?」
「ぼくはいつも、愛について考えているよ」

 儚の返答は、おおよそ夏油の求めているものではなかった。“いつも”愛について考えている──それはそうだろう、儚の根幹にほんの少しだけ関わる事だ。
 宙空を見上げ、朝日を一身に浴びる儚が、まさか──涙を流している様に見えたから、わざわざ聞いてみたというのに。
 泣いているのでは、そんな可能性が脳裏を過ぎった瞬間、無意味にも湧き上がった衝動については舌を巻くばかりだ。別に呪われた訳でもなくそうなのだから。

「きみに話したことがあったか、なかったか……」
「……愛と愛情の違いについて?」
「えぇ、そう。その通り」

 情は脆く、中身を伴わない。親に向けるもの、子に向けるもの、友に向けるもの、見知らぬ誰かへ向けるもの──様々な形があるけれど、人間が抱く情の多くは建前だ。その裏には確固たる本音が存在し、建前とは真逆である場合がほとんどである。
 一方で、愛には混じり気がない。儚はそう断言できる。表も、裏も、同じ色同じ形。空洞などどこにもない。どこまでも真実で、どこまでも平等。愛とはそういうものだ。儚だから、知れることであった。

「順平は、どちらだろう」
「真人が目を付けた少年?」
「愛であればいい。ぼくはそう思います。真人は……違うのでしょうけれど」

 現実を憂う様に儚は言う。

「そんな七面倒臭い事は、彼じゃなくても呪いなら誰も考えないさ」

 口八丁の慰めすらなく、夏油は言った。
 呪霊の癖にくだらない事をごちゃごちゃとよく考える、と夏油は目を細めた笑みの下で思う。ついでに口にしてもよかったが、漏瑚程愉快な反応をしないことは想像に難くないので止めた。

「そうでしょうね。真人が聞けば嫌そうな顔をするでしょうし、漏瑚に言えばまた怒られてしまう……。こんなことはきみくらいにしか話せません。わざわざ聞いてくるのも、きみくらいなものですが」
「私を呪霊と同列に扱わないでくれる?」

 フッ、と鼻で笑い、夏油は立ち上がる。

「それじゃ、用件は伝えたから私は行くよ。つまらない話をありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、忠告と聞き手役を担って下さったことに感謝を」

 踵を返す夏油の背を見て、儚はふとした思いつきを口にする。

「今日はまた、きみと行動を共にしてみようか」
「やめてくれ、儚がいると目立つ」
「人間のフリをしなくても?」
「当然」

 提案は即座に却下された。目立つ事を厭うのであれば、仕方なし。どうしても夏油と一緒にいたい──などという願いも、それこそ当然に無い訳で。

 特に惜しむことなく、儚は教会を出て行く夏油を見送る。大柄なその姿が見えなくなると、再度、祈る様に十字架を見上げた。

「期待、したいものですけれど」

 儚が司祭でもシスターでもなく、ましてや人間ですらないからか。
 神は何の返事もしなかった。いつも通り神の声など、儚にとっては瞞しでしかないのであった。





 ──久々に心の底から笑えた、楽しい時間だった。

 昼間、先の映画館で真人が起こした殺人事件の事情聴取で知り合い、その流れで意気投合した虎杖悠仁を見送った順平は、自然と口角が上がるのを感じた。信じられない程奇跡的に“映画”という共通の趣味が合い、先程まで順平セレクトの作品を観て楽しんでいた。
 ダイニングテーブルに突っ伏して眠る母を起こさない様、足音に気遣いながら自室へ戻る。

 扉を開け、電気を点けたところで息を呑んだ。

「こんばんは、順平」
「せ、先生……ッ!?」

 各種ホラー映画では、安全地帯と言える自室に殺人鬼や幽霊、ゾンビなどの存在がいて──という展開がままあるが、まさか自分が現実でそれを体験するとは露ほども思っていなかった順平は驚愕した。叫び出さなかった事を褒めて欲しい……バクバクと大きく脈動する心臓を押さえながら思う。
 儚は「……驚かせてしまいましたか?」と申し訳なさげに言う。「いいえッ!」順平は咄嗟に首を横に振った。あまりに必死であった為、儚は思わずクスクスと笑いを零す。

「今日は諸事情あって真人の下へは行けませんでしたから、夜の散歩ついでにふと思い立ちまして。ごめんなさいね、窓から不躾に」
「い、いえ! 僕の方こそ、汚い部屋で……。えっと、その……嬉しいです、先生に会えて……」
「それはよかった。二人きりで会うのは初めてですね」

 勉強机と一緒に置かれている椅子に腰を下ろし、儚は穏やかに問う。

「何か良い事がありましたか? 随分と楽しそうですね」
「あ……はい! 実は、すごく話が合う人と、友達になれて」
「なるほど、友とは素晴らしい」
「呪術高専の虎杖君って言うんですけど、あんなに映画について語れるなんて思ってもみなかった」

 喜色満面に話す順平に手を伸ばし、儚は柔らかく頭を撫でる。

「虎杖という少年は、術師として順平より先輩なのでしょう? 心変わり……というか、彼と話してみて、考えがまとまったのでは?」
「……はい」

 順平は、少しだけ気恥ずかしくなった。先生には何でもお見通しなんだと。話しても話さなくても、心の内を見透かされてしまう。だが不快ではなかった。無二の理解者を得たような感覚さえしたのだ。

「虎杖君は、たとえ悪い呪術師でも殺したくはないと言ってたんです」

 一度『殺す』という選択をすれば、その後も自分の生活にずっと、『殺す』という選択肢が入り込む。その結果として命の価値が、ひいては大切な人の価値まで分からなくなるのが怖い。──順平は、虎杖が言っていた考えをそのまま儚に伝える。

「真人さんが言っていた、“人に心なんてない”……その考えに救われました。胸が軽くなった。でも、力まで与えてもらいながら、僕は……僕が人を殺すことで、母さんの魂が穢されてしまうなら。僕に人は、殺せない」

 すみません、と順平は頭を下げる。
 自ら復讐を望み、真人に縋り、果たせるだけの力を貰った。戦える様になるだけの時間を費やしてもらった。だというのに順平は、結局一線を越えないと、自分の考えを改めたのだ。

「謝る事はありませんよ」

 儚は、順平を受容する。

「真人も言っていたでしょう? 順平の全てを肯定すると。きみが思考し、導き出した答えを否定するはずがない」
「……先生……」
「きみは復讐を望んだ、他でもないきみ自身の為に。けれど踏み止まった。……それは母の為でしょう?」

 素晴らしい。
 儚の賞賛に、順平は目の奥が熱くなる。

「きみに己の考えを説いた少年も、そしてきみ自身も。優しい子ですね。良き友、良き友情です」

 はい、そう頷きながら発した声は震えていた。安堵の涙を流す順平の背を、儚は優しく一定のリズムで叩く。

「ふふ……何だか泣かせてしまったぼくが言うのもなんだけれど、静かにしないと母が起きてしまうよ」
「す、みまっ、せ……」
「気を張っていたのでしょう? ゆっくりお休みなさい」

 深呼吸をすると、瞼が重くなる。儚の言う通りだったのだと、順平は初めて自覚した。ベッドに横たわり、ぼんやりとした思考でお礼を言わなければと思う。

「あり、が……ざい、ます……。まひ……さん、先……」
「……律儀ですね。礼など、必要ありませんよ」

 規則正しい寝息を立て始めた順平の長い前髪をどけ、隠されていた火傷痕に人差し指の背で触れる。死ぬまで遺るであろう痛ましい傷だ。「可哀想に」そう呟き、儚は順平の部屋から去った。