昇華
儚は呪術を用いた戦闘の一切を行うことができない。術式に攻撃性がなく、また肉体もその見た目通り非常に脆いからだ。外村は、儚に呪われたことで異常な興奮状態に陥り、それに伴う血圧の上昇がきっかけで脳卒中を引き起こした。これは元々、外村自身が健康体とは言い難い人間であるからして、呪殺には当てはまらない。
だが、直接的か間接的であるかなど、虎杖には関係ない。地獄の釜で煮つめたかの如き殺意を虎杖からぶつけられた時、儚はすぐ様離脱した。支援も当然門外漢であるので、戦闘は全て真人任せだ。見つからないよう校舎内を移動し、最終的に屋上の縁に腰を落ち着けて戦闘の行方を観察する。
虎杖と真人の一対一に、途中から新たな呪術師が援軍としてやって来る。真人が以前戦ったという『七三術師』であると見た目の特徴から判断した。二対一ともなればさすがに形勢不利かと思いきや、真人は追い詰められたことで呪術の極地・領域展開を会得する。グラウンドに現れた結界の中を外から覗くことはできない。真人の成長ぶりには思わず拍手を送った儚だが、虎杖が結界の内側に無理矢理飛び込んだことで事態は一変した。
結界は霧散し、中から現れたのは五体満足の七三術師と大きく負傷した真人。その消耗は激しく、最早戦える余力はない。
これはさすがに……。儚は、真人が風船のように身体を膨らませたタイミングで地上に降りる。虎杖の逕庭拳を受けたそれが軽々しく破裂したのを確認し、「お見事!」と声をかけた。
本丸が逃げる──そうと分かっていても、敵がもう一人現れたとなれば下手な動きはできない。七海は踏み出しそうになった足を咄嗟に留め、儚を睨む。
「あぁ、止まってくれてよかった。初めに言っておきますが、これはきみ達の足止め、時間稼ぎです。少しの間、お話でもしましょうね」
「虎杖君、奴は」
「人を錯乱させる奴、だけど何か……?」
「呪詛師ですか……」
そんな訳はない、と虎杖は否定しようとして、言葉を発するに至らなかった。校内で見た──虎杖が殴ろうとして出来なかった──儚は、確かに呪いの気配であったはずなのに、今目の前にいるそれを“呪い”であると判断できなかったのだ。見た目は変わっていないのに、どこからどう見ても人間だ。
七海は、まさか呪霊と呪詛師が手を組んでいるとは……と警戒を強める。
後ろ手を組んで相対する儚は、虎杖と七海の様子に小首を傾げた。
「人間相手であれば殺意は治まるものと思ったのですけれど」
「何故? 映画館での事も含め、貴方を宥恕する理由はない」
「呪術師は時に呪詛師も殺めるのでしたか。少々見誤りましたね」
儚は困った様に微笑む。それが表面上のものであるというのは、考えずとも分かることだった。儚には一切の動揺も焦燥もなく、同時にやや奇妙なことながら虎杖と七海に対する敵意の様なものもなかった。ただ穏やかに、にこやかに、平和的に──悪意すらなく、儚は話してみせる。
「今回、ぼくは順平に期待していたんです。彼が母へ向ける愛情は大したものでしたから。一時は、己の復讐よりも母の魂を穢さぬことを選んだ」
素晴らしいですよね。儚は心底そう思っているかのように、親が子を慈しむかの如き声色で言う。
「順平が抱くのは愛か、それとも愛情か。確かめる為に彼の母には死んでもらいました」
「──……は?」
「と言っても、ぼくに直接人間を殺せるだけの力はありません。ですから両面宿儺の指を用いて、適当な呪いを呼び寄せましてね」
片手の小指を立てて見せる儚に、虎杖は全身から血の気を失う。
虎杖は両面宿儺の器だ。各地に散らばった計二十本の指を集めるのは、彼の役目である。
(……宿儺の指がどこにあるかなんて、分かんねぇけど。俺が、もし、)
順平が凶行に至ったのは、間違った方向へ足を踏み出してしまったのは、──母の死がきっかけだ。虎杖は直接、順平本人の口から聞いている。
それ故に過ってしまったのだ。吉野凪と吉野順平、あの確かな絆で結ばれた家族が呪われることなどなく、これからも平穏に生きていく未来が。
順平は最期の瞬間まで儚に心酔していた。故に、両面宿儺の指を置いた下手人が儚であるなどとは微塵も思っておらず、その考えすらも浮かばなかった。冷静な頭で、母が呪い殺されたタイミングを考えれば、真実に至れる可能性はあっただろう。……尤も、その冷静さを欠かせたのも儚であるのだが。
儚が順平に期待をしていたことに関しては、紛れもない事実である。
かつて儚が見た“愛”、それは己が理不尽に浸されても揺らぐことはなかった。愛する誰かに傷つけられても、不変を貫いていたのだ。
順平が母へ真実の愛を抱くのであれば、母が死んでも復讐という選択をしないと踏んだ。否、そうでなければならないと。たとえ母が死んだとて、魂を穢すことを厭わなければ、愛ではない。
「残念です」
憂う儚の脇腹に、七海は鉈を振り抜く。
虎杖がそうであったように、七海にも儚を傷つけることに対する抵抗はあった。だが大人として、子供を守る責任がある立場として、──他者の心を弄び呪う存在を赦せるはずがない。
「貴方に愛を語る資格はありません」
十劃呪法により作り出した弱点。七海の攻撃は見事クリティカルヒットし、儚の身体は真っ二つに割れる。
(この奇妙な手応えのなさは……)
瞬間、いとも簡単に断ち切られた断面と、穴という穴から泥が溢れ出した。コールタールの様に黒々とした、粘り気のある呪力で生成された泥。これに触れてはならないと、七海は直感的に後ろへ飛び退く。
どろりと融け出した肉体が崩れ落ちる最中、儚は悲劇を唄う。
「なんて、心ない人間なんでしょう」
後に残ったのは、人間ひとり分の皮だ。矢庭に限界を迎えた虎杖が倒れ、七海はすぐさま高専へ連絡を入れた。
◇
そもそも。
唐突にそう発した儚を、夏油は横目で見る。
「ぼくは情が愛に昇華するところを見たことがない」
「へぇ、そうなんだ」
「しばらく人間と関わっていなかったからでしょうか……。こんな簡単なことも気づけないだなんて。吉野順平に情がある時点で、期待などするものではなかった」
愛だの情だのという儚の話には一切興味の無い夏油だが、悲しげに溜息をつく儚の顔だけは見ていて飽きるものでもないので、適当な相槌を打つ。
「傑がぼくを誘うから、こんな落胆する目に遭ってしまったのですよ」
「酷いな、私のせいかい? 誘いに乗ったのは君だし、誰も今の時代なら愛ある人間がいるだなんて言ってないだろう?」
「……そうですね。ただの八つ当たりです。怒りましたか?」
「いいや、全く。君を見ていれば怒る気すら湧かないよ」
「ふふ、確かに。きみがぼくへ、欲以外の情を向けたことはありませんでしたね」
愛とは比べるべくもないが、七情の内たった一つを抱く相手もなかなかに珍しいものだ。儚は控えめに笑い声を零す。
「そうだ。その事なんだけど──」
「?」