人を想う

 悲劇である、としか言いようがない。吉野順平の実母・吉野凪が呪霊に襲われて死んだのは、順平が眠りについた後のことだったのだ。ダイニングテーブルに置かれていた特級呪物・両面宿儺の指。それに引き寄せられた呪霊が、吉野凪を呪い殺した。順平が起きていれば、式神を用いて祓うことが可能であったかもしれない。
 もしもの話をしたところで、最早意味はない。順平はただ、最愛の母を失ったという事実だけを抱えなければならないからだ。

 形見となってしまった母の服を身に纏い、順平は家を出る。見慣れた通学路を少し歩いたところで、儚と出会った。

「……真人から事情は聞きました」
「止めるつもりですか」

 眉を下げ、悲し気な表情を浮かべる儚を突き放す様な口調が、順平の意志の固さを表しているかの様だった。儚は力なく首を横に振る。

「見守りますよ、きみの覚悟を」
「! ……すみません、僕、」
「気にしないで。さぁ、行きましょう」

 二人は共に、順平が以前まで通っていた里桜高校へ向かう。
 存外、順平の足取りは軽いものだった。これから人を殺すのだと決意しているとは思えない程に。

「残念ながら呪術師はきみの言動を否定し、呪詛師として定めるでしょう」
「覚悟の上です」
「真人が力を貸してくれます。きみの仇敵を逃がさない様、帳≠ニいう結界を張る。仕掛けるのであればそのタイミングで」
「はい」
「ただ……本来は呪術師が一般人相手の目くらましとして使用する物ですから、異常を察知し、即座に術師が駆けつけるでしょう」

 順平の脳裏に過ったのは、共に笑い合った虎杖の存在。もしも彼が止めに来たとしたら、いや、誰にも邪魔はさせない。爪が食い込む程、掌を強く握り締める。

 やがて校舎が見えてくると、順平の一歩は大きくなった。早足に向かう順平の後ろ姿に、儚はぽつりと呟く。

「可笑しいとは、思いませんか?」
「……え?」
「きみに事情聴取を行った相手が、きみと同じ趣味を持っているなどと」

 どういう、とは聞き返せなかった。遠く、耳鳴りがする。「昨晩警告しておけばよかった」儚は悔やみきれないといった様子で言う。

「あまりにも都合が良すぎると。呪霊を引き寄せる特級呪物が、何故封印もされず、管理も為されていないのか。真人は呪詛師の仕業ではないかと言っていましたが……」

 沼にはまっていくように、順平の足取りが重たくなる。冷や汗が首筋を流れ、呼吸が浅くなる。
 順平が短慮であればよかった。けれどそうではなく、儚の言葉を受けてひとつの答えを導き出せてしまう。

「誰かを呪うのは、呪術師も同じ事。表社会に出て来ない存在である事も、また同じ。……人は、どこで繋がっているのか、分からないものです」

 人に心なんてない。
 他人に見せる表側だけを、取り繕うことができるなら。──できる、から。

 順平は縋る様に儚を見る。こんな時でもやはり、順平の目に映る儚はどこまでも美しかった。すぐ近くに、解答は存在していた。





 帳≠ェ下り、里桜高校一帯は夜闇に包まれる。順平は体育館の扉を開け、式神澱月≠フ触手を放った。対象は生徒と教師一人ずつを除いたその他全員。
 薄暗くなった体育館で、何が起きたのか分からないままほとんどの人間が昏倒する。呻き声を上げる生徒の背を、取り残された教師が揺らす。順平が在籍していたクラスの担任である、外村だ。

「先生。ちゃんと見ててね」

 戸惑う外村に、順平は前髪で隠れた傷痕を見せつけた。その傷が何で出来たものなのか、それが分からないほど外村は鈍くない。瞬間──あるいはようやく、外村は順平が不登校になった理由を悟ったのだった。

 壇上で一人取り残されていた生徒、伊藤翔太。順平は彼こそが“金と暇を持て余した薄暗い人間”であると、そう断じた。

「アレを家に置いたの、オマエか?」

 端的にそう問いかける。伊藤が「なんの話──」と言いかけたのを無視して、澱月≠フ触手を左腕に突き刺した。目に見えない存在からの攻撃、順平の呪力から生み出された毒が侵蝕する。「何したテメェ!!」と戦く伊藤を順平は「なってないな」と殴りつけた。倒れ伏した伊藤を更に蹴りつけ、何度も踏みつけにする。順平自身が今までそうされた様に。

「まだ自分が質問を質問で返せる立場だと思っているのか。オマエは死ぬんだよ、質問の答えがイエスでもノーでも。だって僕にオマエの嘘を見抜く術はないし、そうされるだけのことをオマエはしてきたからね。──最期くらい誠意を見せてくれ」

 顔は腫れ上がり、左腕は毒に侵された伊藤は、必死に謝罪の言葉を口にする。「ごめ゙んなっ、ざい」そこに強者として順平を蹂躙していた面影はなく、またプライドもない。

「で?」

 順平は問う。

「だから?」

 たった一回。ここまで追い詰められてようやく出た謝罪に、一体何の価値があるのか。
 順平の心に蓄積した痛み、苦しみ、怒りがそんなもので晴れるはずもない。加害者が被害者に転じた程度で、元の被害者が救われることなどありえないのだ。また、謝罪如きで罪が消えることも無い。

 その時、体育館の扉が勢いよく開かれた。
 惨状を目撃した虎杖は叫ぶ。

「何してんだよ!! 順平!!!」

 必死な声、表情。順平の心はひどく冷めていく。

「引っ込んでろよ、呪術師」

 虎杖を押さえ込むにも、人の多い体育館では分が悪い。そう判断した順平は澱月≠用いて宙に持ち上げていた伊藤を捨て置き、体育館を出る。「順平!!」と名を呼びながら、虎杖もそれに続いた。

 ……打ちのめされた伊藤と、ただ見ていることしか出来なかった外村だけが残された体育館に、儚はするりと壁を抜けて姿を現す。端で順平を見守っていた儚だが、虎杖の気配を感じて一時的に姿を隠していたのだ。

「あぁ……どうしたことか」

 嘆息する美しい存在に、外村は目を奪われる。
 何が起きているのかと、最早自然現象を見るような感覚で惚ける外村の前に儚は膝をつき、人差し指でその二重顎を持ち上げる。惨憺とした場に似つかわしくない笑みを浮かべて語りかける様は、さながら託宣だ。

「きみの生徒は、きみの知らぬ間にひどく傷ついていました。結果がご覧の有様です。師として責任を取らねばと──そう、思いませんか?」

 混乱していたはず外村は、不思議とその声を聴くことだけに意識を向けていた。言葉の内容を理解し、かくかくと何度も頷く。

「先程、吉野順平を追った少年は、彼を殺そうとしています。きみの生徒の命が危ない」
「よ、吉野……!」
「さぁ、立って。立ち上がって。今度こそ、きみの生徒を守りなさい。教師としての責務を果たしなさい。大丈夫、きみならできますよ。吉野順平を大切な生徒として想う……きみの正義があれば」

 外村は駆け出した。肥えて重い身体を必死に動かして、順平を守る為に走り出した。

 儚は外村の背をゆっくり追いかける。外村が万力の如き力で握り締めるナイフの反射光が目印だ。
 これを使いなさい……などと、儚は一言も口にしていない。ただ目の前に差し出されたそれを、外村は自分の意志で掴んだのだ。大した正義感だと、儚は頭が下がる思いである。

「生徒想いの良い先生だ。……ふふ。ぼくも見習わないと」